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自己肯定感という沼

「自己肯定感」という言葉がなんとなく嫌いだ。

それは恐らく、自分は何となく自己肯定感が低いという自覚があって、
自己肯定感が低い人は幸福度が低いというレッテルを貼られているような
気持ちになるからだろうと思っている。

そしてさらに、「何か幼少期に関係があるのかな?」なんて他人の一言が
加わると、途端に放っておいてくれよというドロドロとした嫌悪感が
心の奥底から湧き出てくる。


なんでこんな気持ちになるんだろう。


私はいわゆる毒親と言われる親に育てられた訳ではなく、
金銭的に苦しい幼少期を過ごしたという訳でもない。

どちらかと言うと、両親は教育熱心で、
私が「世間一般でいう幸せな人」になれるよう最大限のことを
してくれたと思っている。



でも、きっとここに私の心の寂しさがあるのかもしれないな、
とふと思った。



私は2番目に生まれたこともあり、
どんなことで親が怒るのか、こう言ったら親が何て言うのか、
そういった要領を掴むのが早かったんだと思う。


だから、不要いな発言と思うことは親に言ってこなかった。


だって、両親は私の幸せを確かに願っているし、
頑張って働いて育ててくれてたことを本当に尊敬して、感謝していたから。

だから、私のことで迷惑をかけちゃいけない、困らせちゃいけない、
親の顔に泥を塗るようなことはしちゃいけない。


10代、20代は本気でそう思っていた。


だから、「親が望む」私であること、
「親の期待に応える」私であることに一生懸命だった。


だから、勉強だってそこそこ頑張ったし、
部活や生徒会でも常に役職につくような子供時代だった。
就職だって親が喜ぶところに就職できたよ。

家の外で「すごいね、何でも出来て」と言われる自分でいたら、
両親が喜んでくれると思ったから、頑張ったんだと思う。


でも、ある日、母からこんなことを言われた。
「あなたは褒められるとすぐ調子に乗るから、私があなたの鼻を折らないといけないね。あなたは別にそんな大した人間じゃないよ。」と。

きっと母はこう私に言ったことを覚えていないだろうけど、
この言葉は十何年経った今でも、私の心にずっと残っている。


そして、大人になった今、当時を思い返すと、
両親は私の本来の思考性や好奇心ではなく、
彼らが理想とする子どもという物差しを私に当てていたんだろうなと思う。


それは私が世に出て、後ろ指を指されることのない人間に育って欲しかったから。そういう親の愛情だったんだと思う。


私が両親に自分の想いをぶつけることがなかったからという理由も大きいけれど、きっと両親は私が本当はどんな人間かをあまり知らないだろうなと思う。


そして、私は私のありのままを、「それがあなただもんね。」と言って、
受け止めて欲しかったんだな、と思った。


私も大人になり、姪っ子・甥っ子がいる。

そして、私もいつか子供を持つかもしれない。


戦いのような子育ての中で、本当のその子に向き合うことって、
正直とても難しいと思う。


けど、きっとこの子なら大丈夫。だから信じて待つ。
自分の期待と違ったとしても、それが彼らが出した答えなら、
それが正解だと私も信じる。


そうやって親が自分の選択を信じてくれると、
子供も自分自身を信じる力が徐々に養われていくんじゃないかなと思う。




人を信じる前に、自分をちゃんと信じたいよな。



「大丈夫だよ、きっと私なら乗り越えられるよ。」と。


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