制度や仕組みが当事者の人生の「落とし所」のテンプレートになってしまう
これはずっと自分の中でモヤモヤしている思いなんで、抽象的な話になってしまうかも知れません。
ニュアンスで読んでいただけるとありがたいです。
福祉って、一般社会の中で生きづらさを抱えている、つまりマジョリティから外れている状況の中で生きている方を支えるもので、文字通りマイノリティとされる方の生き方を支えることだと認識しています。
福祉制度というのはそのための施策のはずが、結果そこで支えられているのは、生きづらさの中でもそこそこ妥当性のある「マジョリティ」な範囲だったりします。「ちょうどいい落とし所」みたいなものを見出して、生きづらさの最大公約数をカバーしている、という感じでしょうか。
結果新しいマジョリティがマイノリティの円の中に生まれて、そこから漏れる新たなマイノリティが生まれてしまうわけです。
ところがその余白をフォローするためにどうするか、という議論はなんだか薄くて。
もちろん議論が全くなされないわけでもないんだけど、当然マイノリティの中のマイノリティなので分母が少なくなる分、なかなか具体的な議論と対策が追いつかなかったりしてるのが僕が感じている制度の構造のイメージです。
その反面マイノリティの中にマジョリティを生み出してしまうことで、今度はその新たなマジョリティが妙に生き方テンプレート化してしまって、それがレールになっていて、「はずれじゃないんだけどパチっとはまってはいない」みたいになっているのがあちこちにあるような気がします。
分かりにくいですね。
要は制度とか仕組みにしてしてしまう時って、大体の場合大枠のところをゴソッとさらうことは出来るけど、細かい所はとりあえず置いておく感じになってしまいがちで、その置いておいたものはやっぱりどこかで新たな生きづらさになっていて、最初は少数のものだったけど、やっぱり大枠から漏れるものが積もり積もっていく、というサイクルをゆっくり踏んでいくんです。
議論を繰り返すたびにより多くのエリアをまんべんなくカバーするために「尖った部分」が削ぎ落とされてそれなりに妥当なものになる、というのがいいのかどうか。
いやいや、尖っている部分、って本当は一番必要なところで、だからこその生きづらさなのに、変な公平性とか平等とかを考えて結局誰にも刺さらないものを量産してどうすんだ、みたいな葛藤が生まれたりします。
そして削ぎ落とした部分はどうするの?という疑問がずっと残るんです。
制度や仕組みを否定しているわけでも非難するわけでもありません。
多分モヤッとするのはその中で段々と多様性や選択肢が増えるんじゃなく、新たなマジョリティが生まれてそれがテンプレート化してしまって、またマイノリティが生まれるという循環に対してなんです。
人の生き方って、統計のように括ることができるものばかりじゃなくて、大多数にある程度当てはまる、ということが必ずしもいいことなわけじゃないような気がするんです。
もちろん選択肢のひとつとしてそれがあることは一切否定しないんですが、それが当たり前のレールなんだ、としてしまうと、それはそれで排除の理論みたいなものが働くような気がしてしかたないんです。
甘いものが好きな人がそこに20人いて、辛いものが好きな人が1人しかいない中で、甘いものが支給はされるけど、辛いものが好きな人は甘いものを食べるか我慢するかを迫られている、みたいな。甘いものが好きな人は辛いものが好きな人を「君ちょっと味覚がおかしいんじゃない?」と評してしまう空気が生まれるのはおかしいじゃないですか。そんな違和感です。
多分僕なりに目指している福祉っていうものの概念が、生きづらさを改善したり補助することなんじゃなくて、誰にでも選択肢があって、マジョリティだろうがマイノリティだろうがそれぞれなりの生き方を目指すことができる状態をつくることだからだと思います。
マイノリティとされる方の生き方を支える、というのはどこまでもひとつのプロセスであり手段でしかなくて、その先をどうやって作っていくのか、に関心があるからなんだと思います。
人の生き方に枠をつけることも価値の優劣をつけることもそれはできなくて、人生のエリートコースもなきゃ正解のレールなんかもないはずなんです。
20人の甘いものが好きな人も1人の辛いものが好きな人もどちらも間違ってない。甘いものを手に入れる術も提示されれば、辛いものを手に入れる術も提示される方がいい。
まぁ、詰まるところ福祉が社会保障制度ありきになりすぎてしまっていることやその枠の中ばかりで物事を捉えようとしすぎてしまっている事が一番の課題なのかも知れませんね。
制度ありきの福祉、というのはやっぱり僕には違和感だなぁ、という話でした。
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