見出し画像

My Sweet Lord, All Things Must Pass

こちらも過去のblogで呟いた個人的な一人語り。やはり数年前で異なる時期に書いたものいくつか。エゴイズム臭の漂う、氣恥ずかしい内容のところもありますが…まぁ必要な誰かに触発を与えるものがあるかも知れないという事で、捨てずに転載しておきます。でもって、何本かをまとめたので、長いです。

画像1

知る者は言わず言う者は知らず

私たちの苦の原因は、私たちの執着にある
                 by ゴータマ・シッタルダ(仏陀)

画像2

私が占いを用いて他者の相談に乗ることをしていたのは、正確には高校時代からで、仕事にしたのは24歳の時から。途中やらなかったりの時期もあるが、ダラダラと40近くまで続けていて。

何度同じことの説明をしても、最悪を回避するためのアドバイスをしても、
こうしたいのならこうしたほうがいいと伝えても、

いつまで経ってもオウムのように同じ愚痴や不満を繰り返し言い続け、
「私には難しい」と自分が変わること努力することには消極的で。そのくせ、こうなりたい、あれが欲しい、こうじゃなきゃだめなのと、未来に対する期待とこだわりは半端なく、リクエストは常に最上級。いつも誰かのせいにし、運命のせいにし、状況や環境のせいにし、自分は変わらずとも何も努力をしなくても、ある日突然に状況が変わって、すべてが自分の望む通りになり、欲しいものが手に入っている幸福な人生が訪れるのはいつなのか?
(但しそのために自分は何のリスクも負わないのが前提)

そんな風に自分の欲望の奴隷になっている人が多く、執着から自分の本心も本来の自分の幸せが何であるかも見失っている人ばかりの現実に辟易しつつ、「占いでは人を救うことは出来ない」なぞと、占いを用いて他者の相談に乗ることに限界を感じ、フラストレーションとジレンマに陥っていた。

画像3

ちょうどその頃、たまたまレイキヒーリングを習うきっかけがあったり、偶発的かつ強制的にヒプノセラピーをやるはめになり…

「この人に必要なのは占いによるアドバイスではなく、
エネルギー(エーテル体)の状態を改善することなのでは?」
という状態にあったクライアントさんに対して、
お試し的な施療をして結果(改善)を得られたことから、

「なるほど、これだ!」活路を見出したものの、やっぱり数年で似たようなにぶちあたることになった。

もちろん立ち直って自分の状況を理性的に判断出来るようになり、自分の力を取り戻し、問題を解決出来るところまでに至るなど、混乱と迷いの森から脱出して自立できた人もいるにはいるが。

どうしても往来の考え方の癖や執着を手放せない人は多く、考え方の歪みや性格的な問題から引き寄せている憑依の問題や、過去生や他人からの良くない影響、カルマのレッスンといった課題、繰り返してしまう運命のパターンなど根深いものに関しては、本人が自覚した上で意識してそのことに向き合わない事にはどうにも・・・だったりするので…

これはもうきちんと霊的な知識を身に着けて、己が運命を作り出している仕組みを理解してもらわなければ、と。レイキの伝授やヒーリングを教える以外に、瞑想やエクササイズを教えたり、私塾みたいなスタイルで、霊的真理(心霊科学)を教えることを始めたのだけども。

それでも、エゴイズムの罠にはまり、己がレッスンと向き合わず、執着や私欲から逃れられない人は少なくないのです。

画像4

その度に色々とがっくりきてしまって、自分が出来ることの限界を感じていたのだけど、そもそも、「人を救う」ことなんて誰にも出来ないし、自分が他者に良い影響や感化を与えることが出来るなんて、思い上がりもはなはだしいこと。

他人を変えることなんて誰にも決して出来やしない。
その人を変えることができるのはその人だけ。
変わることを選ぶのも、選ばないのもその人次第。
すべてはその人が選んでいるんだから。

交流原則の基本、
「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」
を口にしながら見失っていたのは私自身。

私が誰かを「変える力」を持っているなんて、傲慢以外のナニモノでもなく・・・その人の問題を解決出来るなんて勘違いもいいとこ。

自分だって問題てんこもりで道の途中にいる人なのにね。
結局、私はクライアントさんの問題を、解決できる自分になりたかったんだろう。「助けて」と言われて、「助けられる」人に成ろうと、クライアントさんの期待に応えられる人になろうとしていただけで。

私が出来ることなんてたかが知れていて、ホント大したことは出来ない。

画像5

それに私は「占いでは人を救うことが出来ない」なんて、過去に思い込んでしまったけど(占いに意味無しって感じに)、その「占い」の段階のアドバイスだけでも、そこからヒントを見つけたり、希望気づきを得て、自分の可能性を見つけ出して、未来へと歩き出し、道を切り開いていくことが出来る人はいるし…

マグネティックヒーリングとしての気功や、レイキヒーリングの施療を受けただけで、氣が充実して、エネルギーのダメージが回復し、自分自身の力や生きる力を取り戻す事が出来る人も、運気が上がって人生が変わっていく人もいるわけで…

それはホント、無駄では無いわけ。

どの段階でも、良くなっていく人、良くならない人はいるし、アドバイスを無駄にする人、無駄にしない人、人の話を聞く人、聞かない人もいる。状況が改善する人、しない人、問題が解決する人、しない人、努力する人しない人、変わろうとする人、しない人…はいる。選択肢はいつだって、その人自身にある。

過去生の情報が役に立つ人もいれば、意味のない情報で役に立たないどころか害でしか無い人もいるし、過去生セラピーやヒプノセラピーを受けて問題を手放せる人もいるし、手放せない人もいる。憑依していた霊や生霊を取ったり、エレメンタルを書き換えたり、そういうハードワークをしないことには改善されない人もいるし…でも、それさえもすべては良くなっていく成長の過程において、その人にとっては意味のある事だったりする。

知識を学んだことでそれを活かして知恵に換えていく人もいるし、たくさんお金をかけてヒーリングを習得し、霊的知識を学んだって、教えの本質を全く理解しようともせず、相変わらず他力本願で勘違いに磨きをかけている人もいる。

結局は当人の問題だ。どれだけお金をかけたから、でもなく。

学ぼうと思えば、人はどんなことからでも学べるし、人生すべてに無駄は無く、起きていることすべてから学べるわけで。

その人か人生や経験から吸収することに関して、そこは私の責任では無いのね。今までの私は「救おう、救わなきゃ」とばかりに、私にはその人の人生の問題を「解決する責任があるのだー」みたいな感じで気負って、ものすごく肩に力が入ってました。

画像6

だから、気付いてもらわなくっちゃ、気づいてよ~! となって…あなたの人生の課題、これもあるよ、あれもだよ、と…余計なこと言いすぎでした。
早くカルマのレッスンをクリアしてもらおうと、焦って急かして、ぎゃーぎゃーと。

物事には適切な時期があるというのに。すべての出来事には意味があるというのに。

大事なのはその人自身が経験を通じて、学ぶこと。
自分の人生を生きて、経験して、知恵や生きる力を得ること。
その人自身が内側からのと出会って、内面から気づきを得ること。
自分の人生の意味をその人自らが見つけること

その人に起きていることは、良くないことも良いこともすべて必然で、
その人にとって、何もかも絶妙なタイミングで起こってる。

だから、無理に外野がそれを変えようとしてはいけない。必要で起こっていることを変えることは出来ない。出来るのはそのタイミングが来るまで見守ることだけ。それが起こるその日まで支えてあげることだけ。準備を進める手伝いをすることだけ。なんですよね。

この辺りは子育てと同じ。
自分が楽したいからって、子供の成長の機会を奪ってはいけない。子供が「覚えようとしていること」を取り上げてはいけない。その子が転ぶのを見たくないから、怪我をして泣いて欲しくないからと、手当が面倒だからって…石ころをいちいち取り除くことをしてたら、それはその子の「怪我」をする機会を奪ってしまうことになる。石に躓いたら転んでしまうとか怪我がどういうものかというのを、その子が知る機会を潰してしまうことになる。

そんなのはその子のためにはならない
その子を守ることではなく、
自分を守りたいがための自己満足でしかないから。

画像7

私もどっかで、仕事に対するスタンス、間違えてた。情熱とエゴイズムを錯覚して、勘違いしていた。随分と傲慢になっちゃってて、自己満足なセッションに陥っていた。レッスンの参加者に対しても、成長をサポートするどころか、自主性を妨げ、自立を邪魔して縛り付けてたかな。責任感と誠実さを混同して、完全にはき違えてた

脱落したり、反発して出てった人も、満足できず他所に行った人も、「ほっとけ」なんですよね。すべてその人には必要で起きていることだから。

去るもの追わず、来るもの拒まず…な姿勢でいいのに。そう…相手を無理に変えようとしなくていい。ほっといても変化のタイミングはいつか訪れるし、成長したいかしたくないか、時期も当人が決めること

理解できないことを教えようとしても、無理。知りたくないことは知るべきことでは無いし、知ったからといって、当人がそれを受け入れられるわけでなし。なんでもかんでも、「知った立場」から言うべきではなく、そういうのは愚の骨頂でしかないんだと。所詮奢りで自惚れでしかなく、知識をひけらかし、自分の力を誇示するためのパフォーマンスでしかないんだと。

画像8

先日、数年ぶりのクライアントさんがいらしたのですが、6年前の初見のときより状況が悪化しているとのこと。

初見で、やりたくない仕事(親の跡を継がれた)をしていて、なおかつそのやりがいの無い、好きでない仕事を通して、お金儲けと業務拡張に走っちゃってるのが良くないんですよって、これ以上、営利を追求したり事業を拡大するのは止めて、少しずつ業務を縮小し最低限の規模にして、その傍らで本来やりたかったことに近いことを始められては?と言うアドバイスをさせて頂いたんですが、そこはそれ。

いくら嫌々継いだ家業とは言え、「我が城」となったものをなかなか手放すのは難しいもの。まして養うべき家族がいるなら、なおさら。

思いきれないというよりは、
「うーん、現実的でないですね」と笑って流されてまして。

今回も結局は根本原因はソレだから、6年前のアドバイスと対して変わらず…だけど、今回はその方、聞く耳があったんですね。
うち以外のところでも同じこと言われたと。
「6年前にアドバイス頂いた時にその通りにすればよかった」

確かにそうかも知れません。でも、実際はこの方が今の心境に至るまでに、
6年の月日とさらに悪化した状況が必要だったんです。

ほら私が言った通りになったでしょう!では無いんです。
その時にアドバイスを受け入れてくれれば、今の最悪な状況は回避できたとか、そんなんじゃないんです。違います。予見してたとかはどうでもいい。

この方は痛い思いをする必要があったんです。どうしようもないところまで叩きのめされるような、奈落の底に突き落とされる挫折を経験しないことには、至れない心境、掴めない「気づき」が。

人間ってそこまで追い詰められないと、プライドや執着を手放すことが出来なかったりするんです。6年前に私が言ったアドバイスを受け入れてたとしても、この方が変わらなければ、別の出来事が起きていたでしょう。

画像9

そして、その手の職業の人に言われたからという受け入れ方では、当人は心の底では納得していないから、くすぶるものもあって、結果が気に入らない時に周囲や私のせいにしていたはず。

もちろん、本人の意識がシフトというのかな、現在起きているような最悪な状況が起こる前に、自分自身を見直すことや生き方の修正をしていれば、ある程度早い段階で避けられていたとは思います。

でもそれって第三者の誰かが起こすことではなく、当人が選ぶことなんですね。自分自身の声に耳を傾けるか否か。自らが気づかなければ…気付こうとしないことには、こればかりはどうすることも出来ないこと。

この人を、このクライアントさんの意識を変えるために、すべては必要なこととして起こっている出来事なのですから。

それに対して第三者や私みたいな職業のものが出来ることは、本当に小さく限られています。もちろん当人が求めたことに対して、こちらが理解できた情報や知り得たことを伝えたり、アドバイスはしますけれど、当人が知りたがらないこと、求めて来ないことに関しては、伝えようが無いのです。

そして、伝えたその情報やアドバイスをどう扱うか、その言葉や情報とどう向き合うのかは、相手の自由意志と選択に任せるしかありません。

改めて、当人に必要で起こっていることは、どうにも避けられないのだと思った次第です。これはどうにも変えられない。

人生のあらゆる出来事には原因があって、その人が原因を造りだし、引き寄せていて、当人にとって良いことも悪いこともすべて、その人を成長させ、意識を変え、気づきをもたらすことで、人生を修正させるべく働きかけている出来事であるのだから、干渉無用、関与すべきでは無い…ってことばかり。

この場合、その出来事に関して無力と自分を嘆くこともなく、起こることをじっと見守るしか無いのだと、痛感しました。

画像10

そして先日の記事に書いた、「私がこの仕事をする動機ってなんだっんたっけ?」「何をしたくて、私はこの仕事をしているんだろう」の答え。確かに私には「情熱はイラネー、過剰になるだけだから」なんですけども・・・

結局のところ、人の運命の変遷(魂の歴史)、不思議さを見るのが好きなんだというのに気が付きました。人間を知ることが好きというのかしら、そこに好奇心が働くのですよね。一人の人がこれまで生きてきた物語を知るのが楽しいっていうか。(もともと伝記や人物伝とか歴史とか事件史とか好きだし)
そこに尽きる。

あー それでいいんだなって思いました。
好きでないと面白くないし、つまらないから。

あと、クライアントさんが明るく元気になっていく姿、その人らしさを取り戻してまるで憑き物が落ちたように、その人自身もその人を取り巻く出来事も、良い方に変わっていく現実やその過程を見られるのも好きですし、生徒さんの目覚ましい成長を実感出来る距離にいるのも楽しい

だからもうそれで、それだけでいいんですね。
この仕事をする理由はそれだけで十分。

それでもって第一に、それで自分の特技というか、個性(霊媒で他人の過去生を見るのが得意)が生かせる道で、他人に重宝してもらえる知識や能力があるわけで、そこに自分が面白い楽しいってことがリンクするんだから、もうそれでいいやですかね。

ヘタな大義名分とかお役目ガーとか、イラネ。隣人愛はあっても、妙な使命感や博愛精神だの必要無いや。ヘンに理想や天命だのを掲げるとエゴイズムの餌になる。んなもんあると、反面教師だと他人をジャッジしていた、なまじスピリチュアルナルシズムの罠にはまるばかりだから。

お金を頂く範囲で、自分の出来ること(能力)を提供する、それ以上でも以下でも無い。感謝も尊敬も評価も名誉もなんも必要無いっす(お金で十分)。

そういうところで落ち着きました。

はい。肩書きなんて何も無し。私は聖人(聖者)でもグルでもマスターでも無い。私は大工の孫で、建具職人と縫製職人の娘でしかない。自分の知っていることを教えて、出来ること、持っている知識と技術でお金を稼いでいるだけの単なる職人なんです。

画像11


My Sweet Lord, All Things Must Pass 

※タイトルは大好きなジョージ・ハリソンのアルバムから

さて、目のことですが、視力は相変わらずで、新聞や本などの紙ものを読むのは辛く、PCを閲覧するにも見づらくて支障はあります。読み間違いも多いし、誤字脱字打ち間違いも気づかず。

で、前にここに書いたような現象、目の裏に色々と映像が浮かぶってのは、
あれ以来はとくに無かったりします(残念)。

思うに、子供の頃からオカルト的な心霊体験をはじめとした不思議体験、すなわち神秘体験などをそれなりにしてはいるのですが、二度目というか、継続的に同じことを経験することって、はっきりいって無かったなあ…と。

確かに怖い体験に関してはもう二度とはゴメンですが、至高体験とかは気持ち良かったし、アレは何だったんだろう?みたいな不思議体験とかは、何度でもどうぞ、なんですけれども。

ありませんなー

亡くなった人(殺人事件の被害者)が夢で犯人を教えてくれたのも、一度きりなんですよね。スプラッタは超苦手ですけれども、出来ればそういうのって、どなた様でも、何度でもご出演どうぞ、なんですが・・・

思うようには行きません。

画像12

まぁ、よしんば出てきてくれても、情報の活用のしようがないというのもアリます。

ただ、幽霊を直接視るのだけはごめんなさい。実物視るのはホント怖い。身内の霊(祖父や祖母)でも、悲鳴上げまくり、失禁して気絶しそうになりましたから。職場でも悲鳴あげて、口から泡吹くばかりに驚き、白目状態に放心したことあり←お陰でヤバイ人扱い

アレは本当に慣れません

死んだ人の映像に関しては、頭の中…脳内映像に限ってのご出演でお願いしますって、そんな制限付きでないと心臓麻痺起こします。(ホラー映画は怖いもの見たさで見てしまうが)

で、結局…なんであれやこれや色んな体験をさせられているかって言うと、
「こういうのもある」「こういう視え方もある」とか、とりあえず一通り色んな段階・パターンを経験しておけって、多分そう言う事なんでしょう。

他人がした経験、クライアントさんや生徒さんの体験話や状態を理解するための事前知識で踏石といいましょうか。

何にしても、自分が経験しておかないことには、それがどういうことでその後どうなるかとか、対処法にしても説明にしても出来ませんし。だから、何度も繰り返す必要は無く、同じことを再現してそこに耽溺したり、その状態を維持・活用していく必要性も無いみたい。

こないだの、目の裏に映る映像も、「こんな風に目の裏に視える人もいる」
「ときに、こんな視え方をすることもある」ってなもんで、とくに意味は無かったかと。そういう意味で、私はやっぱり、人に教えるのが本業なんだって痛感します。それありきの人生でもあると。

(どうでもいいことですが、従姉妹たちは保育士、幼稚園教諭、保育園経営をしていたり、姪二人や甥や甥嫁は中・高・大とで教職に就いているし、叔父も自衛隊では教官という指導的立場だったなーと…気が付けばそういう親戚が多いですね)

画像13

霊的な事柄に関しても、こういう理屈で原理なんだと教えてもらい、あくまで垣間見させてもらって体感させてもらっただけで、その道をプロとして極める必要はなく、(もちろん技量も霊格もないわけで)さわり態度知ってればいいって、それだけのこと。

例えば、お酒造りをするならば、米作り(農業)と水のことは知っておくのが基本とばかりに、ありとあらゆる、範囲の広い体験を認識させられたって、そんな感じでしょうか。

スピリチュアルセラピーの現場では、どうしても今生や過去生の情報やカルマのレッスンとか、その人の考え方や性格や心根の問題だけでなく他人から飛ばされた生霊(想念)や自分で作った想念体、憑依などで影響を与えている霊的な存在やら、先祖や因縁的なものetcどうしても原因が多岐に渡って複雑に入り組んでいる、そんなケースだけでは終わらないから、どうしても広い範囲で見て、浅い知識ででもざっくりと、自分(私)が出来ること出来ないことを見切る必要性があるし、それがサイコセラピーと言えばそうなので、出来ないことのほうが多いわけだけど(実力不足なので)、それでも"あたり"をつけて、出来る限りのことはとりあえずやってみるしかない。

原因が判っても、技術が追い付かないのが実状。それが私の限界で。

だから、私よりも出来る可能性、実力(霊性)を秘めた人・・・
磨けば光る才能を持った人を育てていくのも仕事。

サイキックな能力が開花しつつある人の、スピリチュアリティを高めて、花開かせるのがお役目の一つ。そのための、今までの経験であると私は理解しているのです。霊的指導者というにはおこがましく、そのようなことが出来る人格者でもないけれど・・・

個人セッションでは、あくまで"運命の整体師"として、その人が生き方を間違えてちゃってますってトコをくきくきっと矯正しつつ、あなたのカルマのレッスンこれでんがなって、辛口に人生の批評家になりつつ、スピリチュアルスクールのセンセとしては、人生という「自分育成ゲーム」攻略法を教えつつ、優秀な、未来のサイキッカーさんのコーチとなって、宗方仁のように「岡!エースを狙え!」とばりに、飴とムチもって、しごきを繰り返していたり。それをするがためのこれまでの人生。

そして、病弱で学校や仕事を休んで寝てて、本や漫画ばかり読むしかなかった時期があるのも、映画をたくさん見ることが出来たのも、音楽が好きで、歌うのが好きだったのも、このブログであれやこれや書くのに、引用するにしても知らないと書けないから、そのために読書や視聴する時間を与えられたんだなあって思います。

そんな風に人生はうまく出来ている。すべてのことは必然である。本当にそう思います。

世の哀しみを減らすために私自身が出来ること

先週のことですけど、数年ぶりかで映画を見てきました。映画を見るのは好きですが、今はTVを所持していず、PCでDVDを見るにも徒歩圏内にレンタルショップが無いこともあり、とんとご無沙汰でした。映画館も行かなくなると情報入らずで。視力のこともあり、小さい字幕を見るのが無理というのもありましたが…

その映画を見ようということになったのは、当日の午後、渋谷にて開催されている、抱きしめる聖者アンマのダルシャンに一緒に行こうという話になっていたので、ちょうどその映画のことを知った友人が是非見たいが、休みがその日しかなく、タイミングよく同じ渋谷で、上映時間もピッタリ合ったからなのでした。

映画のタイトルは「ライオン~25年目のただいま」

どういう内容かも、誰が出るのか、何の事前知識も無く、その後はどうせ一緒に行動するのだから、お付き合い程度に、たまには映画もいいかな位の軽い気持ちでした。

インドが舞台と聞き、アンマはインド人なので、偶然にも今日はインド一色だね、なんて調子で。たまたまレディースディだったのでラッキーと思いきや、この映画を見た事自体もラッキーでした。友人が誘ってくれなかったら、作品のことも何も知らず、見逃していたことを考えると、必然とも言え、友人に感謝です。

まあ、その・・・色々と考えさせられる映画でした。

どういう内容の映画だったかをかいつまんで説明すると…

インドの貧しい母子家庭(兄妹4人)に育った五歳の主人公が、誤って回送列車に乗り込み、そのまま寝てしまい、1200km以上離れたコルコタの町に着いてしまい、言語が通じない事から迷子になり、さらにストレートチルドレンになってしまうものの、親切な人に出会えたことからなんとか警察に保護される。が、五歳という年齢で親の名前や出身地を言えないことで、身元が解らず、 コルコタの新聞にて尋ね人広告を出すも、1200km離れた町には届かず、結果孤児院へと。
しかし、そこで運よくマザー・テレサの教育を受けた女性が主催する、海外への養子縁組を斡旋する人権団体を介して、オーストラリアはタスマニアの愛情深い里親の元に引き取られる。が、海外留学をしてインド人の同級生たちと交流をしたことから、故郷や実の家族に自分の無事を伝えたいという想いが強まり、フェイスブックやグーグルアースを通じて、五年もの歳月をかけ、幼少期の記憶から自分の出身地を探し出すことに成功し、インドへ旅し、家族と再会する‥と言うもの。

画像16

実話がベースになっていますが、ドキュメンタリーではなく、映画として形作るため、はしょっているところや脚色しているところなど、そこはそれ、映画という原作を元にした二次創作だから、はい。

友人はこの映画のテーマ(インドという貧しい国の実状や養子問題)の重さにズーンとなってしまいましたが、

私のほうはその辺りは想定内というのかな・・・
わりかし第三国の問題に関して事前知識もあるのと、もっと悲惨な民族浄化物をたくさんこれまでに見てきているので、臓器目的の人身売買のための誘拐とか、孤児院の職員が小児性愛者に子供を「貸し出し」するシーンとか、現実にあることとして受け止められちゃったりしますね。今さら感情が動かない自分のことを冷酷な人間だなとも思うし。

画像17

インド映画はこれまでも、サタジット・レイ監督の「大地のうた」とかの牧歌的なものや、ボリウッドに代表されるマサラムービー「ムトゥ」とかハチャメチャな娯楽もの。一番好きな「きっと、うまくいく」それ以外にも、観終わった後、ズーンと来る「女盗賊プーラン」とか。オリビア・ハッセー主演の「マザー・テレサ」とか「カーマ・スートラ」とか、アメリカで制作されたインド人監督のものも見たりしましたが・・・国単位の見た本数としては少ないほう。それでインドという国のすべてを理解出来たかというと、それはありえないし、一部しか覗き見していないわけで。

ただ非常に混沌とした国で、のんびりとした面がある一方で、カースト制度により、未だに非人道的で理不尽な人種差別や、女性蔑視、ありえない常識やルールがあるのは、近年伝えられる海外ニュースからも察せられるかな。
数字のゼロを発見し、数字に強い天才的な人も排出し、IT大国でもあったりするけれども…サイババみたいな奇跡がカリスマ的な人気を博していたり、貧富の差は激しく、ガンジス川では死体も洗濯物も一緒くたで、路上生活者や物乞いなど、野良猫のように餓死する人も多々。

画像18

話を映画に戻すと、この映画の「25年も迷子で家族に会えなかった」という話を、「え?どうしたらそういう話になるの?」と、列車で遠くに行ってしまっただけで親元に戻れなくなることが、信じられない、想像がつかないと言う反応をする人が多いらしい。得てしてそれは先進国に住んでいる人のセリフで。

まあ、日本と言う、全国統一が成されて何百年も経った国ではそうか。日本の鉄道網も警察も優秀で、言葉も日本語で統一されているし、新聞も全国で発売されるし、テレビもそう、全国ネットがある。ほとんどの人が「情報」を手にすることが出来る。なので、今の日本ではまず起こり得ないこと。

画像15

インドは州によって言葉が違い、公用語でさえ何種類もあること。治安がとても良いとは言えない国で、地域によっては警察も公務員も腐敗しきっていて、刑務所に収監されたほうが暴力やレイプにさらされる危険が高いこと。貧富の差が激しく、子供の誘拐事件は年間で8万人もあるが、その子たちの行方を捜したり、気にしたりする人は少ないこと。道端で餓死する人やストレートチルドレンが死んでいたって、野良犬程度の扱いであったりすること。

今のインドは知らないが、少なくとも映画の主人公、実体験をした原作者が迷子になった当時のインドではそうだった。

さて、私がこの映画をして驚かされ、感動したのは、主人公に起きた幸運的な奇跡の数々と、幼少期の想い出を覚えていられたという事実。あと、人の幸福、子供の幸せってお金じゃないんだなってこと。

養父母の元で養子になったのは、主人公のサルーともう一人、マントゥッシュという同じインド人の男の子なんだけども。彼はとても精神的に不安定で、いわゆるトラウマを抱えており、フラッシュバックから暴れて、素直に親に甘えられず、成人してからはドラッグに溺れて自堕落な生活を送っていた。このあたりは映画にドラマ性をもたせるため、かなり大袈裟にしているみたいだったんだけども。

彼がそうなっちゃったのは実の家族から虐待を受けていて、なおかつ、インドの孤児院に居たとき、性的な虐待も受けていたから。

対してサルーは、とても貧しくて、毎日お腹を空かせていて、とても不衛生で酷い環境で育ったのだけども、母親は子供達を分け隔てなく、かつ惜しみなく愛情を注ぐ人で、子供達のために過酷で辛い仕事を頑張る人だったんですね。だから、兄たちも弟を可愛がり、とても家族思い。

養父母もとても素晴らしい人たちで愛のある人たちだった。

同じ養子として、同じ環境に引き取られ、愛情深い養父母に育てられたというのに、二人のその差はどこから生まれてきたんだろう? もちろん、元々の資質、性格の差もあるでしょうが。

でも、サルーの場合、五歳になるまで、面倒見のよい兄たちと子供想いの母親の懐の中、物質的には恵まれて無くても、そうした愛の記憶があったから・・・というのが大きかったんではないかと。

マントゥッシュは子供が一番親の愛を必要としている時期…自己肯定が創られる時期(第一チャクラと第二チャクラ)に、十分な愛を受けられなかったどころか、悲惨な体験をして、ズタズタにされてしまったから、その後も傷を抱えたのかと。

まあ、そんなこんなで思うことあれこれ。

画像19

さて、インドで年間8万人の子供たちが行方知れずになるけど、先進国たるアメリカでは23万人だったりする。こちらは同じ人身売買といっても、児童ポルノの犠牲者がほとんど。中には猟奇的殺人事件の犠牲者になっていたり、離婚して親権を取れなかった親による誘拐も含まれているけど。

臓器売買目的の誘拐はインドだけでなくて、インドネシアやタイ、フィリピン、南米などでもたくさん。

ストレートチルドレンはロシアにも南米にもアジアにもてんこもり。
アフリカでは児童労働児童婚子供兵士の問題などもある。

かと思えば、お金のために人を平気で殺す人たちもいる。つまらないことで感情を害して、ゲームのように人の命を奪う悪鬼のような人たちも。

衣食住足りて、人はようやっと他人のことを考えられる余裕が出るという。

だがどうだろう。
衣食住足りていても、人の欲望に際限は無く貪欲さは増すばかり。
お金のために、お金を得るために、稼ぐために、人は人であることを見失って、大切なものを忘れて捨てていく。豊かになったモノ余りの国では、孤独死も過労死も自死も増えるばかり。

テロは無くならないし、中東の和平は遠く、アメリカはパリ協定から逸脱してしまった。中国の大気汚染は深刻で、災害からの教訓もどこ吹く風。

相変わらず世の中は問題でいっぱい

画像30

こうした世の中の現状を考えるとき、自分は何が出来るんだろうって再び考えた。

インド映画を見て、考えて、そして奇しくもインドからやってきた、抱きしめる聖者アンマの慈善活動などを改めて見直して。

今の自分が出来ることって何だろう。

それは私自身を活かすこと。私にしか出来ないことをすること。もちろん、募金のような金銭的なサポートも微力ながら続ける。祈ることも続ける。

そして、後はやっぱり、私自身がきちんと自分の人生を生きること。自らをきちんと成長させていくこと。後は本当に、地道で些細な力でしかないんだけども、スピリチュアルセラピストとしての仕事を通して、クライアントさんの問題解決の助力になっていくこと、そのために知識を吸収して、勉強して、自らを鍛錬して高めて、人に分け与えることができる力を常に蓄えて、備えておくこと。

この仕事を一生懸命するしか能がないのです。
クライアントさんの過去生を解放したり、その人が望む未来を創造するために邪魔になっているものを取り除いて、その人がその人らしく生きられるように…生き生きと、本当の自分の人生を生きられるように、一期一会のセッションでの出会いを大切にして、限られた時間の中で全力を尽くして、(いつでも全力を尽くせる状態でいられるよう自分を磨いて) とにかくホントそれしか出来ないんだよなって、この仕事を通して、世の中の不幸や悲劇のタネを、少しでも、一つでも無くしていく努力をするしか無いのです。

それしか出来ないし、それを頑張るしかないって、
改めて想いを強くした今日この頃の私でありました。

10年目のリセットと気づき

私には生まれる前、そして生まれた時の記憶がある。
もっとも、それはとても断片的なものであるが…

里帰りしての出産だったので、出生地は関東ではなく親の郷里である鹿児島。産院の大部屋に入院している母、そして生まれたばかりの自分の姿を、私は病室の少し上から見下ろしていた

その後の記憶は退院してから。
年が明けてから…たぶん2月だったか。泣き出しそうな重くて暗い冬の空、雪が降りだしそうな寒い日に、徒歩で母の実家へと向かう途中、何故か母方祖母の手に抱かれている自分。白いおくるみ印象的だった。(しばらくは産院に近い、父の実家にて過ごした模様。母と父の実家は車で30分位だが何故か徒歩での移動。※ちなみに当時は九州にも雪が降ることがあった)

画像19

視点はあくまで俯瞰であって、祖母を見上げているのではなく、抱かれている自分と祖母と隣に歩いている母。そしてもう一人叔母とまだ幼い姉がいた。

どうしてこの景色を覚えているのか…どうして私は赤子たる己が肉体の中にではなく、外から他人事のようにこの様子を眺めていたのか…

この記憶があることを不思議に思うより以前に、何故に私はこの家に、この両親のもとに生まれてくることになったのだろう?と、自問自答し、後悔することのほうが多かった。

生まれてくる親を子は選べないとは人の云う。
しかし、私は確かにこの母、環境を選んで生まれてきたのだった。

画像20

今だからこそ解るのだけど…私は単純にこの母を、気の毒に思い、助けたかったのだと思う。

親の決めた結婚相手に嫁いで知らない土地に来て、旦那はシスコンのマザコンでおまけに経済DV男で、小姑二人のイビリにあい、念願の長男を亡くして、実家では搾取子だから居場所なく帰れないまま、長女遺して死ぬに死ねず、病みかけているこの人を。

ああ、そうだったな…と思い出したのが近年。

でもようやく気付いたんですよ。

何でもかんでも他人のせいにして、私はなんて不幸なのヨヨヨって浪花節に酔っちゃってる人は、どうにもこうにも救いようが無いんです。

親のせい、生まれ(貧乏)のせい、時代(戦中戦後)のせい、学校行けなかったから、好きな相手と結婚できなかったから、こんなマザコンシスコン男と結婚したのが運の尽きだった、イジワル小姑が悪い、父実家の人たちは酷い、子供がいたから別れられなかっただの、もうね、状況のせいにして悲劇のヒロインになりたがる人はどうにも助けようがないんだって、実感させられました。ずいぶん長い時間無駄にしちゃったなあ、と痛感しますけどww

こういう人は…私の母みたいな人は、自分の人生の責任を何一つ自分で取ろうとはしないんですから。いつだって何処だって、どんなことでも他人のせい、周囲のせい。とにかく私は何にも悪くないって、自分の問題点を一つも認めようとしないし、一向に非を改めない。

嫁いだ相手がダメだこりゃな相手だったら、裸足で逃げ出せばよかったんですよ。学は無くても、社員経験はあるし、手に技術も持ってた。偏狭な九州と違って都内に近い関東なんですから、仕事だって探せば何とかなったでしょう。子供がいるから離婚出来ないなんて、甘えですよ。中絶できないから生んだとか言うけど、私が出来たから離婚出来なかったってイイワケする前に、私のこと中絶すりゃ良かったんですよ。それでて子供に危害加えられても助けも守りもしないし、離婚する勇気とか無くて、子に対する愛情も無くて、結局独りで生きていくのがイヤだっただけじゃんて、もうね。

ようやくこの結論に行き着いた決定的な出来事があって、
あれやこれやそうだなあ、と自覚した次第です。

私のこの甘い認識は、仕事にも反映されていました。

画像21

今生での母への同情は、同じく周囲の人やお客さんに対してもそうで。人生の荒波で溺れている人、どん底の苦しみや慟哭の辛さを抱えて、やりきれないネガティブな思いに囚われて、不幸の連鎖から脱出できずにいる人。奈落に転げ落ちるようなにっちもさっちもいかない、四面楚歌の壁に阻まれて、絶望の底にいるような人。

そんな運命の迷路で彷徨い、舵を見失ってしまったかのような人に、運命の抜け道を探してあげたいなって思ってたんですね。希望を与え、光ある方向を見つける手伝いをしたかった

自分に自信が無かったり、生きる気力を失っている人に…理由なき苦しみやトラウマに悩まされている人に…その原因を取り除き、その人本来の力を取り戻す、そういうサポートをしたいとずっと思ってた。

占いにしてもヒーリングにしても、その手段にしか過ぎませんが。結局そのどちらにも限界があったから、根本的な問題解決として自分の問題に向き合ってもらい、望むような創造的でよりよい人生を生きてもらうためにも、人生の、運命の仕組みを(どのようにして人生が創られるのか)知ってもらい、その上で様々なテクニックとしてのエネルギーツールを教えるためのスクールを始めることになりました。スピリチュアリズム(霊的真理)を基礎とした、エソテリックな人間塾グループレッスンです。

それが10年前のこと。

画像22

当初はリクエストを頂いての成り行きから始めたことでしたが、
次第にそれはもっとも私が力を入れるライフワークへとなりました。

やはり、一回きりの、何かあったときの問題解決のサポートとしての、個人セッションでは限界があったので、継続的に、それぞれ個人が潜在的かつ常習的に抱えている問題に対し、定期的にサポートして、なおかつ共に考えることの出来る、チームメイトで同胞たる仲間がいることはとても有益で、複数の人間の意見を聞いたり、アドバイスを受けたりすることは、個人セッションより何倍も有意義な時間をもたらしてくれました。

でも、それでもやはり人が集まると色々問題は起こります。トラブルが発生することを避けることは出来ません。知識を得て、何かの技術を取得出来る段階において、人は慢心することがあります。

同じスタート地点から始まった人と比較して、自分のほうがクラスメイトより優れているとか劣っているとか、コンプレックスを抱える人もいれば、驕りが生まれ、優越感に浸ろうとする人もいます。先生のお気に入りになろうとする人もいます。

知識やテクニックを得たことで、そうした知識やテクニックを持たずも周囲を見下すようになってしまう人がいます。自分のほうが「友人」や「仲間」よりも秀でていて、能力が上とばかりに傲慢の罠に囚われてしまうのです。

スピリチュアルなことを学び、サイキカルな能力が目覚め始めた人によく見られる兆候です。このような人はごく一部にしか存在しませんが、必ず一定数は出てきてしまいます。

画像23

自分の人間的な欠点に目を向けず、何を学びに来ているのかを根本的に理解しないで、ただ自分を悩まさせている問題や事象が、自分の期待している方向に、ただ解決することを期待している人も多いです。これは一般的にみて仕方ないかなとも思います。学びが進む段階において、知識を身に着け、自覚が生まれたり、視点が変わっていったり、問題意識が高まってくるかどうかなので。

エソテリックな学びの場においては、グループになったとき、学びもグループ単位になり、お休みする人がいたりするとグループとしての波動も下がります。学びの場に参加して、ともに支えあい、互いの問題を考え、同調して取り組みあうことで個々の波動が上がるので。でも、この過程でエゴイズムが露出します。個人も大事だし、協調性も大事。だけど同じ仲間となった人に対しても責任がある。グループの一員として、他の人の学びに対して責任を持つというか、手助けをしようというサポート意識連帯感もすごく大事で。

ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために

誰よりも自分の問題でレッスンの時間を割き、仲間のサポートをたくさん受けていた人ほど不義理な止め方をしたり、挨拶もなく、音信不通になります。何年も一緒に関わって、助け合ったり、助けたり、共に泣き笑いしたように思っても、人間社会のルールもマナーなんてあったもんじゃありません。置き忘れた私物を送付しても、なしのつぶてです。

人生が障害だらけ、上手くいかないって人は、その人自身の考え方によるものが大きいってそれだけなんですが。カルマのレッスンでわざとそうなってることのほうが多く、ある意味で、性格や考え方の歪みを「気づかせるため」であり、暴走させないための重石みたいなものなのだと思います。

この辺りは、その「重石」が一時的にでも軽くなると、すぐにその人本来の性格が顔を覗かせるから、すぐ解ります。状況が改善されて、自分を苦しめていた問題が解決したとき、そのことに対して謙虚に感謝して、本来の直さで生きられる人と、調子に乗って本来の傲慢さと我がままに拍車がかかる人とに、だいたい大きく分かれるからです。

スクールでは、後者の人はすぐに天狗になるから解りやすかったです。

画像24

人生が上手くいかず、にっちもさっちにもいかなくなって、行き詰まって、藁をもつかむ思いでいるときには、人の話に耳を傾ける人は多いです。でも、問題はそのあと

自分を悩ませている事象が消えた途端、それまでの謙虚さは一気に消え失せてしまう。

ああ、だからこの人の「問題」は解決しちゃいけないんだな。本当に気づくまでは苦しまなくてはいけないんだな。でないと、またもっと大きいのが後からやってきて、其のときにはきっと取り返しがつかないんだろう…

そういう人って多いです。「重石」が取れてみたならば、自己中さが赤裸々にむき出しになる。

でも、そのような要素がある人だからって、最初に突き放すことは出来ません。途中で気づいて、人としての良心に目覚めてくれることも多々あるからです。

でも、直りたくない人は直らない
自分が変わりたくない人はいかようにしても変われない。

他人がその人を変えるわけでは無く…

私は変わりたい、成長したい、人生を変えたいと、そう望んでいる人をサポートすることは出来るけど、変わりたくない、変わろうとしない人を手助けすることは、どんな人にも難しいことです。

マイナスに投資してもゼロにしかならない。

人を救うなんて本当に驕りでしかないけど、私が今回の人生で「この人の娘に生まれて、母であるこの人を救ってあげよう」なんてのは笑止千万の驕りでしかなかった。偽善的な甘いドリームでした。

画像25

自分本位の女性って、人と話していても、直ぐに自分中心の話に持って行ってしまい、”私は私は”とずーっと一人で話しているのだそうです。

そして、人に自分の事を否定されたりすると、直ぐに逆ギレしてしまい、自分は間違ってない、自分は可哀相だと騒いでしまうようです。

こんな女性、結構、居ますよね。
この事を、「境界性パーソナリティ障害」と呼ぶようです。対人関係や自己に対するイメージなどの広い範囲において、激しく考え方や感情が変化して行く特性がある障害だそうです。

                     by 某ブログより引用

画像26


看護士の知人が、当時働いていた心療内科の病棟にて、患者さんに引きずられて、精神を病んでしまう医師が多い、と言っていた。(自らに処方箋を書いて、薬を飲まずに居られないそう)

自らの内面の闇や性格の異常性や問題に気づいて、心療内科や精神科を受診する人は重篤だろうが、重篤であっても自らの異常性に気づかないもの。薄々気づきつつ当人も周囲も認めようとしないもの、そういう人たちは外にある事象にその原因を求めがち。

すると、中には「運命」や「霊的な要因」あるいは、「過去生」などの問題に責任を転嫁しようとする人もいる。本当に原因がそこにある場合もあるけれど、上記に引用した文章中に示されるような、

・境界性パーソナリティ障害
・自己愛性パーソナリティ障害
・妄想性障害
・統合性失調性
・発達障害

などの人も占いや霊能的なことに助けを求めてきたり、チャネリングやリーディング、ヒプノセラピーなどのスピリチュアルなワークの門戸を訪ねてくることも多いから、その手の人をいかにして、本当に必要な医療的ケアやサポートに導くか…

と言うのは、この手の仕事に携わる人の悩みの種でもあり、
対処法を学ばなければならない課題であるかも知れません。

何故なら、私たち、スピリチュアルワーカーは、医師ではなく、診断もその手の専門的治療も出来ない存在だからです。

画像27

かなりの早い段階で、そのクライアントさんがそうした精神障害の問題を、抱えている人であるということを見抜いて、理解した上で適した距離の取り方や対処法をとっていけば、症状や状況の悪化も防げて、一番良いのですけれど。

私のところに来ていた、境界性パーソナリティ障害の人は二人ばかりいて、
引用した文章の通り、何かというと「私は、私は」と、他人の話にすぐに割り込んで、その話題を取ってしまう。他人の話を横取りするというか、すぐに自分の話とすり替えて、自分が主役になって、延々と自分語りをする。

そして、一対一の時はしないのだけれど、三人以上で話をしていると、必ず誰か一人を無視して、のけ者にしてしまう。誰かしらをハブるわけです。自分の仲間うちの集まりに部外者を連れて行ったなら、自分の連れのその人そっちのけで、その人にわからない仲間うちの話をして、アウェイの人を放置する。

これって意図的にわざとでなくて、無意識なんですよね。

自分は常に悲劇のヒロインで、被害者の立場。性格の問題や欠点を指摘されて、非を責められても、いつだって相手が加害者で、自分は悪くないと、怯えて傷ついた自分をマヤって、同情を引き、相手をワルモノにして味方を作ろうとする。

単純に性根の腐った性格の悪い腹黒女、と思いきや、
もうこれは人格障害なわけです。

でも、当人が自分が「人格障害」であると、何処かで気づいて専門的な治療を受けないことには、どうにも治療は難しいでしょう。こういう人にはスピリチュアルな知識は理解できず、むしろ下手な自己弁護と言い訳の材料。
他人や霊的事象のせいにする都合のよい理屈に勝手にされてしまいます。

自己愛性パーソナリティ障害の人もそうです。
知識を正しく理解し、自分自身の問題と対峙して、人生を生きる上でのノウハウとテクニックと使うのではなく、自らの正しさや存在価値を証明するための道具に、オカルトやスピリチュアルな知識を利用しようとするなど、主に己がエゴイズムの承認欲求を満たすためだけに、力を手に入れようとしたり、知識を理屈にすり替えようとします。こういう人は、スピリチュアルな教えを説くものに対して、自己投影が激しいので、同化意識を持ち、しつこいくらいに、ものすごく執着してきます。自分を認めさせようと、付きまとってくるのです。

画像28

このようなことを理解するために、講座を開いた10年だったような気がします。その意味で、誰でもない私自身が、多くのことを学ばせて頂き、貴重な経験を得ました。

そして こうした人々が表してくれた問題の中に、
私自身の問題の種を見出すことが出来たのも大きかったです。

多かれ少なかれ、私自身の中にも、彼らは存在していました。

彼らと対峙することは、自分自身の問題と対峙することでもあったと、
いまはよく理解しています。

人生とは本当に無駄は無く、すべてが学びなのだなと思います。どんな出会いにも意味があり、必要でない出会いや出来事はありません。すべてが必然なのだな、と実感しています。

自分に必要なものはすべて人生の中にあるのだと…自分を成長させる経験は、人生において、ぜんぶ用意され、提供され、与えられているのだと、

私は自分の人生でのことを振り返って、つくづくそう思うのです。

画像29


もし、こちらの記事を読んで頂いて、面白かった、参考になった…とそう思って下さったり、サポート下さいましたならば、心から嬉しく思います💛