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【Forget-it-not】第三十八話「それを忘れないようにしなければ」
私は美春に同行してもらい、東京の実家の最寄り駅まで来た。美春がいれば目を瞑っていても安心だ。ただ彼女を信じて歩けばいいだけだから。
駅前に停車しているtaxiに乗る。住所は寸分の狂いなく暗記している。
「がんばってね。これが終わったら、ちゃっちゃと朔夜さんを見つけて会いに行こ?」
「うん、行ってきます」
タクシーが出発する。
車は確かな足取りで進むのに、私の心は千鳥足を踏んでいる。不安という美酒に酩酊し、意識が眠りを求めているのだ。何も視えなければどれだけ楽だろう。そんな仕様のないことを思ってしまう。
十数分走ると、一瞥せずとも見慣れた場所に来ていることが分かった。幼少からの記憶が海嘯の如く私に襲い掛かり、喜怒哀楽の全てを同時多発的に想起させた。
頭が痛む。
私は過去に飲まれないように、窓の外を眺めた。どれもこれも見たことのある家ばかりだった。実家はもうすぐそこに迫っていた。やがてcountdownが始まり、零になった瞬間に車は止まった。
cardを手渡してから戻ってくるまでの時間が永久に感じられた。降車して左を見ると、以前と何ら変わりのない実家がそこにはあった。彩り豊かな記憶が汪溢する。
喉から腹部にかけてが一本の針に刺されたように疼き出す。緊張に視界が歪み、地面が豆富のようにやわらかく感じられる。
門扉の前まで進み、呼び鈴に手を伸ばすと、怯懦で指が震えた。ここまで来ても心は定まり切らない。彼女たちの言葉でさえも、上手く思い出せない。
でも、それでも押さなければ!
とその時、
「瑠璃ちゃん……?」
右側から声がした。清冽な冬の声色。誰の声であるかはもう分かっている。振り向くまでの一刹那、走馬灯のように種々の記憶が駆け抜けていった。早く振り向きたい気持ちと振り向きたくない気持ちとが綯い交ぜになっていた。
母がいた。
七年前と変わりのない姿の母が憮然と立ち尽くしている。塀から落ちた影が青白い顔色をより一層青く見せている。腕には手提げ鞄が提げられていた。買い物に行っていたのだろう。その非日常のなかの日常らしさに視線が逃げてしまう。
鞄が落ちて、音のする間もなく母が私を抱きしめた。随分小さく感じられた。私が大きくなったのだろう。
私の肩口で声にならない声で叫んでいる。その潤う黒髪から大きく青い記憶が次々に顕現する。視るまでもなく、そこには愛があった。
母を抱きしめる。湖に張った薄氷のように繊細な身体。こんなに細かったなんてしらなかった。
母は私を受け入れている。私も母を受け入れている。それが私の目に映る、たった一つの事実だった。
家に入り、母に全てを打ち明けた。私が心に抱えていた全て、過去が視えること、母の記憶を視てしまったこと、苦しんだこと、悩んだこと。うらむこともあった、会いたいと思うこともあった。大切な人と出会って、励まされてここまで来たこと。
母は百面相のように表情を変え、困惑の色も浮かべたが、最終的には全てを受け入れてくれた。
母の話を聞く。
「束縛しているつもりはなかったの。ただ、瑠璃ちゃんのことが心配で。流石の瑠璃ちゃんでもおぼえてないと思うけど、生後二か月くらいのときにね、お母さんが少し眠ってしまった隙にあなたは急に歩き出して、マンションの五階の窓を開けて、身を乗り出して外を見ていたの。まさか二か月で歩くなんて思ってなくて、本当にびっくりした。だからもう絶対に目を離しちゃダメだって。ずっと一緒にいなきゃって。でも、それが瑠璃ちゃんの負担になっていたなんて、本当にごめんなさい」
母は涙を流す。
又、私の進学したい中学とは別な学校に進ませようとしたのは、学校行事の際に、私の当時の友人たちの私を見る目があまり良いものではなかったことに気付いたからで、理由を打ち明けようにも私を傷付けるのではないかと憚り、結果的にそこから生じた齟齬が致命傷になったようだ。
合格発表から帰宅し、二人で話し合ったときに、母は私の成長に慄然とし、又、本当にその通りだと得心したそうで、自分の情けなさと申し訳なさに母として娘に接する自負を失った。どこで間違えたのか、というのは自分に対する発言であり、父の発言も又、肯定的な意味での発言だったのだ。
その後、祖父母の家に預けたのは不登校になって息苦しい思いをしているよりは、豊饒な自然のある田舎で暮らした方が良いという判断で、当然私を見放したわけではないとのこと。
「もう少し、ちゃんと話せばよかったね」
と母が手巾を目元に押し当てる。
「三人揃って不器用過ぎたのかな」
「似た者親子なんだね」
母は笑う。
「あのね、私、妹には……コンプレックスもまあ、少しは抱いていたかもしれないけれど、あの子は病気がちな私のために、病院にプリントを持ってきてくれたり、お姉ちゃんが寂しくないようにって友達の誘いを断って会いにきてくれたりしたの。それで申し訳ないことをしたなって思って、色々気を遣いすぎていたのかもしれないわ」
「病気がちだったの?」
「ごめんね、瑠璃ちゃんには心配させちゃうと思って黙ってたの。弱いお母さんなんて頼りないじゃない?」
私は溜息を吐く。
「そんなことはない。お母さんは私の母親である前に一人の人間でしょう? だから母親ならこうあるべきと思うのは間違い。人間は誰しもが弱さを持っていて、それを場所や場面によって、現わしたり隠したりしている。家族というのは、それを現すための場の一つなんじゃないかな。子どもは親に頼られると嬉しいものだから、もっと私を頼ってほしい」
母は感極まったように両手で顔を覆った。
「うん、そうするね」
顔を上げた母の表情は雨上がりの澄明な青空のように晴れ渡っていた。母の心に応えるように私の心も透き通ってゆく。
人間は誰しもが、新聞に書かれたある一行をこの世の真理のように錯覚する。私は両親のある一言を全体と捉え、一次元の檻の中に自ら閉じ込もった。けれどもそれはただの線でしかない。見方を変えれば、いつだってそこから自由になることができたのだ。
積もりに積もった話を雪掻きをするが如く話していると、いつの間にか夕刻になっていて、父が仕事から帰宅した。私の姿を見た父は大いに驚き、しばらく逡巡する様子を見せた後に、そっと私を抱き寄せた。
出前を取って、家族三人で食事を摂った。七年ぶりの団欒には喜びもあったが、その何とも言えない気まずさに帰りたいとも思った。けれど、私の帰る場所はここだった。
久方ぶりに入った自室には、以前と何ら変わりのない景色が広がっていた。母が丹念に掃除をしてくれていたようだ。
私は七年前を昨日のことのように感じられる。色褪せない記憶に美化はなく、郷愁もないはずなのに、何故だか懐かしい気持ちで一杯になった。あの日から身長は八糎伸び、教養は増え、知らなかった人々と出会い、様々な困難を乗り越えた。
どれだけの月日が経とうとも、見た目が変化しようとも、何を覚えても、誰と出会っても、何があっても、私は生まれてからずっと白雪瑠璃で在り続けた。意味は大きく変わり、又これからも変わり続けるだろうが、私はこれからも白雪瑠璃として生き続ける。そしてそれを肯定してくれる人たちがいる。
清福で心が満たされる。あれだけ苦しかった日々もあって良かったと思えてしまう。あの日々があったからこそ彼女たちと出会え、今の私がいるのだから。
それを忘れないようにしなければ。
しかし私たちにはまだ、思い出さなければならないことがある。
目を瞑り、晴雲秋月の心を以って記憶を辿ってゆく。
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