見出し画像

【Forget-it-not】第四十一話「世界は何故、いかにして始まったのか」

「まずは世界がどのようにして、何のために生まれたのかを説明するわね。小難しい話だから、わからない子は寝ててもいいからね。

 さて、瑠璃ちゃんの考える通り、この世界にはまず、概念世界という可能性が有限に広がっている世界があったの。そこは絶え間なく可能性が現れては、泡沫のように消えてゆく世界だった。

 可能性が無限でない理由は単純で、不可能性は可能性にはなりえないから。可能性というのは常に抽象と具象の間にあって、その外側には可能性は生じない。もちろん、概念世界における可能性は物質世界における可能性よりもずっと幅は広いけどね。有限はどこまで行っても無限にはならないから、人間も世界も無限に辿り着くことは不可能。つまり無限は可能性足りえないってことになる。こういった存在を人は観念というのだろうね。ふふ、何言ってんだろね、この人。

 その概念世界には当初、概念的な存在者しかいなくて、実際的な作用や反応はなく、何かが起こる可能性が無数に存在するだけで、本当に何かが起こるわけではなかった。たとえるなら夢の中みたいな感じだね。夢の中では色々な出来事が起こっているけれど、それが現実に影響を及ぼすことはないでしょう? 怖い夢を視るとドキドキするけれど、実際に怖いことは起こっていない。それと同じだね。やがてそこに、夢の中で夢を視ていると気がつくように、あるモノが目覚めた。

 それが天之御中主あめのみなかぬし。至高の神にして万物の創造主。概念世界を司る神。彼は何故目覚めることができたのか。これも感嘆するくらいに簡単な話、目覚める可能性が零ではないのなら、どれだけ確率が低くても、いつかは必ず目覚めるのだな。しかしながら、それは生じたとしても一刹那後には消失してしまう。何故なら概念世界では存在を確固たるモノとして維持することはできないから。でも存在を維持できないというのも百%絶対ではないから、無限に近い回数が繰り返されれば、いずれ維持することができるという一点に収束する。こうして彼は必然的に世界に爆誕したのだぁ。そして確率は確定した瞬間に、偶然性が排されて必然となる。それ以降は賽は振られない。たとえばだけど、美春ちゃんが生まれる前は美春ちゃんは可能性の存在として概念世界にいた。美春ちゃんは男の子になる可能性もあったかもしれないし、パリピのギャルに生まれる可能性もあった。けれど美春ちゃんは臆病で泣き虫な女の子に生まれたよね。その瞬間に、美春ちゃんが男の子として生まれる可能性は零になり、それ以外の可能性もまた零になった。仮に美春ちゃんっぽい人が男の子として生まれても、それはもう今現在の美春ちゃんではない誰かでしかない。世界には同じようなものはたくさんあっても、完全に同じなものはないの。同じというのは無限と同じく不可能、だから生じないってことね。

 さて、彼は永久の間、夢を視ていた。彼は最初、何らの感慨も感情も持ち合わせてはいなかったのだけれど、何の因果か彼は、感動するという可能性の糸を手繰り寄せ、愛や幸福という可能性を垣間見た。しかしながらそれはあくまで可能性として存在しているだけで、実際に体験することはできなかった。心を持った彼はこう願った。愛や幸を体験したいと。

 そうして可能性の世界は意識的に動きはじめた。彼は実際的な愛を体験可能な場を作成するのに、物質という可能性に目を付け、それを創造しようと試みた。悲しいことに何度やっても上手く行かない。胎児の成長にはお母さんとの繋がりが必要なように、概念と物質を結び付ける必要があったのだぁ。というわけで、彼はまず、概念と物質を結びつけるために精神世界を司る高御産巣日たかみむすびを産むことにし、次に神産巣日かみむすびを産んだのであ~る。この美須麻流之珠みすまるのたまは世界の創生の際に使われたモノなのさ。

 でまあ、紆余曲折あって、神々はついに体験の場である物質世界の創造に成功した。それから宇宙内に残りの別天津神、神世七代とが宇宙の構造を形作り、それぞれの構造内に数多の神々、世間一般で云うところの八百万の神々が生まれた。

 日本神話にはどうして星の神がいないのでしょう。その答えは初めから神様はお星様だからなのだな。天の川があるように、宇宙には天が原という場所があって、神々はそこにいるかもしれないしいないかもしれないのだぁ……
 ……いやぁ、こんな話すことないからさぁ、ちょっち疲れてきちゃった」

 輝夜はげんなりとした表情でうなだれた。

 水晶玉はいまは瑠璃の手のひらの上にある。小夜ちゃんは長話に飽きたのか、机の下をくぐって朔夜さんの膝の上に行き、あやとりをしている。朔夜さんは慈愛に満ちた表情でそれをながめていた。

「もう少し頑張って」
 と瑠璃が指でホログラムをつつくと、輝夜は「ぐはあああ」大声をあげた。

「え、痛むの?」
 と瑠璃は申し訳なさそうな顔をする。輝夜はニマニマと笑う。

「うそぴょん。ぜんぜん痛くなぁい。瑠璃ちゃんも意外と騙されやすい?」
「そちら側からはどう見えているの?」
「皆がホログラフィックに見えてるってばよ」
「なぁ、おかんは今どこにおんの?」
 と朔夜さんは重みのある声で言った。輝夜はかるい声で返す。

「結構近くにいるぜ」
「ちかく?」
 とわたしはあたりを見回す。もちろんいない。

「ちょっと待ってね」
 と輝夜はパントマイムをするみたいに、歩いたり扉を開けるような動作をし、間もなく階段をあがっているような挙動を見せた。

「は? まさか……」
 朔夜さんが言うのとほとんど同時に、和室の襖がいきおいよく開いた。

「じゃんじゃじゃ~ん、みたいなね」
 一同が呆気にとられているなか、小夜ちゃんだけは輝夜に駆けより、抱きついた。

「おばあちゃんはじめて見た」
「お姉ちゃんね。そういや初めましてだねぇ」
 と輝夜はコアラのようにしがみつく小夜ちゃんといっしょにのろのろとやってくる。

「はじめて会ったんですか?」
「産まれてすぐは私が面倒見てたんだけど、それからはちなっちゃんに任せて家を出てそれっきり。いやぁ、ちょっち忙しくてさ」
「たまにくらい帰ってくればええのに」
「めんごめんご」
 輝夜は小夜ちゃんごと瑠璃の正面に座った。

「あなたはここ数年間何をしていたの?」
「晴嵐むーんと妖退治をしてたのさ。あとはね、黄泉比良坂ってやつを探してるんだけど、ぜぇんぜん見つかんなくて。帰りたいとは思ってたけど、中々ねぇ。ここ、交通の便もわるいし」
「はぁ? 妖怪? なんやそれ」
 わたしたちよりも朔夜さんのほうがおどろいていた。輝夜は必死の形相で言い訳する。

「いやなんと言いますかね、心配性の朔ちゃんに言うと泣いちゃうと思って言えずに出てっちゃって、それで連絡しようにも日中は寝てるし夜は出ずっぱりで中々こう、タイミングとやらが見つからなくてですね、気付けば八年近く経ってましたと。朔ちゃんたちからすれば長いわ! って思うかもだけど、私からしたらよっ! さっきぶりって感じ。若者の八年と年増の八年ってちょっち感覚が違うんだろうね。けどもこの間、るぅりぃたちがもしじきここへ来るから行けやぼけぇって晴嵐たんに言われて来ましたと」

 朔夜さんは心底呆れたように天井をあおぐ。小夜ちゃんは「ほえぇ」みたいな顔をしている。朔夜さんは「ふぅ」口角をあげて、
「まあ、過ぎたこと言うてもしゃあないからな。いつの間に忍び込んでたん?」
 お茶をすすった。

「キミらが高塚の森に入ったときにこそこそっとね。びっくりした?」
「びっくりした」
 と小夜ちゃんが輝夜に頬ずりする。輝夜は「んふぅかわいいねぇ」おでこにキスをして、
「そういえばだけど、私の部屋、そのまんまにしてくれてたんだね。ありがとね、朔夜」
 朔夜さんのあたまに手を伸ばして撫でる。朔夜さんは気恥ずかしそうに、
「当たり前やろ? そんなことよりはよ続きを話したってぇや」
 輝夜の手をつかまえる。微笑ましいやりとりだった。

「ほぉい。宇宙創世についてはさっき話した通りってことで。次は人類が誕生してからのことを話そうかな。さて瑠璃ちゃん、人類史を簡潔に説明してくれたまえ」
 と輝夜は瑠璃を指差す。

「……人類は六百万年前に類人猿から枝分かれを始め、三百三十万年前には道具を使っていた形跡が見られるように。二百万年前には世界各地に散らばり、今現在の人類とよく似た姿になった。その頃の人類種は数種類から数十種類いた可能性が示唆され、三十万年前にもなると、数種類が日常的に火を使用していた痕跡が残っている。時代が下り、七万年前になると、サピエンス種に認知革命が起こり、現在と同等の言語体系が形成され、サピエンス種は数万年をかけて他の人類種を絶滅させ、地上の支配者になった。私が知っているのはこれくらい」

「なるほどね」
 と輝夜は小夜ちゃんの頬をもみながら目を閉じると、数秒後、唐突に朔夜さんのお茶を一気飲みして、それから口を開いた。

「二人もちょっと不思議に思ってるだろうけど、私たちってさ、揃いも揃って美人だし、やたらと才能に恵まれてるとは思わないかい?」
「まあ、自分で言うのもなんですけど、それはすこし思います。特に瑠璃と泉水は凄すぎるっていうか」
「でっしょ。二人はわすれてるだろうけど、千夏ちゃんもさ、中学のエンジョイ陸上部で日本記録を出したりしてるんだなぁ。さて、それは何故でしょう?」
「うーん」
 わたしは瑠璃と顔を見あわせる。瑠璃はたまゆら考えて、
「私たちはサピエンス種ではない?」
 と言った。

「その心は?」
「サピエンス種は元々、人類種の中ではモブキャラのような、没個性的な、取るに足らない陳腐な存在だった。一個体を比較すれば、いわゆるネアンデルタール人の方が身体が大きく、知性にも優れ、運動能力も高かった。だから私たちはネアンデルタール人の末裔なのかと思った」
「近い! けどほんの少し違っていてね、結論から言うと、私たちは天使とか妖精さんの類なのだよ」
「天使?」
 とわたしが返す。

「そう。とは言っても、天界に住むなんかすごい知的存在ってわけではなくて、そこら辺の森に生息していた人類種のひとつなのだな。桂家(実は渡世は偽名なんだよね)に伝わるお話では、私たちの祖先は女性しか生まれず、ほとんど老いることがなく、森の精霊と共に暮らしていた種族でね、なんと自分一人で妊娠出産が可能だったの。私や朔夜に夫がいないのもそういうことなんだよね。ただ、他の種族のように老若男女で役割分担ができないから、共同体はすっごく小さかったみたい。そして人数が少ないが故に一人々々の能力が重要になった。遺伝子の対称性の高さは病気や障害を患いにくくなるという利点があるし、若い時期が長ければ、それだけ多くの子を産み、共同体の主戦力であり続けられる。身長の高さは遠くのものを見るのに役立ち、身体能力が高ければ、狩りの成功率が高くなる。記憶力が良ければ周囲の異変にすぐ気が付けるし、高い知性は戦略を以って共同体の生存を助ける。共感力が高くて集団に和する力のある人は、共同体の結束を強める潤滑油になり、万能は欠員を即座に補充するのを可能にする。そして目が良ければ、周囲にある痕跡から、過去に何があったのかを類推したり、今ある情報から未来を正確に予測することができるようになる。

 まあつまり、今は過去の遺産というわけだね。神話に出てくる天使や妖精や聖母なんかも、荒唐無稽な御伽噺ではなくて、ちゃんとモチーフがあるのだな。人間は無知からは何も生み出せないから」

「そうだとすれば、悪魔のモチーフもいることになる」
 瑠璃が無表情で言う。

「困ったことにその通りなんだよねぇ。口伝によると、大昔に残忍な性質と高い知性を持った種族がいて、彼らは日々蛮行を繰り返していた。それが神様の怒りを買ったのかなんなのか、その共同体にはいつしか男性しか生まれないという呪いが降りかかったみたい。子孫を残さなければならない彼らは、多種族の女性を狙う他はなく、当然、狙われた方の男性たちは女性を守るために戦った。結果は悪魔の種族のボロ勝ちだったみたい。その被害にあったのがサピエンス種ってやつで、認知革命とやらが起こったのは、悪魔の血が混ざったからなのかもね。その後、悪魔の末裔たちはあらゆる人類種を滅ぼし、その過程で女性しか生まれない天使の存在を知った。彼らは天使と交わることで更なる進化を遂げ、神に等しい存在となることを夢見るように。天使たちは悪魔から逃れるために、彼らの手に落ちていなかった大和民族と交わり、歴史から姿を隠した。

 時代が下って縄文中期に入ると、謎の青い珠を使って人々を導く番が現れた。言い伝えでは神の意志による介入だとされているけれど、真実は歴史の闇の中だね。とはいえ事実珠は実在していて、神代の平穏は長らく守られていた。一方で外の世界では、人類は着実に人口を増やし、自然を破壊し、諍いに明け暮れていた。

 二人も知っての通り、この世界には記憶の粒子なるものがある。これは神様の体験コレクションみたいなもので、人類が知覚した愛や幸福の体験を神様が享受するために生み出された。そのために世界は始まったのだしね。ただ、現実には愛や幸福に対して憎悪や不幸もあった。神様はそんなものを見たくはなかったのか、精霊たちに粒子の回収と仕分けを命じ、赤い粒子は精霊たちが食して廃棄し、青い粒子だけを神様に届けるようになった。けれども人口の増加と共に精霊の住処は減少し、反対に赤い粒子はどんどんと増えてしまった。すると世界には周期的に粒子を回収し、廃棄する機構が作られ、約千日に一度のペースで青い粒子はきちんと神様に届けられるようになり、また赤い粒子は黄泉と呼ばれる場所に廃棄されるようになったのよ。

 お察しかもしれないけれど、それも長くはもたなかったのね。黄泉に溜まりに溜まった瘴気は現世に表出した。その一つがアカホヤの大噴火であり、伊邪那美は美須麻流之珠を使って大和民族を守ったのだけれど、自身と千五百余りの人々は黄泉に飲み込まれてしまった。

 八俣遠呂智をはじめとした妖たちは、赤い粒子が意思を持ったものでね、最近は特に数が多くてさぁ、いいかげんにしてくれって感じだよ、ホント。瑠璃ちゃんも大変だったね。いやホントごめんね、私のせいで色々と」

 瑠璃は首をふる。
「確かに大変だったけど、得られることもたくさんあったから」
「はぁ、天使」
 と輝夜はうそ泣きをした。

「あの、それじゃあ壁画に描かれてた人たちって、悪魔の末裔みたいな感じなんです?」
「そういうことだね。天使も悪魔も完全にホモサピに溶け込んだわけではなくて、一定の周期で血が濃く出てくるみたいだなぁ。それが神武東征のときと、平安の陰陽師が流行ったとき、そして現代。榛名ちゃんのお父さんはおそらく彼らの末裔に殺られたんだと思う。尻尾の先っちょくらいしか出さないから、実態はなんにもわかんないけどね」
「そうですか……」
 榎本姉妹の考えは正しかったようだ。事故ではなく事件に巻き込まれていた。ただ、それを知ったところで、悪魔や妖怪なんて、わたしたちにはどうすることもできない。

「まあ、それはあの子たちも分かってると思うよ。妖怪たちに関しては私らが何とか……うん、だから大丈夫。何とかなるなる!」
 輝夜は明るい調子で誤魔化した。

 次いでわたしの脳裏には月の民が別れた理由はなんだろう、という疑問が浮かんだ。

「それについては二人の推理そのまんまかな」
 と輝夜は当たり前のように心を読んできた。

「私たちの祖先は、人間として当たり前のことを当たり前にできる人たちだったのさ。自他を愛し、自他に愛されるよう努める。先人はこの単純な理念をかみよごころと呼んでいた。天上に向かった人も地上に残った人も、同じ理念を持っていたのに、あの日、別々の道を歩むことを決めた。その原因は、物思いがあるからこそ憎しみが生まれるという考えと、物思いがあるからこそ愛が生まれるという考えの対立だった。さて、両者のうち正しいのはどっちでしょう?」
「どっちも正しいんじゃないですかね」
 とわたしは考えるまでもなく答えた。

「その通り。だからこそ難しいんだよねぇ。愛は愛のままに、憎しみを愛に変換できればいいんだけど」
「それこそおとぎ話ですよね」
「そゆこと~」
 輝夜は苦笑した。

 帰り際、桂家の三人がそろってお見送りをしてくれた。団子三姉妹みたいだなぁと思うと、輝夜が笑った。

「あれ?」
 よく見ると、輝夜の瞳だけ色が濃いような。気のせいだろうか。輝夜は美しい顔を惜しげもなくくずし、わたしを変顔で笑わせてきた。

「その指輪があればいつでも来れるから、暇なときに遊びにきたってぇや」
 朔夜は小夜ちゃんの肩に手をそえて言う。

「あそぼあそぼ!」
 と小夜ちゃんが、しっぽをふる子犬のように興奮している。

「もちろん、いっぱい遊びにくるよ。ね、瑠璃?」
「こっちに引っ越そうかな」
「やったぁ」
 と小夜ちゃんは喜びを全身で表現する。瑠璃が冗談を言っているとは思えない。

「あと、雪乃ちゃんや他の皆も連れてきてほしいな。私も久しぶりに会いたいし。いやさ、接触禁止令が出ててね、こっちからは近付けんのよ」
「分かりました。今度連れてきますね」

 玄関戸を開けて外に出る。冷たい冬の空気が、温かな頬にひんやりと張りつく。手をふる三人に手をふりかえし、戸を閉めると、とたんに人の気配が消えた。

 外は真っ暗で、蒼い炎はなく、社殿の屋根も瓦になっていた。どうやらここは現世のようだ。

 階段をくだりながら瑠璃と話す。
「びっくりしたね。わたしたちが別な人類の子孫だなんて」
「うん。でも、今までと何も変わりはないかな」
「そうだね」
 わたしたちはまた、相も変わらずあの街で生きてゆくのだろう。サピエンスだろうが天使だろうが、人間であるかぎりそれは変わらない。

 人類は思っていたよりもむかしから道を間違えてしまっていたようだ。その元凶は恐ろしい悪魔たちのように見えるけれど、わたしはそうは思わない。はじまりはそうであったとしても、人類には選択肢があった。幾度となく正しい道にもどれるチャンスがあったはずだ。それを放棄し、刹那的な快楽を求めつづけた結果があの街なのだろう。奪いあい、憎しみあい、傷付けあい、だれかやなにかを犠牲にしつづけるあの街。

 いまのわたしたちは世界中の人と意思の疎通がとれるし、目の前にいる人を思いやれるだけの余裕もある。そんな余裕はない。以前のわたしはそう思っていた。毎日忙しいし、疲れているし、なにかをやる気力もなにもない。そう思いこんでいた。思いこんでいれば楽だから。でも、いまなら分かる。どんな状況にあっても、大切な人とたった一言あいさつを交わし、そっと抱きしめてあげられることを。だれかを傷つける言葉を飲みこみ、手を引っこめられることを。

 そんな簡単なことに、どうしていままで気づかなかったのだろう。どうしてだれも気づかずに、同じ過ちを繰りかえすのだろう?

 わたしのあたまの中には、小夜ちゃんのすがたが映っていた。ほんのちいさなころのわたしは、きっと世界を小夜ちゃんみたいに見ていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れてだれかを憎み、なにかを恨むようになってしまった。

 わたしたちはいったいなにを忘れてしまったのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?