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土地と神さまのエネルギーと伝承と

さて、これもまたクライアントさんから頂いた質問に関して。

ちなみに頂いた質問は、

「ネットなどで龍神さまのことを調べると、
 荒い神様だとか難しい神様とか
 色々と恐ろしげな事が書いてあるんですが、
 ××社で感じたエネルギーはそんな怖そうなものではなかったですし、
 なんとなく瞑想時に感じる龍神さまのエネルギーも、
 親しみがあるようなイメージで出てこられるのですが・・・」

というようなもの。

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さてさて、龍神さまは、自然界に存在するエネルギー(氣)のひとつの形だったりします。氣の塊に、人間の想念(氣を原料として練られたイメージ)が入って、さらに加工されて形作られたもの、といいますかね。

神道の、私たちが「神さま」と呼ぶ存在も大体そう。

もともと、そのような形態だったというより、人が「氣の塊(状態)」という形骸を見て、その形状からイメージして、存在としての形を与えた、という言い方でも良いかも知れません。

※この辺りはあくまで私の意見・一個人の解釈、一つの説として受け取って頂ければと思います。受け取り方や認識には差異がありますので、個々の解釈、他の方の意見も参照下さいね。私という個人はそのように解釈し、理解しているということでの自説ですので。この考えがすべてで唯一正しい認識であるとか、他人にその見解を押し付けるつもりはありませんので。

長くてうねうねしてるから、蛇に見える、蛇に見えるけどもっと大きいな・・・こんな形に見える、として、創造して龍の絵を書いて、それを見た人が「龍ってこんなん」と思い、それが流布して、そのような形に人々が「見る」ようになる・・・というような。

もともと単なる氣の塊だから、性質こそあれ性格とかはないのだけれど、人々が創造した想念(思念)とくっついて、それを吸収して、個性というか特徴が出てきたり。

だから、もともとどんな土地にあって、
どんな想念(心)を持った人々に代々拝まれてきたか・・・で、
その神様の性質、性格は異なってきたりするのです。

醜い心、邪念とか、ネガティブな考えや心根の人たちの利己的な思念、
そういうエゴイズムを吸ってきてしまったものなら、良くないものになるし、気が荒く、戦闘的で好戦的な人々に拝まれてきたのなら、とても短気でとっつきにくい、荒々しい龍神になっているでしょうし、心優しく、正直で、謙虚な人たちに敬われてきたのなら、とても格の高い、神々しい龍神さまになっているでしょうし・・・

なんですね。

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なので、その土地の神さまの性格っていうのは、土地柄といいますか、住んでいる(た)人々を表しています。神さまっていうのは、土地のエネルギーでありながら、人々がこさえていくものだから(みんなの思念が創っていく)。
つまりは、「信仰心」が育んできたものなんです。その土地に住まう人々の「信仰心」の現れ・・・共同体としての集合体無意識そのものの反映なので。

とはいうものの、集落が育てていくものもあるけど、個人としての一族が拝めてきたものもあるので、例外もありますが。
あと、初期設定というか、創られて間もない頃の情報・・・その神さまというエネルギーが創られた、一番最初の頃のデータ。これが格になるので、この段階でどんなものになるか、だいたい決まるのですけど (後からは、なかなか書き換えが難しい)。

龍神さんは、赤龍、青龍、黄龍、緑龍、白龍、黒龍、紫龍、銀龍、金龍など、色んな色のがいますけど(だいたい九種類)、これは龍神とされた「氣の塊」の性質、気質としての「波動」を表しているのですね。色と言うのは波動ですから。オーラの色分けと一緒です。色がその龍神の性質を現していると思ってくれていい。

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神道というか、古来の日本の神社というのは、
もともと「社」はありませんでした。

この辺りの話は拝み屋さんや神主さんだったりな知人、そちら方面の人からのお話を伺っての聞きかじり知識がベースなんですけども。

土地のエネルギーの強いところ、大地から強い氣(エナジー)があふれていたり(レイラインのツボ)、天から強い氣(エナジー)が降り注いでいる場所だったりして、そこにシンボルとして、「木」を植えたり、石をおいたりして、そこで儀式や祭礼を行う場所にしていただけとのこと。

祈りを捧げたり、感謝をしたり、するための場所。(成り立ち・始まりとしては)

豊穣を祈願し、お天気のことを願い、占いをしたりもありましたが。ここでいうところの神さまってのは、大地そのもの、天地そのもの、自然そのものなもんだから、目に見える存在として、具象化されたものではなかった。

だけど、仏教が入ってきたとき、建物としての寺がちゃんとあって、崇拝の対象としての「偶像」(仏像)があったりして、それは人々にとって、とてもわかりやすいものだったんです。

でもって、仏教に対抗するかのように、建物としての「社」を建てるようになり、親しみを持ってもらうために、神格化されたキャラクターと結びつけていくようになったんです。伝承というか、「謂れ」があったほうが、人々が神を捉えやすいというか、身近に感じ、理解しやすいので。

なので、祭られている神さまのキャラクターは、後から付属されたものが多いので、もともとのその土地が放ったり宿していた、特質としてのエネルギーの性質とマッチしてないことも多いとのこと。

だから、言われている、「その神さま」の性格と、土地の波動、人象化されて「創られた」、神さまとしてのエネルギーが、
「あれ?? なんか違う。言われてる神さまとは別人?? えええ?」
て、いうこともよくあったりする模様。

縁結びの神さまと言われているのに、実際は、
「実用的な力を与えてくれる」、仕事に良いエネルギーだったりとか(笑)

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だから、そこに書かれている「謂れ」は謂れとして、祭られている神さまの解説はあくまで解説として、実際のその土地のエネルギーの性質・・・すなわち神さまの性格や得意分野は、実際のエネルギーを感じ取ってみて、判断するのが一番ですね。

・・・って、いっても、ふつう分からないか。

それから、おまけですけど、
本来は神社では「お願いごと」はしてはいけないんですね。※御祈願とは別

神社は「感謝」をするところ。
そして、日常のケガレを祓い、本来の自分(分け御霊)に戻るための、良い「氣」をお裾分けしてもらうための場所だから。

「お願いします! お願いします!」と、ガンガン利己的な欲を飛ばしてしまうと、せっかくの良い氣を受け取れないばかりか、欲が自らをガードする汚れたエネルギーの盾となって、返ってそれらを弾いてしまうことになってしまうので。

と、いいますか、神社はケガレを祓ってくれる場所ですので、そのように弾かれるべき不浄、汚れた「氣」が多く持ち込まれて、あまりにも大量にある場合には浄化されるまでタイムラグが必要になるわけです。(とくに参堂とか、隅の方、影になりやすい場に溜まっています) 

行きはともかく、本殿や敷地内からの良い氣を頂いて、身に着いたケガレを祓ってもらったならば、感謝の気持ちでお土産としての良い氣を頂いて、それをキープした状態で帰宅するのが良いのですが。利己的(小我)な欲を剝き出しにしてその波動になってしまうと、前述した良い氣を弾いてしまい、恩恵に預かれないばかりか、まだ処理されてない不浄な場所に溜まっている、同等の汚れた氣を引き寄せて、それらを家までテイクアウトすることにもなっちゃいますし。

それとお参りするときに携帯など、電波を発するものはもって行かないこと。無理なら、せめて敷地内では電源切って、カバンに入れておくこと。理由はと言うと、携帯やスマホの電波は良い氣を壊すからです。後、作法はきちんと守ること、でしょうか。

あと、16時以降はお参りをするべきではありません。(16時は逢魔が時といいます。それにもちゃんと意味があるんです)一日に何種類も違う種類の神社をお参りしてはいけないというのもあります。せいぜい、二つ(二箇所)位かも。この辺りは目的が観光かお参りそのものか、というところです。
※私はけっこーたくさん回ってしまいますが。

あと、その神社の敷地内で一番、良質なエネルギーって、本殿にはなかったりします。本殿にももちろん「神さま」としての人象化された存在や良いエネルギーはありますが。ケガされないように大切にガードされて保管されているところの方が多いです。

もともと、天や地からエネルギーが降りたり、溢れていたところから、本殿は外して建てられていることが多いように思います。でないと、井戸が枯れるから? さあ、どうなんでしょうか。理由はきっとあるのでしょうね。

その境内の敷地内の中で、一番気持ちの良いところ、立ってみて、その場所に居て、自分が気分が良くなるところ、心地よいところを探すといいのかなあと思います。人によって必要な氣って異なりますし、相性もありますから。

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ご神木は・・・良い状態のものもありますけど、お参りに来る人々の邪気を吸っちゃって、ヘロヘロに疲れ果てている木も多いので、状態をちゃんと見てあげてから、触るか、触らないかを決めるのがいいのではと思います。触るのをお断りしている場所もありますし、触って下さいと書かれているところもありますので、そこはルールを守りつつ。

また、末社や奥宮に行かないというのももったないことです。

本殿にあるエネルギーと奥宮のエネルギーは質が異なることが多いし。末社は、他の神社(末社に祭られている神さまの本拠地)とを繋ぐ、支社と言いますかテレビ電話というか電話回線みたいなとこだから、そこから氣を分けても頂けますしね。

というわけで、神さまってのは、自然界の存在、自然そのもののエネルギーに、人や獣の姿を与えられたもの、と理解しても差し支えないかと。実際は人でもないし、獣でもないわけですが。

で、神社ってのは、自然のエネルギーの宝庫であった場所なんですが、都会は・・・残念ながら、ですね。現代にあっては、自然、大地(土地)や天のエネルギーの集まるところとは言い難いです。その土地、地域の人々の信仰のエネルギー、集まってくる人々の想いのエネルギーによって、支えられている場所(集合体無意識の力)のエネルギーの方が強いですよね。

そういう意味で、神社や神さまを語るときには、「自然」のこと、自然界に存在するエネルギーのこと、私たちが住むこの地球という大地のことを語ることでもあるなって思います。

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