「生きづらさ」のアセスメント
ー「生きづらさ」といわゆる「障がい」は必ずしもイコールではないー
と思っています。
もう少し解像度を上げて言うと、障がいが生きづらさに繋がっている時もあればそうじゃない時もある。
逆に、生きづらさが高じて障がいになってしまう場合もあったり、障がいとは全く別のところに生きづらさがあったりする場合もあります。
乱暴な言い方かもしれませんが、たとえ障がいがあったとしても、そこに本人の生きづらさが生まれない状況であれば何も問題はないんじゃないかと思いますが、障がい自体に関係あろうがなかろうが「生きづらさ」が生まれている部分についてはケアや支援が必要になります。
何が言いたいかというと、多分支援者は対象者の「生きづらさ」こそをアセスメント(分析とか評価)しなきゃいけないんじゃないか、ということです。
そして「生きづらさ」には2種類あって、
ひとつは客観的な「生きづらさ」
もうひとつは主観的な「生きづらさ」
です。
客観的な生きづらさというのは、僕ら支援者から見たり一般社会のあり方と照らし合わせた時に、本人と他者や社会との関係性の間に生まれるアンマッチングな部分なのかな、と僕は捉えています。
対して主観的な生きづらさというのは、僕ら支援者でも分かりにくかったりすることがあります。ご本人の心の中にある感覚なので、客観的な生きづらさが解消したとしても、もしかしたら残り続けたりするものなのかも知れない、と捉えています。
前置きが長くなったんですが、じゃあ「生きづらさ」をアセスメントするときに一番に注目しないといけないのは、「主観的な生きづらさ」じゃないかな、と思います。
つまりご本人の心の中の状態ですね。
今日はほぼ1日利用者さんと面談をしていて、たまたまなんですが共通したキーワードが「思いグセや考えグセについて」だったんです。
思いグセや考えグセって、自然発生的に身につくものではなく何かしらの因果に紐付いていることがほとんどで、本人はあまり自覚を持っていない事が多いみたいです。
当たり前になってるから。
でも、気がつけばその思いグセや考えグセが彼らを生きづらくしています。
思いグセも考えグセも、それは本人の心の中で生まれたもので、当然生まれた背景があります。
間違っても「考え過ぎ」とか「思い込み過ぎ」だけで片付けちゃダメで、何故それが生まれたのかを掘り下げておいた方がいいと思います。
掘り下げながら紐解いていくと、完全にではないかも知れませんが、少しだけ「主観的な生きづらさ」の正体が見えてくる事があります。
多分、本人からすると「主観的な生きづらさ」こそが生きづらさの一番の正体です。
ここを何であれクリアにしていかないと、本人のしんどさも苦しさも変わらないんだろうな、と思うんです。
アセスメント、ってより「プロファイリング」みたいな感じですね。
過去のどんな要因から今の思いグセや考えグセが生まれてきたのか。
どんな出来事や環境が今の心に影響を及ぼしてるのか。
それが今のご本人の生き方にどういう影響をもたらしてるのか、とか。
ここを整理していって紐を解いていって初めて、「生きづらさ」の姿が支援者にもご本人にも可視化されて、何をどうしていったらいいのか見えてくるんじゃないだろうか、と思うんです。
長くなりましたが、こうして考えていくと僕は「障がい者支援」をしてる者ではあるんですが、障がいだけを見ていちゃダメで、生きづらさのありかをきちんとアセスメント出来なきゃいけないんだなぁ、と改めて感じました。
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