立ち止まる、という選択も人生
今年はいろんな方と繋がったり、いろんなチャレンジをしたりしていて、ある意味視野も広がったんじゃないかと思っています。
僕の悪いところは、視野が広がったら広がったでそれを全部取りこぼしたくなくて思考や活動が膨れ上がりすぎて時に収拾がつかなくなるところなので、それは気をつけないといけないなぁ、と思うんですが。
今年の中盤くらいからうっすらと感じていた事ではあるんですが、少しずつ自分の中で消化できつつあることがあります。
僕は自分がそういう価値観だからか分かりませんが、支援者としての基本姿勢は「利用者さんの人生を前に進める」というものです。
そのためにどんなアプローチが必要なのか、どんな環境が必要なのか、どんな経験が必要なのか、そんなことをいつも考えています。
特に僕の本業は就労移行支援、という期限のあるサービスだったりするのもあって余計にそう考えて行動するのかも知れません。
ただ、生活訓練、という事業を今年半ばに始めた後くらいから少しずつその感覚の中で変化が起きている感覚はありました。
正確には変化、というよりも見方や考え方の視野が広がった、という方が正しいかも知れませんが。
ここ最近音声メディアだったりTwitterなどでもこぼしているんですが、「立ち止まり方」というか「モラトリアムな時間」の重要性を強く感じるようになっています。
基本姿勢ごと変わっているわけじゃありません。ただ単純に人が前に進むためにはもしかしたら「タメ」の時間が必要だったりすることもあるんじゃないか、という発想を感じるようになってきた、という話です。
特に自分の体験を振り返ると、多分僕が子どもの頃(とはいえほぼ成人するまで、だった気がするんですが)って、本当に一見すると無駄なような時間にまみれていたなぁ、と思い返すんです。
こないだ利用者さんが就職している企業の担当者の方とお話ししていて、古本のマンガ群を眺めながら、「このマンガ知ってますか?」なんて話から、「そういや子どもの頃って本当になんのタメにもならないようなしょうもないマンガを読んでいたけど、この時間ってめっちゃ大事だと思いませんか?」という話になりました。
そんな深い話ではなく本当に雑談の中の一部だったんですが、言われてみると確かにその通りで、ある意味僕らはそんな子ども時代若者時代を心置きなく過ごしてきたからこそ、どこかで気が済んで「大人という時代」に足を踏み入れることができているのかも知れないな、と感じたんです。
そしてそこからもう少し自分の中で考えが進んで、現在の社会を見て似たような感覚を持ったことを思い出したんですね。
それは、コロナによって「不要不急の外出を控え過ぎた」先にあった人の心の変化です。
経済が止まったこともひとつの要因ではあったと思うんですが、多分多くの人が覚えがあるんじゃないでしょうか。移動や外出が制限された生活の中で、一番心に堪えたのって「不要不急な用事」ができないことじゃなかったですか?
旅行やレジャー、飲み会やアミューズメントなど生産活動ではない余暇的な活動が行えないことで、僕らは生活していく上で大きなストレスを感じたはずです。
厳密にはそれとこれとは違うだろ、と言われればそうなんでしょうが、僕は似たような何かを感じました。
人は毎日絶え間なく進むことばかりをしなきゃいけないんじゃないよなぁ、という事の気づきです。
今さら何言ってんだ、という話かも知れませんが。
僕の今までの感覚値だと、一瞬立ち止まることがあったり、まっすぐの道をうねりながら曲がりながらでも進むのだっていいじゃん、というような感覚だったんですが、それともちょっと違う感覚です。
僕らが関わっている当事者の方は、そんな時間を過ごすことが許されていたんだろうか、と思うんです。
これは僕個人の主観的な受け止め方ですが、ただでさえなんというか「正しさ」がやたら求めらたり強いられたりしがちな社会の中で、さらに障害者の方はもっと画一的な正しさみたいなものに嵌め込まれて生きてこられた方が少なくないんじゃないかと思います。
例えば、小学校できちんと過ごせるように療育期間で整えられ、小学校に上がると中学校できちんと過ごせるように整えられ、中学校に入るとちょっとずつ高校や就労への意識づけが行われ、高校(高等支援学校など)に入った瞬間進路、つまり就労をどうするかを迫られるわけです。
下手をしたら「モラトリアムな時間」なんてこれっぽっちも過ごせなかった人もいるんじゃないかと思うんです。
そして、ちょっと立ち止まってゆっくり考える、なんて時間を与えられることもなかった人も少なくないんじゃないか、と思うんです。
ちょうど最近支援をしている利用者さんに「立ち止まる」ことを選択している人と何人か関わらせてもらっているんですが、就労支援の支援者、としては前に進むことを説くというのが役割なんでしょうけれど、なんか自分の人生を振り返ってみても決してずっと進んでいたわけじゃなかったなぁ、と思うようになってて。
お恥ずかしながら僕自身決して迷わず進んできた人生だったわけではなく、若い頃って日銭をどうにか稼ぎながら「自分は一体何をしていきたいんだろう」と何年も迷路の中で彷徨っていた時期があります。
仕事を辞め、半年くらいすぐには転職する気になれず、モラトリアムな時間を過ごしていた時期もあります。
人生の中で結構立ち止まっている時期があったんですよね。
無駄な時間といえば無駄な時間だったのかも知れませんが、その時間があったから自分を見つめ直せたのも確かで、その時間があったからある意味自分の人生に迫られる感を覚えられたのも確かで。
後になって振り返るからそう思えるだけなのかも知れませんが、僕には無駄な時間ではなかったんですね。
そう思ったときに、「立ち止まる」ということも人には多分必要で、一見無駄なように見える時間や経験も多分前に進む上では必要なのかも知れない、と感じるようになったわけです。
だとしたら、僕はその時間を必要としている人に何ができるんだろう。
前に進むための大事な過渡期である時間を過ごすことが「許される空間」、というとちょっと変な言い回しなのかも知れませんが、なんかそういうものが必要なんじゃないかと最近思い始めています。
具体的にこれ、という答えを未だ持てているわけじゃありません。先日音声メディアでお話しした時からそんなに進んでいるわけじゃありませんが、ただ「立ち止まる」意味や「進まないでいる時間」の意味については少しだけ考えをまとめていきつつあります。
よく「居場所」という表現を僕も使っていますが、この答えが「居場所」というものの定義にはまるものなのかどうかはまだ分かっていません。
ただ少なくとも僕が今まで使ってきた居場所という言葉の意味するものとは少し違うニュアンスの「場」が必要なのかも知れません。
ここはもう少し考えていかないといけないところなんだと思います。
立ち止まるという選択、「休憩」のようなニュアンスの選択を受け止めて、前に進みたいっていう思いを腐すことなく過ごせるモラトリアムな時間をどんな形で支えていけばいいんだろうか。
今年最後の宿題だなぁ、と思いながら今も考えています。
自分の人生を前に進める、ということと、ずっと前に進んでなきゃいけないわけじゃない、立ち止まる時期があったっていい、というある種相反するような感覚ですが、これも大事な支援なんじゃないかと思い考えてカタチにしていけたら、と思います。
今日はそんな話でした。
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