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「読みたいことを、書いた」という誇りは残る

 先日、以下の記事を書いた。

 この記事にも、ツイッターでの投稿にも、たくさんの「スキ」や「いいね」、リツイートをして頂けた。

 中には、note記事からリンクを貼ったオンラインジャーナルの文章にまで目を通してくださった上で、ご自身のSNSで紹介してくださる方や、温かい感想を寄せてくださる方もいらっしゃった。
 寄稿した文章に詰めた、論文のエッセンスを読んで理解してくださった上で、読者の視点から感想を述べてくださるのは、本当に嬉しいし、ありがたい。

 でも、今思えば、まず自分がやっと「読みたいものを、書けた」ことが嬉しい。

 約3年半前、ある本に出会った。

  たまたま大学の卒業論文を書いていた時期に、地元のイベントで著者の田中泰延さんにお会いでき、ご本人から直接薦めて頂いたことがきっかけで購入した。今思えばかなり贅沢な経験だった(ちなみにそのイベントについては以下の記事に書いてある)。

 この本をはじめて読んだときは、始終、抱腹絶倒する一方で、「読みたいことを、書く」ことが簡単ではないと思い知らされた。
 一次資料を調べ上げ、重要だと思ったものをピックアップして整理し、そこから分かることを考えに考え抜いて答えを出し、それらを文章にしていく。
 でも、これでもかというほど苦しみぬいた上で「読みたいことを、書けた」ときの爽快感は何物にも代えがたい。
 そういえば、卒論を書き上げた時もそうだった。

 私の修士論文のテーマとして取り上げた「愛は勝つ」という曲は、世間の大方の人から見たら「昔のヒットソングの一曲」に過ぎないだろうし、論文の内容にも大して興味を持たれないかもしれない。
 でも私はこの論文の核となっている「『愛は勝つ』という曲の歌詞がなぜ多義性を持つのか」を知りたかったし、2年の歳月をかけて研究する価値があると思っていた。
 指導してくださった先生のお力添えもあり、なんとかして論文にでき、そこで足りなかった部分を補足や再構成して要約し、その文章をオンラインジャーナルに載せていただき、ようやく自分の中でこの論文に区切りをつけることができた。
 この誇りは、この先、何があろうと自分の中に残っていると思う。

 文章を書く作業は楽しい。でも、ただ「書きたいことを、書く」だけじゃ、ただの自己満足になってしまう可能性が高い。
 「読みたいことを、書く」のは苦しい。でも、苦しみぬいた末に書き上げる文章によって、自分が満足できる以上の何かを得られるかもしれない。

 『読みたいことを、書けばいい』の中で、泰延さんは以下のように語っていらっしゃる。

 好きで始めたことなのに、長い文章を書くのはほんとうに苦しい。(中略)
 だが、しかし、それを何度も積み重ねていくうちに、わたしは思いもしなかった場所に立つことになる。書いたものを読んだだれかが、予想もしなかったどこかへ、わたしを呼び寄せてくれるようになったのだ。

(pp.240-241)

 私も、上記の修士論文を書きあげ、その内容をまとめた文章を学外の方々にも読んでいただけたことで、たくさんの反響をいただくことができた。

 これからも「書いてよかった」と思える文章を書いていきたい。
 そのためには「書きたいことを、書く」のではない。あくまでも自分が最初の読者として「読みたい」ことを書くのだ。
 とても難しいことなのは分かっているけれど、少しずつでもそれができるようになればいいなと思っている。

 

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