見出し画像

【Forget-it-not】第三十九話「神隠しの真相」

 今まで集めた記憶の欠片が瞼の裏へと現れる。

『母子というより双子といった感じ』
『月の出ない晩に神社の参道へ行くと、恐ろしい魔物に連れていかれる』
『境内の中は細やかな掃除が行き届いて――』
『三体の月』
天之御中主あめのみなかぬし高御産巣日たかみむすび神産巣日かみむすび
『神社周辺から離れることは――』
『概念世界と物質世界、私たちの世界』

 散在した欠片を拾い集め、統合してゆく。

 第一に親子で見た目が変わらないのは不自然だ。何故そんな簡単なことに気付かなかったのだろう。一卵性双生児ならともかく、母と子の場合、父親の遺伝子が介入するため、全く同じ見た目にはならない。美春は母親似ではあるが相違点は数え切れないほどあるし、私も似たようなものである。加えて彼女たちは壁画の巫女とも同じ容貌をしているように見える。となると、渡世家の容姿は数千年間変わっていない、乃至は不老不死であると仮定される。証拠と言ってはなんだが、熊野地方には不老長寿の徐福伝説がある。あの伝説もまた、事実に基づくものなのかもしれない。

 不老不死であるという仮定の是非は彼女たちの行動によって見分けられる。

 朔夜は小学校に通っていた。そして不登校だった。これは客観的な事実である。ここで疑問が湧く。数千年生きている不老不死の人間がわざわざ小学校に入るだろうか?

 入る理由があるとすれば、それは何か。一つは千夏さんや雪乃さんと一緒にいたいからという訳が考えられるが、不登校の時点でその線は薄い。もう一つは未来の私たちのために戸籍を誤魔化し、卒業写真に写るためだけに入学した可能性はある。未来視によってそれを行ったとしても何ら不思議ではない。

 朔夜の不登校の理由は、本人の意思と、特殊な瞳と髪の色の問題、そして他の子どもたちとの成長速度の相違であった。又、雪乃さん曰く、朔夜は見た目は大人ではあったが、中身は子どもだった。これもまた事実である。

 前者の理由は学校に行かない根拠としては充分筋が通っているし、わざわざ友人の前で子どもを演じる必要もない。つまり朔夜の中身は歴とした子どもだったと推測され、やはりかぐや姫よろしく身体の成長のみが早いという性質を持つだけで、不老不死である可能性は低いと言える。

 では何故彼女たちの見た目は同じなのだろう?

 最もありうる可能性としては、巫女はplanarianプラナリアのように無性生殖で増えるか、単為生殖ができるのかもしれない。専門的な論理はともかく、全ての哺乳類は雄と雌の生殖細胞が結びを得ることで受精し、子どもが生まれる。その機能を備えていないということは、彼女たちは人間どころか哺乳類でもないということになる。

 神が遺伝子情報を書き換えたのだろうか? 一体何の為に? 古事記は何処までが比喩なのだろう?

 ともかく、そんな特異な性質と異質な成育の仕方、目立った容貌を有する巫女が、現世で安穏とした生活を送れるとは思えない。私のように目が青いだけでも目立つ国で。

 神社から出るのは稀だったという証言、掃除の行き届いた境内、平屋の中と外の大きさの相違、現れる気配のない渡世家。これらを鑑みるに、彼女たちは普段、別世界にいるものと考えられる。しかし常世の民と別れた巫女が、今現在常世にいるとは考え難い。簡単に常世に行って帰って来られるのなら、あの壁画のように大仰な手順を踏む必然性もない。

 自らの発言が浮かび上がる。

『これもメッセージだとすれば、隠れ蓑にするという慣用句があるように、本当の姿や実体を隠す為の手段とも理解できる。例えば、この神社そのものが仮構であるとか』

 連想ゲームのように別な知識が想起される。

 常世の別名は隠世だ。

 常世と隠世は現在、同義語として扱われているが、本当のところは同種の異世界を指すのではなく、別種の異世界を指すのではないか。

 そもそも同義語というのは、全く同じ意味では使われない。例えば永遠と永久は同義語であるけれど、そこから得られる感覚的体験は異なる。永遠は果てのない広がりを連想させるのに対して、永久は弓矢のような真直ぐに続くといった意味合いを感じられるだろう。

 簡単な図式に変換すれば、永遠と永久はA=Bの関係に等しい。これらは結果は同じでも、過程が異なるから別々の言語で表される。

 一方でA=Aのような、同じ言語で表される式は何らの意味も成さない。AはAである、といった表現をtautologyトートロジーと呼び、人はそれを無用な繰り返しと称するのだ。

 つまり結果も過程も同じであるなら、わざわざ別な言語で表現する必要はない。別な表現がなされるのなら、必ず別な過程が存在し、それに対応する言語が作られる。常世と隠世が現在同じ意味で使用されるのは、単に相違を感じられる人間がいなくなってしまったからだと考えられる。

 さて、ここで私の謎の哲学の続きが関係してくる。全体世界を考えた際に、実在と虚在だけでは表せない謎の存在がこの世界には存在している。それを人間は記号と呼んだり、精神と呼んだりしている。

 美春が岩屋で言った通り、記号は見たり読んだり書くことはできても、記号そのものに触れることはできず、聞くことも、嗅ぐことも、味わうこともできない。つまり人間の五つの知覚と感覚の内、せいぜい二つ三つ程度でしか認識することができないのである。

 実在を知覚を以って認識可能な対象と定義するなら、五感全てで捉えきれないものは実在とは言い切れない。又、虚在を感覚を以って認識可能な対象と定義するなら、感覚以外で認識可能な存在は純粋な虚在とは言えない。事実、記号などは人間や神のような存在と同様の性質を持ち合わせていない。
 このような存在を仮に虚実在と呼ぶことにしよう。虚実在の性質は、無いようで在り、在るようで無いといったものだ。この虚実在の役割とは即ち、虚在と実在の橋渡しである。

 畢竟、全体世界は虚在の場である概念世界、虚実在の場である精神世界、実在の場である物質世界の三つから成るということだ。これは母体と臍帯と赤子の関係に喩えられるだろう。まず概念世界という母体が存在し、次に物質世界の元が構成されようとしたが、赤子が栄養なしには成長できないように、物質世界には何らの秩序も生まれなかった。そこで物質世界に意味内容を供給する場として精神世界が誕生し、物質世界に情報が与えられ、かくて私たちの世界は成り立った。

 この概念世界や精神世界の存在は簡単な論理で説明可能だ。

 ある哲学者の言うように、実在=存在と捉えた場合、人工物の存在が説明できない(もっと言えば自然物もだけれど)。例えば携帯電話は今現在は当たり前のように実在しているが、百年前の世界には実在しなかった。もう百年も遡れば電話自体が実在していない。

 では何故携帯電話は実在可能なのだろう?

 考えられる可能性は一つしかない。携帯電話は百年前、物質世界には実在していなかったが、概念世界には虚在していた。しかし概念世界に在るモノは突如として物質世界には現れない(宇宙を滅ぼす怪獣が現れては困るのだ)。

 携帯電話の存在を実在たらしめるには、二つの世界を繋ぐ道筋が必要となる。それを担うのが精神世界であり、それを持つモノが海に釣り糸を垂らす釣り人のように、携帯電話という概念を釣り上げたのだ。

 これで日本神話に現れた、天之御中主、高御産巣日、神産巣日が説明可能だ。この三神はそれぞれ概念世界、精神世界、物質世界に対応する。つまり概念世界に至高の神である天之御中主が顕れ、精神世界に高御産巣日、物質世界に神産巣日が顕れたということだ。

 精神世界を高御産巣日、物質世界を神産巣日とする根拠は、高御産巣日は高木の神であるとされるところにある。木は遠くから見れば臍帯や配線や神経に見えなくもない。対して神産巣日は地を生産した女神という説がある。これはまさに物質を産み落とした母であると解せるし、少名毘古那に似た特徴を持つ渡世家が、出産の神である神産巣日に力を授けられ、単為生殖が可能になったと考えることもできるようになる。

 この仮定が真であるのなら、三体の月の全容も見えてくる。

 日本神話における全体世界は常世、隠世、現世の三つの世から構成され、その一つ々々の世に月(巨大な美須麻流之珠みすまるのたま)が存在する。三体の月とは、三つの世が一堂に会する直前直後なのだ。

 その作用の一つに記憶の粒子の回収があるのだろう。記憶の粒子は自然物には見られず、人工物に留まる。おそらく本来は、自然の浄化作用によって滞りなく回収されていたものが、自然が減少し、人工物の増えた現代では長く滞留してしまうようになった。それを回収するために世界は約三年に一度、ある種の重ね合わせの状態になり、その現象の起こった後、記憶の粒子は消失する。

 数千年前、神武の軍勢に追い詰められた月の民は、美須麻流之珠を用いて常世に理想郷を作成し、そこに移り住んだ。その際に現世に残った者のうち、目立つ特質を備えた巫女は隠世に生活の場を作って隠れ住んだ。それにはいくつかの理由があった。一つは神武の軍勢に再び襲われないため、一つは常世と現世を結び、百年に一度、かぐや姫を常世に送る役目の遂行のため、といったところだろうか。

 これなら輝夜の発言の意味も通じる。

 では隠世に入るにはどうすれば?

 ここで重要になるのが巫女の流した噂話だ。

 新月の晩に参道に行くと恐ろしい魔物に連れていかれる、というのも何かの暗号と見た方がいい。古の巫女は近所に住む少女と逢引きをしていたそうだ。人に恐れを抱かせる噂話は、新月の神社に人を寄せ付けない効果があると共に、人々の間に広まりやすいという利点もある。巫女と少女は正面から会えず、手紙のやり取りを行うのも困難だったために、巫女が噂話を流して少女の耳に自分の声を届けたとしたら? 私が同じ立場であるなら、何らかの伝言を組み込む。

 何故妖怪や霊ではなく、魔物なのだろう? 又、魔物に連れていかれるには、魔物に遭遇する必要がある。

 そこから連想される概念は?

 逢魔時。

 昼と夜の境界に位置し、魔物に遭遇するとされる時間帯。

 隠世が常世と現世の境界であるなら、この時間帯が最も適合する時刻ではないだろうか。

 新月の逢魔時。

 条件はそれだけ?

 美春の日記が想起される。
『4月12日、晴れのちくもり、魔の月よう日。帰りにすっごいキリが出ててテンションあがった。一生キリが出てれば体育祭とかもないだろうになぁ』

 二〇二一年の四月十二日は新月の日だ。そして美春の撮影した霧にまみれた写真、志津の岩屋の薄い霧、これらは偶然重なった現象ではなく、異界との境界を意味していたのだ。

 つまり隠世に行く条件は、新月の日の夕刻に霧の出ている場所で間違いない。その場所が海坂神社なのだ。

「ほんの少しのすれ違いだったんだね」
 私は一人呟く。

 かくて散在した記憶の欠片は、一つの美しい絵画となった。混沌の秩序化、これこそが明晰の成せる業である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?