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純文学が衰退したのは何故か?を考察してみた

出版不況と云われて久しい今日この頃。大衆小説も随分と悲惨なようですが、分けても純文学は惨憺たる状況にあります。芥川賞以外の文学賞は世間に興味を持たれず、芥川賞でさえもが没落の一途を辿っています。芥川賞授賞式の記事が新聞の一面を飾ることは無くなり(あったらすみません)、三日も経てば、誰がどの作品で受賞したのかを忘れ去られる。それは何故だろう? 文学を愛する者としていささかの興味があります。

そんなわけで今回の記事では、謎の文学作品で三島由紀夫をおちょくったりしている私が、現代文学の難点を洗い出し、そこから「純文学が衰退した理由」を浮き上がらせたいと思います。


社会派文学にありがちな方法。でもそれってさ……

純文学にはさまざまな勢力があるかと思いますが、大きく分ければ社会派と芸術派に分けられます。今現在〝比較的〟人気なのは社会派でありましょう。近ごろの流行りはLGBTQ+と女性の社会進出(多様性とくくってもいいでしょう)であります。彼らは現実にある問題を作品内に持ち込み、読者が現実で百遍は聞かされたことをもう一度声高らかに叫ぶのがお好きなようです。彼らが使いがちな手法には大きく分けて二つあります。

一つ目は「自然を大切にしよう!」「戦争を忘れないでぇ!」といった一文で書けるようなことを、百枚の原稿にまで薄めて表現する、といったもの。もう一つは寓意的表現です。寓意的表現とは簡単に言えば、日本人男女が米軍キャンプに赴き、そこで乱痴気騒ぎが起きているとします。その渦中、電柱に止まった小鳥が人間たちをじっと観察するシーンが挿入され、最後に鷹がやってきて小鳥を捕食する。これはアメリカとの戦争に敗れた日本を表現している、日本はちっぽけな鳥なんだから大人しくしてろ、みたいなものです。あるいは洞窟の中に美しい女性がいて、そこに一人の男性が夜這いにやってくる。女性は激しく抵抗し、涙ながら洞窟から出て自由を得る、といったものも考えられましょう。これが何を意味するかはあえてここでは触れません。

真の文学ファンならご存じの通り、実力ある作家というのは社会問題を現実的な視点から書くのではなく、裏側にある構造を抽出して普遍化をはかります。たとえば第二次世界大戦なんぞは長い人類史の一点で起きたことに過ぎません。百年後、二百年後には第三次世界大戦が起きているかもしれない。あるいは私たちはすでにその渦中にいるのかもしれません。そうなれば、当然の帰結として第一次大戦に人気がないように、第二次大戦は人類の認識の範囲から大きく後退します。そして未来の作家が第三次大戦を忘れないで! と主張する作品を書けば、古い戦争を描いた作品は読まれなくなります。社会問題を現実的な視点から書く、というのはそういうことなのです。

一流の作家はあらゆる戦争、あらゆる悪意に共通する項目を抽出し、それをオリジナルな物語として描きます。これが性の問題であるならば、女性が云々ではなく人間が云々を描くのです。女性というのはひどく半端な主語であります。女性のなかには社会進出を望む人もいれば、望まない人もいる。子どもを産みたい人もいれば産みたくない人もいる。精神を病んで社会進出どころではない人もたくさんいます。そういった具体的な個人を抽象化し、女性という主語に要約するのはいけません。何故ならそれは、差別的な男性が「女って〇〇だよなぁ」と偏見に満ちた眼差しで云うのと本質的には同じだからです。そういった作品では得てして「男って〇〇だよねぇ」みたいな会話が出てくるのであります。

一流の作家が現実の問題をあえて書くときには、皮肉に満ちた文体でかなりあけすけに、揶揄するように書いている、と私には感じられます。ディケンズの荒涼館などは良い例でしょう。心優しきエスター・サマーソンが、どこかの大陸には肩を入れ込むのに、我が子を放置するジェリビー夫人をボロクソに批評する。この場面での子どもたちは――私はピーピィという幼子が大好きです――悲惨な状況にありますが、心優しい彼女がウィットに富んだ文章で綴ることで面白い場面に昇華され、読者に不愉快な印象を与えませんし、押しつけがましい印象もありません。

社会派作家のなかにはいじめや虐待の様子をリアリスティックに描写し、それがいかに残酷であるかをうったえる人たちがいますが、それで喜ぶのは感傷主義的な部外者だけであります。当事者が読めばどう思うのかを彼らは想像できていません。それに、現実の諸問題を現実的に描くのはクリエイトではなくイミテイトでありましょう。贋作に価値がないのはどの世界でも同じなのであります。

自らの主義主張を寓意せずに、作中に内在させる作家は比較的レベルが高いと思うですが、彼らの作品は、私の目にはひどく薄味に感じられます。それが何故かを述べるのは難しいのですが、最たる要因は文体が弱いからであります。文体というのは文学固有の表現形式であり、文学を文学たらしめる技法と言えましょう。ここで言う文体は、一般的な〝ですます調〟や〝であるであった調〟のことではなく、その作家固有の形式を指します。

文体を的確に説明するのはこれまた難しいのですが、一つのセンテンスを〝ある色をした糸〟に喩えると、文体はその糸で何かを描くか、ということになります。ドストエフスキーを三文文士と揶揄するナボコフが細部を重要視するのは、模様という全体は糸という部分から成っていると考えるからであります。ドストエフスキーの作品には意図はあれど、糸はありません。糸が無ければ当然模様も何もない。だからこそナボコフはドストエフスキーを一流だとは認めないのです。私個人の感想としても、あのような不愉快な小説はおよそ芸術的だとは思えません(ただ、彼は彼で天才だとは思います)。

日本の一流の文学者の描く模様は、スモックに着いたアップリケといった様相であります。美しい着物に描かれた一流の技巧からはまだまだ遠い。そのような状況にある原因は今一つ分かりかねますが、日本人にありがちな慣れ合いの文化(ちょうど小説投稿サイトでは、作者同士が互いの作品を褒め合う文化があるようです。趣味でやるなら大いに歓迎されるべき文化でありましょうが、コンテストでやるのは如何なものかと思います)、利己的な個人主義且つ権威主義な民族性(これは毎朝道路を眺めていれば分かることです)、霊性と理性を軽視し、情緒に生きる感情的性質あたりが大きく関わっているように感じられます。

芸術至上主義って……

芸術至上主義者なる人々は、文学の最高の目的を美しさに置き、それ以外を決して認めない潔癖な人々です。彼らはひたすらに自らが美しいと思う言葉を選び、美しいと感じる文章を綴ります。そうしてできた小説は、得てして抽象観念的な、言ってしまえば与太話であります。

そこには物語はなく、人間存在の根本原理も書かれていません。彼らの小説に登場する人物は、彼らの美的悦楽を満たす舞台装置でしかない。なんと可哀想な人々でしょうか。そういった小説はもちろん売れませんし評価もされません。誰もよくわからない謎の作家の悦楽には興味がないからです。

『つまんねぇ小説だな』と述べる読者に向けて彼らはこう言います――オレのゲイジュツを理解できないヤツらはオレの本を読む資格がねぇんだ! オレはオレのゲイジュツを理解してくれるヤツのために書いてんだ! だから売れなくてもいいんだ――ほほう、なかなか面白いことを言いますね。そもそも言葉は感情と意思の伝達のために発明されたのに、どうして一部の人にしか伝わらなくていいと思うのでしょう? 売れる小説が必ずしも良い小説であるとは到底思えませんが、少なくとも言葉の原理に当てはめれば、商業的な成功をおさめる小説は特定の軸においては優れているのです。

芸術至上主義者の方々は、およそ言葉に対する敬愛の念に欠けているように感じられます。言葉とは何か、文学とは何かを真剣に考えず、個人的な悦楽のために芸術という言葉を利用し、文学を自己正当化の方便として消費している傾きがあるのです。恐ろしいことに、そういった方々の〝美〟は、美そのもの、美の神髄からはほど遠いところにあります。

彼らの愛好する美的創造とやらは芸術の部分要素に過ぎません。たとえばゴッホの絵画を見て素直に美しいと思う人は稀でしょう。美術的な観点でいえば、彼より優れた美術家はたくさんいます。しかし彼の芸術には人々の心を動かし、感動を呼び起こす何かが含まれている。芸術の神髄はそこにあるのです。夕空を見上げて「あ~きれいだなぁ」……だからどうしたと言うのでしょう? 芸術に携わる者は、美しい夕空がいったい何を呼び覚まし、我々をどこに導くのかを考えねばなりません。それ抜きの美しさは単なる美術品に過ぎず、時間とともに忘れ去られることでしょう。

物語のない小説はアカペラの音楽である

純文学畑の人たちは、作者読者問わず、社会派芸術派問わず、ファンタジーやミステリーといった現代ドラマ以外の設定を忌避しているように感じられます。『ファンタジーなんて浮ついた話は文学にならない!』などと思っているのでしょう。しかし文学を文学たらしめるのはその作家固有の表現形式であって、現代的な話であるか否かにはありません。そもそも文学は現実ではない世界を描くのに、わざわざ現実めいた話を書く理由が私には分からない。現実的な話は現実で事足りている、人間の悪の芽や良くない傾向はネットを見れば読み切れないくらいたくさん書かれてあります。それを改めて小説で表現する必要があるでしょうか。

物語のない小説はアカペラのライブのようなものです。森鴎外のように強固な文体を持ち、又厳格な文章を書けるのなら許容できるのかもしれませんが、彼と同等の能力を持つ作家は現存しないと私は思います。鴎外もどきはこれまでたくさん出てきたのでしょう。しかし彼らの文学は、言うなれば最後列どころか中央にすら届かないか細いアカペラの歌に過ぎません。そんなライブを楽しめる観客はいませんし、付き合ってくれる酔狂な者もいません。ライブには力強いボーカルがあり、ベースやドラムの強固なリズムがあり、ギターやキーボードの主旋律、照明や演出といった効果がある。物語とはそういう類のものであります。

無論、作者のこしらえたありきたりなトリックやら既視感のある場面やらを人物になぞらせるのは物語とは言えません。それはストーリーであってナラティブではないのです。ナラティブは視点人物の認識によって解釈された、たった一つの絶対的な世界であります。絶対的な世界であるのであれば、何を語ろうが示そうが自由であります。よく芸術至上主義的な傾きのある、たとえばナボコフの信奉者なんかは彼の言うことを鵜呑みにし、思想(主義主張)を書くのはブンガクじゃない! と言っているのですが、冷静に考えれば、思想を書くなというのも一つの主義主張でしかないことに気付けるはずです。そもそもあの性格の悪いナボコフの言うことを素直に聞き入れられるその安易な精神性こそがまさに、彼が忌避していた醜悪な俗物的な産物なのではないでしょうか。

とはいえ中途半端な思想をあけすけに描くのはいけない、というのはその通りであります。どうでもいい左翼思想を人物に語らせ、アベがどうのチュウゴクがどうのと書くのは美的でもなければ知的でもない、というのは誰にでも分かることです。人物が思想を語るときは、過去・現在・未来全ての人類に当て嵌まる普遍的な代物でなければなりません。そしてそれがオリジナルな文体によって描かれているとき、本物の文学が語られ、又示されるのであります(それは安易な寓意や象徴主義という意味ではありません)。

格調高さは文学の目的ではない

三島由紀夫などは格調高さを敬愛していたようでありますが、格調高さが云々は作品の世界観、描きたい模様によります。そもそも格調高い文章を読みたいのなら言語学者の論文を読めば済む話ですし、単純な文章の気品では彼らには勝てません。何故なら文学者は言葉の専門家ではなく言葉の魔術師であるからです。文学者は簡単な言葉の組み合わせによって今までにない新しい概念を結晶化するのが仕事なのであって、質実剛健な文章を書くことにはありません。

同じように、会話文は甘えなどというのも単なる思い込みに過ぎません。文学の描く世界を考えれば、むしろ会話文が非常に重要な仕事を果たすことが分かるでしょう。戯曲ではない会話文学なるものが誕生しても、何らの不都合はないのであります。

つまりなにが言いたいのかというと

私が言いたいのは、ほとんどの文士は先人の作った謎の慣習に捉われているか、自らの作った文学的ルールの縄で自らを縛るセルフSMプレイで遊んでいるに過ぎない、ということであります。本物の文士、比類なき天才はそういった枠から抜け出した自由気ままな創造主なのです。数少ない縛りは、作品は文体によって描かなければならないこと、現実ではなく非現実を書くこと、具体的な個人の人生を描写することの三点のみ(意外と多い)。それ以外のどうでもいいルールを捨て去らなければ、文学が復権することはないと私は思います。(他にもまだまだありますが、今回はこの辺りにしておきます)

おわりに

じゃあそこまで言うお前はどういう作品を書いてるんだよ! とお思いのあなたへ(この記事を読んでくれている人がいると信じて)

こちらが私の作品になります。この作品は、既成の文学的常識を完全に無視し、哲学と日本神話を合流させ、世界は何故生まれたのかをファンタジックに描き、神隠しに遭った姉を探すミステリー要素を加え、さまざまな主題を複合的に折り重ね、ありとあらゆる主義主張を否定し、愛と夢に生きることの大切さを説き、過去を視る力と完全記憶能力を持つ東〇大学哲学科主席の天才を登場させ、私の個人的な趣味の百合要素を取り入れています。

技術的な問題はそれはもう数えきれないくらいたくさん抱えているのですが、個人的には、文学歴一年の処女作にしては素晴らしい出来になったという自負があります。最も崇高なる作品は、作者を悪から遠ざけ、根本的に善なるものを志向させる作品だと私は思うのです。たとえ十万部売れようとも、一年後には古本屋の天井を突き破る勢いで積まれている本に、本質的な価値はありません。だからといって商業を無視し、マイナーにひた走るのはそれはそれでおかしな話だとは思いますが。

文学が再び栄えることを私は心より祈っております。


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