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本当に解決しなきゃいけないこと

ちょっとぼんやりした話かもしれません。
仕事をしていてなんとなく感じていることです。
 
 
 
僕は障害福祉の仕事をしています。社会参加のあたりにまつわる支援を行っています。
それ以外にも地域のいろんな分野の方と関わりながら、直接的にも間接的にもいろんな支援に関わらせてもらっています。
 
 
バキバキの障害福祉の現場から少し離れて地域を眺めてみると、生きづらさは障害の有無を問わず横断的にいろんな領域に横たわってるんだなぁ、ということをまざまざと感じさせられます。
 
 
いろんなことが「足りない」時代はある意味で誰しもが「不足」や「不便」と付き合いながらいきていたせいもあるのか、未成熟ゆえに認識が薄かったからなのか、シンプルにただ見えないだけだったのかは分かりませんが、もう少し世の中の課題ってシンプルだったような印象があります。
 
 
ところが、世の中が成熟するにしたがって「生きづらさ」と呼ばれるものの声は一気に増えてそしていろんな要素が絡み合うものになったような気がします。
つまり、生きづらさの根っこにあるのは一括りに「障害」とか「困窮」とか、単体要因だけじゃなくなってきている、ということです。
(※僕が不勉強なだけかも知れません)
 
 
障害福祉分野にいると、否が応でも「不登校」「ひきこもり」「困窮」「虐待やDV」「心の問題」「子どもの貧困」「社会的孤立や孤独感」などの社会課題と呼ばれるものと多く重なります。つまり、当事者の支援を行っていく過程の中で障害という生きづらさ以外にも多くの生きづらさにふれることが多くあります。 
 
 
もちろんひとつひとつの課題についての支援、サポートのインフラはあり、特に僕のメインのステージたる障害福祉分野は社会保障制度もあります。
 
 
でも、障害と診断してサービスに繋げば「解決」するの?というと多分違います。
一次的な課題についてはそれぞれ入り口があるのかも知れないけれど、重複する課題があればまた違う機関に繋いだり連携・協働をしながら複合的な課題に向き合うことになります。
 
 
ただ体感として感じるのは、果たしてそれで本当に当事者の生きづらさが軽減したり和らいだりしているんだろうか、というとちょっと違うような気もします。
 
 

これはちょっと極端な例かもしれませんが、親御さんも障害がありそれによるものか幼少期から様々な虐待を受けてきており、生活自体も困窮していてずっと引きこもって不登校になってしまったため障害福祉サービスに繋いでまずは日中活動に向かえるように支援をしていた方がいたとします。
 
 
福祉サービスを利用する中で、引きこもりは脱却し親御さんと分離する支援を行い、一旦生活保護を受けて訓練を積んで就職をしたはいいけれど結局社会生活の中では対人への不信感や恐怖感が強く、やんわりとドロップアウトして再び福祉サービスを利用しながら改めて社会参加へ向かうべく支援するわけですが、この方の生きづらさって、「障害」だったのか、「虐待」だったのか「困窮」だったのか「ひきこもり」だったのか、というとどれかに絞ることは出来ず、「心の問題」や「社会的孤立や孤独感」が社会生活を送る上では生きづらさに繋がっています。

 
 
これはちょっと極端なのかも知れませんが、実際に少なくない例じゃないかと思います。
で、この方が一番生きづらいと感じていたのは実は寂しさと対人不信、つまり信じられる人がいなかった、というところだったりするんです。

 

こういったケースの方と関わってみるとつくづく感じるのは、「僕らは生きづらさの本質が見えてるんだろうか?」ということです。
 
 
もちろん、社会生活を送る上では障害も困窮も虐待もひきこもりも全て重要な課題です。
でもその本人が解決したいことは、寂しさや孤独感から抜け出したいことや信頼できる人にいてほしいことの方が重要だったりするわけです。
 
 
この間で起きるのは、支援側で認識する社会課題の問題と当事者側で認識している、解消したい生きづらさの乖離です。
これだけ課題が複雑化していると当の本人も一体自分は何に困っているのか、ということも意識にあげてくるのも難しかったりします。

 
ここを整理して支援を組み立てていくのは僕ら支援者の役割だと思います。
表出している課題ばかりをフォーカスするのではなく、本人にとって何が一番生きづらさにつながっているのか、ということを因数分解して因果関係も整理してさらに本人の心にも触れていきながら本当の課題はなんなのかを導き出すんです。
 
 
ただそうなった時に今度はそのために必要なインフラがなかったりするので、結局「とりあえず」表出している課題から片付けよう、となったりもする。
 
 
 
いろんなことが成熟し「足りている」時代だからこそ、量的な課題ももちろん継続してありますが、「質的」な課題が生まれているんだろうな、とは思うんです。
それは心の問題だったり、居場所みたいなものだったり。
ただ質的な課題と量的な課題が共在しうる今の時代には何が本当に解決しなきゃいけないことなのか、という事が随分見えにくくなっているような気がします。
 
 

本当に解決しなきゃいけないのは、「社会が解決したい事」と「一人ひとりが解決したい事」との距離の間にある空白を埋めていくことなのかも知れないな、と思っています。
 
 
ぼんやりと思った話。



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