見出し画像

【Forget-it-not】第四十話「異世界の住人」

 年が明けて十日が経った一月十一日、新月の日の夕方、わたしたちはふたたび熊野地方へおもむき、海坂神社に向かっていた。

 十二月の満月は何事もなく平穏に過ぎ去った。その二日前のクリスマス会で雪乃さんだけリモート出演だったのが可哀想に思えたので、わたしは満月の翌日に熊野に帰り、新年を彼女といっしょに過ごした。昨日、瑠璃が飛行機と電車を乗り継いでやってきて、二週間ぶりに面と向かって話をする。

 駐車場に車を止め、遊歩道を歩く。

「なんでみんな来なかったんだろ」
「さぁ。変な気を遣ったのかもしれない」
 瑠璃はわたしの手をとって、指をからめてきた。わたしもゆるゆるとにぎり返す。無言で歩く彼女の口元からは、ときおりダイヤモンドダストが立ちのぼり、夕闇を白やかに彩っていた。

 境内に入ると、それまで透きとおっていた視界が幽かに霞がかってきた。

「私の推測は当たっていたみたいだね」
 と瑠璃が安堵の息をこぼす。

「にしても、あんなに早く解いちゃうなんてびっくりしたよ」
「頭がよく回るようになったから」
「十分回ってたと思うけど」
 普通の新幹線がリニアになったようなものだろうか。

 歩みをすすめるごとに霧は濃くなり、やがて視界が白一色になった。
「道は覚えているから、私に任せて」
「うん!」
 頼もしい発言の余韻にひたりつつ、ゆるやかに階段をおり、下り坂を行く。すると突然、海そのものが鳴いたような音が轟いた。虹が音となって伝わるような、幻想的な声に鳥肌が立つ。

「なになに?」
 などと言ってわたしは瑠璃の腕に抱きつく。
「美春のお腹の音だと思った」
「もう」
 とわたしは見えもしないのに頬をふくらます。両親と和解をしてからの瑠璃は、頻繁に冗談を言うようになり、表情もずいぶんやわらかくなった。なによりよかったのは、赤い記憶の粒子を克服したことだ。

 鳥居をくぐると、霧はうそのように晴れ上がった。前方の階段の上から、青い文火がゆらめいているのが見える。辺り一面には冬の寒さともことなる、独特の冴えた空気感があり、木々や草花は大人しやかにたたずんでいる。空を見上げると青や赤、紫、白といった色の星々がきらめき、そのてまえには極光のような光の幕が、ひらひらとあらわれては消えていくのが確認できた。

 ついに来たのだ。

 階段を一歩々々踏みしめながらのぼってゆく。好奇心と不安とがお腹の底からせりあがってくる。瑠璃の手をひしと握ると、彼女も同じように握りかえしてくれた。

 石垣のつき当たりを右に曲がると、青い焔はその数を増し、境内を匂いやかに彩っているのが見えた。その光景は光と影が手を取り合い、ごくゆるやかなテンポで踊っているようだった。

 外観は現世のものとは多少ことなり、社殿の屋根の部分が茅葺きになっているのと、石畳の両わきから秀でる石柱に、どこかで見た兎と蛙がすわっていた。

 その柱の影から、願いもとめていた人物が現れた。
「やぁ、お二人さん。待ってたで」
 独特の関西弁の巫女、渡世朔夜である。
「お久しぶり、なんですかね……」
 とわたしは自信なく言う。

 朔夜さんは淑やかな足取りで向かってくる。
「せやで。でも忘れてしもたんか、あんなことやこんなこともした仲やのに」
 と朔夜さんは白衣の袖を口元にあて、潤みをおびた瞳でうったえてくる。
「からかってますよね?」
 朔夜さんは意味深長に目を細める。どうしてみんなわたしをからかうのだろう? 正直、嬉しい。

「瑠璃ちゃんもいい顔になったな」
「そうかな」
「ま、こんなとこで話すのもなんやし、中入ろか」
 と朔夜さんは踵をかえして社殿の横の平屋へ歩き、わたしたちもそれについてゆく。その平屋の戸のすき間から、だれかがこちらをのぞいていて、わたしと目が合った途端にいきおいよく戸を開けはなち、こちらへ駆け寄ってきた。

 その人物は、
「みはるちゃーん」
 と叫んだのに、途中で方向転換して瑠璃に抱きついた。瑠璃は一歩後ろに足を踏み出して受け止める。

 わたしは広げた両腕を、初の飛翔後に翼をとじる幼鳥のようにたたんだ。
 困り顔の瑠璃は朔夜さんに目でうったえつつ、その人物をやわく抱きしめ返していた。

「誰やと思う?」
「……輝夜?」
 と瑠璃が答える。
「ぶっぶー」
 朔夜さんが口元にバツ印をつくる。
「あのおばはんがこんなんやったら気味わるいやろ?」
「そうだね」
「じゃあ、双子のいもうとさん?」
「ぶー。正解はウチの娘の小夜やで」
「「娘?」」
 とわたしは大声で、瑠璃は小声で言った。

「おどろくんも無理ないわな。見た目一緒やし。それもこれもこれからじっくり話そや」
 見た目というよりかは、わたしと同じくらいの身長の子を、みっつ上の人が産んでいるというのが衝撃だった。ここは本当にかぐや姫の世界観らしい。

 わたしたちは平屋の中に入った。
 玄関はむかしながらの広々とした空間で、平らに切りそろえられた石がパズルのように組み合わされている。右を見れば下駄箱があり、その上には木づくりの兎と蛙の置物が置かれてある。後ろ手に戸を閉めてふと振り返ると、鍵はついておらず、代わりにわたしの指輪のものに似た宝石が填めこまれていた。

「もしかして」
 とひとりごつ。
「靴は一旦持ってあがってな」
「あ、はぁい」
 靴を脱いで框をあがり、厠の備えられた玄関口の左を行くと、廊下はそれなりの長さがあり、すぐ左には広い和室が、通路をはさんで右にもひと部屋あった。雪乃さんの言うとおり、外と中とでおおきさの印象がことなる。

 廊下の奥にすすむ。

「まず二人にはウチと契約してもらうで」
「契りってやつですか?」
 わたしの問いに小夜ちゃんが答える。

「そうだよ、言おうとおもっても言えないの」
 と小夜ちゃんは陸に打ちあげられた魚みたいに口をぱくぱくさせる。

 廊下の突きあたりを右に曲がり、左手の手すりを撫でながら歩くと裏口に行きつく。左目の端には地下につづく階段が見えた。

 扉自体はごく平凡なものであるけれど、取っ手のまわりは人生ゲームのルーレットのような、数字の割りふられた円い盤におおわれていた。夢で視たものと同じだ。取っ手の中心にはやはり宝石が填められている。

 朔夜さんは針を壱に向けると扉を押した。

 本来なら外へ出てすぐに石垣が見えるはずだけれど、そのようなものは見あたらず、あたりには鬱蒼とした森が広がっていた。十数メートル先には巨大な青い石が鎮座していて、暗い森にあわい光を届けている。

 巨石のそばにはちいさな祠が据えられており、朔夜さんは祠の扉を開けると、中から徳利とおちょこを取り出し、液体をおちょこにそそいだ。小夜ちゃんがそれをひとつずつ受け取って、わたしたちに手渡す。

 匂いをかぐと、ほのかな甘みとアルコールの香りがする。

「お酒?」
「そうだよ。日本のりょうどじゃないからるりちゃんも飲めるね」
 と小夜ちゃんが瑠璃に笑いかける。

「そうだね」
 と瑠璃は彼女のあたまを撫でた。小夜ちゃんはご満悦だった。

「二人は今からウチと契約する。それでええんやな?」
「はい」「問題はない」
 ふたりしてうなずく。
「じゃあそのお酒を飲んでもろて」
 と朔夜さんが手をたたく。

 わたしは瑠璃と視線を交わすとおちょこをかたむけた。お酒は濃厚な甘みのなかに乳製品の酸味が溶けこんだような味で、サウナに入ったときのクラッとくる熱さが顔にふわりと広がり、それから全身に波及していった。

「おいしい。なんのお酒なんですか?」
 と聞くと、朔夜さんは露骨に目をそらした。

「まあ、世の中には知らんほうがええこともあるから……ともかく、これで契約は完了。晴れて二人は巫女の家来になりましたとさ」
「意外とあっさりなんだね」
 と瑠璃が小夜ちゃんにおちょこを返しながら言った。
「普通の神社のアレはパフォーマンスみたいなもんやからな」

 平屋の中にもどる際に、木陰からなにかがこちらをうかがっているのが見えた。あのオタマジャクシがたくさんいる。
「うわ……」
 わたしがイヤな顔をすると、小夜ちゃんがオタマジャクシをつかまえて見せてきた。
「かわいいでしょ?」
 そいつは丸々とふとっていて、みじかい手足としっぽをふりふりと動かしている。つぶらな瞳をねむたそうに閉じたり開いたりするすがたは愛らしい。

「見ようによっては?」
 平屋にもどって靴を玄関に置く。

「お茶入れてくるから、そこの部屋でくつろいどき」
 と朔夜さんは廊下の右側の部屋に入っていった。

 和室は六畳二間の一室で、奥の床の間には雲心月性と書かれた掛け軸が立てかけられ、その横には銀いろにかがやく壺に金銀、紺青、紅に光る実をつけた枝が生けられていて、なにか皮肉めいた感じを受ける。床柱をはさんで右側の違い棚には、黒々とした鉢、絶えず色彩の変化する珠、手のひらサイズの貝がら、折りたたまれた布が飾ってあった。

「ねぇねぇこれみて?」
 小夜ちゃんがてまえの部屋にある水槽を指差す。

「なになに?」
 水槽のなかには金魚が三匹いて、水草の影に隠れたり現れたりしている。二匹は金魚すくいでよく見る真っ赤な固体、もう一匹は紅白だった。

「小夜が捕まえたの?」
 瑠璃が問うと、小夜ちゃんは頬っぺたをふくらまし、
「るりちゃんわすれちゃったの? いっしょにお祭りいったのに」
 かわいらしく抗議する。瑠璃はこの世の終わりみたいな顔で、
「ごめんなさい。全く憶えていなくて……」
 あたまをおさえる。

「えへへ、うそだよ。だってるりちゃんわるくないもん。あのね、この子たちはぁ、お祭りにいったときにね、ちなっちゃんがホテルのところからつれていってくれて、それでとったの。さよがこのあかとしろのやつと、あかのやつをとったんだけど、すごいでしょ? あかとしろはつかまえるのむずかしいっておじさん言ってた! それでね、ちなっちゃんもやったんだけど、すごいへたっぴで、すぐに……うーんと、タモリだっけ? そう、たも! それをね、やぶっちゃうんだ。でもね、おじさんがねえちゃんたちべっぴんさんだからいっぴきやるよってくれたのがこっちのヒレがおっきい子なの。それでね、るりちゃんとママはいくのしんどいからまってるってホテルで話してて、それでかえってきたらすごくなかよくなっててびっくりしちゃった。えっとね、みはるちゃんはともだちといくっていってこなくて、でもちなっちゃんがホテルの窓からあれみはるじゃない? って言ってゆびをさしたんだけど、さよたちはわかんなかったの。やっぱりずっといっしょにいたからわかるんだねってみんなで言ってた!」

 小夜ちゃんは嬉しそうに一生懸命に語ると、万歳をして喜びを表現した。わたしはなぜだか泣きそうになって、
「へぇ、そんなことがあったんだ」
 小夜ちゃんのあたまを撫でた。彼女は心から楽しそうな笑顔を浮かべる。わたしは心が急速に温まっていくのを感じた。小夜ちゃんの口から出た『ちなっちゃん』という言葉。すぐそこに姉がいるという実感。まだなにも思い出せないけれど、姉がわたしや瑠璃やみんなを思いやる優しい人だったことはよく分かる。

 わたしたちは、長机のところに敷かれた座布団にすわった。わたしの左に瑠璃、あいだに小夜ちゃんがすわる。小夜ちゃんと朔夜さんの見た目はそっくりだけれど、表情や仕草はぜんぜんちがう。大人びた顔立ちに無垢な笑みを咲かせているのがかわいらしく、手足は落ち着きなくあっちへ行ったりこっちへ行ったりする。藤いろの髪はまさに藤の花が枝垂れるように美しく、彼女がうごく度ごとにさらさらとなびき、優婉な匂いを振りまいた。

 わたしはてまえ側の部屋を観察する。右には綺麗な障子があるため、外の様子は見えない。玄関側の壁際の棚には絵本や人形、少女向けの玩具が置かれており、小夜ちゃんはそこから取った磁石で絵を描くボードで絵を描いている。

「ねぇ、小夜ちゃんって何才なの?」
「7才だよ」
「へえ、じゃあ一回り以上下かぁ」
 小夜ちゃんは指折り数えて、
「うーんとね、でもたんじょう日がまだだから、12個だよ。えとはちがうから、みはるちゃんとは13個かも」
 開いた左手と小指と薬指を折った手を見せてきた。

「おぉ、かしこい」
 小夜ちゃんは「ママにおしえてもらったの」誇らしげに笑った。
「学校には通っているの?」
 と瑠璃が聞く。

「ううん、いってないんだ。ずっとママといっしょ」
「ずっとふたり?」
「うん。ちなっちゃんが連れてかれちゃったあとは、るりお姉ちゃんもきてくれないし、みはるお姉ちゃんは一回しかきてくれなかったし」
「え、そうなの?」
「うん、いっしょにちなっちゃんを見おくった日」
「ああ、あのときかぁ。もしかして手つないだりした?」
「つないだよ。小夜がみぎて~」
 と小夜ちゃんは右手をふった。

「やっぱり? それ以外は来なかったの?」
「そうだよ。ちなっちゃんがみはるはでぶしょうだからって言ってた」
「……そっかぁ」
 そのとおりなので受け入れるしかない。

 そんな話をしていると、朔夜さんがお茶とお菓子の載ったお盆を持って入ってきて、それを品のよい所作で配っていく。「ありがとうございます」ふたりしてあたまを下げると、
「気ぃ遣わんでええよ。脚もくずてええからな」
 慈しみのこもった声で言い、小夜ちゃんを向く。

「良かったな。お姉ちゃんたち来てくれて」
「うん!」
 と小夜ちゃんは満面の笑みを浮かべた。朔夜さんはわたしの対面にすわる。

「ふぅ。そんじゃあ、何から聞きたい?」
 わたしはあらかじめ考えていた質問をする。
「えっと、お姉ちゃんはいまも元気なんですか?」
「元気やと思うで。二人の考えてる通り、千夏は二年前に月の都に連れてかれた。連れてったのはウチやけどな。今現在何をしとるんかはウチにもわからんけど、旅立つ前には月の都の在り方を変えたいって言っとったから、たぶんそういうことをしとるんちゃうかな」

 少しの間のあとに瑠璃が口を開く。

「千夏さんには会えるの?」
「連れてったるよ、せっかくここまで来たんやしな。とはいえ受け入れられるかもわからんし、道が開くのは来年の八月やから、だいぶ後やけどな」
 わたしと瑠璃は笑みを交わす。

「あの、じゃあ、記憶はもどるんですか?」
「ワンチャンってゆうんやっけ。可能性はあると思う。記憶を消してるってゆうよりは、預かってるって感じやから。都には元老院みたいなんがあるんやけど、そこのジジババの機嫌次第やな」
「なるほど……」
 期待はしないほうがよさそうだ。

 沈黙がおとずれる。

 小夜ちゃんはいつの間にか画用紙に切りかえて、熱心に女の人の絵を描いていた。紙と色鉛筆のこすれる音と時計の秒針が室内を領している。

 ほかにも聞きたいことは山ほどあるけれど、なにから聞けばいいのかがわからない。枝葉の部分よりは、根本的なことから聞くほうがいいだろうか。
 朔夜さんがのんびりとした動作でお茶をすすった。右手で湯飲をつかみ、左手は底に添え、両目を閉じている。その落ち着きはらった所作を見たわたしは正座をくずした。彼女が湯飲を置いたタイミングで瑠璃が質問をした。

「事の真相を聞かせてほしい」
 朔夜さんは青目を斜め上に向けて口角をあげると、一瞬瞳を閉じ、眉間にしわを寄せ、同時にみじかく息をはいた。

「まあ、そうなるわなぁ。ただ、ウチにもようわからんのよな。一応、口伝は知っとるんやけど、あんまり抽象的なもんやから、実際の意味みたいなんはウチにはちょっと……とゆうわけで」
 朔夜さんは机の下から青い水晶玉を取り出した。

「助っ人を呼んどいた――というよりなんか来たから、詳しくはその人に喋ってもらおか」
 朔夜さんが水晶玉を撫でると、それはまばゆい光をはなった。やがて光はねじ曲がり、水晶玉の上に集まって、三寸ばかりの人間の像を形づくった。その人間は、朔夜たちと瓜ふたつのすがたをしている。

「あ~! おばあちゃんだぁ!」
 と小夜ちゃんが立ちあがり、机に身を乗りだして、きららな目を水晶玉に近づけた。

「おばあちゃんはやめてほしいなぁ」
 とミニマムな麗人は苦々しい顔をしている。小夜ちゃんは水晶玉を手にとってすわりなおす。

「輝夜」
 瑠璃がつぶやくと、彼女はわたしたちを交互に見て、
「瑠璃ちゃんも美春ちゃんも久しぶり。おっきくなったねぇ。そりゃあ、歳も取るってもんだってばよ」
 感慨ぶかそうに何度もうなずく。

「わたしも会ったことがあるんですか?」
「そうだよ。千夏ちゃんが一回連れてきてくれたことがあったんだけど、どうしてか私を怖がってさ、それから全然来てくれないの。ねぇ、なんでなんで?」
「しらないですけど……」
 輝夜はにやにやしている。かと思えば急に真面目な顔になった。

「瑠璃ちゃんも、よく頑張ったね」
「うん」
 と瑠璃は微笑んだ。

「はい、感動の再会終わり。それでなんだっけ、何話すんでした?」
 輝夜はあさっての方向を見る。

「事の真相や」
「そうだった。あほあほな朔ちゃんが、ウチにはわからへんからママが話してぇやって泣きついてきたんだよねぇ?」
「……はあ。ええからはよ話せや」
「ひゅう、こわいこわい。ふふぅん、そうだなぁ。まずは皆さんもお知りの通り、歴史には真実も何もないんだよね。だからこれから私が話す内容は、あくまで私の個人的な解釈というわけ。それをご承知くださぁい」

 輝夜はそう前置くと、甘々しい声で語りはじめた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?