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打ち手の先にある景色を想像する

最近は、本業の就労移行支援の仕事以外にいろんなお仕事をさせていただく機会に恵まれるようになりました。
とは言え一応僕は福祉人なので、福祉的な価値につながること以外はしていませんが。
 
 
ありがたいことにそこでは新しいことにチャレンジをさせていただくことが多く、一緒に挑戦してくれる仲間もいるので恵まれた環境だなぁ、と思いながら取り組ませてもらっています。
 
 
これはそんなチャレンジだけに限らない話かもしれませんが、自分が仕事や活動をしている中で時々感じる事です。

 
 
 
物事を始めるとき、進めていく時には当たり前ですが僕らはどんな打ち手をとっていくか、ということを考えます。それを仕組み化したり、制度に落とし込んだり手順化したりという方法論を探りながら打ち手を決めていきます。
目の前には解決したい課題があって、当然僕らはその課題の解決につながる打ち手を構築しています。
 
 
新しいことを手がける時には、果たしたい目的(もしくは解決したい課題)を設定し、それを果たせるためにはどんな活動を生み出して、どんなプロダクトにするかを設計し、今度はそれがどうやったら上手く回っていくか、誰がどんな役割を持ってどんなタスクを処理していくか、みたいなことを段々と落とし込んでいくわけです。
 
 
最終的には目の前の事に注力するようになるわけですが、物事を動かしていると予定外のことだったり新たな課題が生まれたりしてそれらの調整に追われたり対応に追われたりします。
 
 
当然その問題を解消するために、新たな打ち手を講じたり仕組みを作ったり制度を変更したりということが行われます。
それ自体はごくごく当たり前のことなんです。
 
 
ごくごく当たり前のことなんですが、何か起きる度に打ち手を講じているときに、そのうち手の先にあるものって考える事はあるでしょうか。
 
 
 
よく、「手段の目的化」という言葉を耳にしますが、僕らが講じている打ち手というのは基本的には何か解決したいものに対して、です。
それが直接受け手に対応している時であればまだ僕らは自分達の行動の先にあるものを垣間見ることができルカもしれないんですが、仕組みを作ったり制度にしたり手順を修正したり、というタスクをこなしているときには案外「目の前の問題を解決する」ことが目的になってしまいがちです。
 
 
大枠としては元の目的やビジョンに対しての活動の中で生まれる問題なので、それを解決することは一見正しいように思えるかもしれませんが、実は段々と元のビジョンからずれてしまうことが生じることは珍しくないんじゃないかな、と思います。
 
 
例えば、
 
 
支援の現場だと利用者さんの支援のためにカリキュラムが少な過ぎる、という問題が勃発したときに、打ち手としていろんなカリキュラムやツールを豊富に取り揃えたとします。
大筋としてはもしかしたらこれは正しい打ち手かもしれませんが、例えばその先にカリキュラムに縛られた1日のタイムスケジュールに、利用者さんが閉塞感を覚えてしまったり、選択肢が多すぎて選べなくなることが生まれたり、そのカリキュラムをこなすことが仕事になってしまい、利用者さんとのコミュニケーションの時間が持てなくなったり、が起きたり。
 
 
経営やマネジメントの場面だと、人員配置、という課題を解決するために人事異動を調整して行う、という打ち手をとったとします。
これも大筋として間違ったことではないかもしれませんが、その先に人事異動を命じられたスタッフがモチベーションを落として離職したり。
 
 
あとこれは聞いた話なんですが、いわゆるアプリやサイト作りにおいて、運用の不具合を修正する際に、あれもこれもと機能を追加したり画面を足したりすることで、一見用途は満たしているんですが、UI(ユーザーインターフェース)という、つまり使う側の使い勝手が下がる、ということが起きたりします。
目的を果たすためにたくさんタップやクリックをしなきゃいけなくなったり、目的の画面にいくためにいくつもの画面を開かなきゃいけなくなったり、という。
 
 
 
要は、自分が打った手によって誰にどんな影響が生まれて、何が変わってそれがどんな改善を生んで逆にどんなデメリットを生むのか、ということを打ち手を講じる前にどれくらい想像しているのか、という感覚って大事ですよね、ということです。
もちろん元の目的やビジョンみたいなものともすり合わせをしながら、というのは言うまでもないですが。
 
 
でもこれって決して目新しい話でも珍しい話でもありませんよね。
多分当たり前の話だと思って読まれている方も少なくないかもしれません。
 
 

 
でも、僕ら対人援助的な仕事をしていると、常にその場その場の判断を求められることの連続で、場合によってはたった一つの声かけが「打ち手」にあたるんです。
ちょっと極端な話かもしれませんが、ある意味では無意識な言動がさっき書いたような新たな課題の種に繋がったりすることがあります。
 
 
ということは普段どれだけの想定と想像をしながら現場にあたり、自分の打ち手、つまり言動や対応の仕方がどんな影響を及ぼすのか、さらに言えばその積み重ねによってどんな現場が出来上がっていくのか、ということも本当は考えないといけないんだろうな、と思うんです。
 
 
「そんなことまで支援をしながら考えてたらおかしくなっちゃうよ」
 
 
と言われるかもしれないんですが、多分そこを放っておいたら、気がついたら元のビジョンや目的とは大きくかけ離れたところにたどり着いてしまいます。
 
 
確かに現場は生物(ナマモノ)なので、全てを統制する、というのは全然見当外れな議論なんですが、感覚値として、こういった視点は必要なんだろうな、と思っています。
言い過ぎじゃなければ支援者のドレスコードの一つにもなるんじゃないか、と思ったりします。
 
 
なのであえて当たり前のことを書かせていただきました。

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