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宗教の拠り所と癒し

宗教はとても難しいんだよね

嘘も方便があるが
方便は仏教用語

釈迦が殺人鬼のアングリマーラに嘘を言わせて妊婦を楽にした話があるが

医者も患者に大丈夫です、治りますと嘘を言って患者を安心させてるじゃないですか?

治りませんだの、わかりませんだの言ったほうがいいんでしょうか?

大乗仏教は、般若の智慧と方便の慈悲と言われています。

念仏や祈祷は、神仏の力もあるでしょうが、方便の慈悲もあるなと思っているから、相手のためにやっているかたには、黙っているんですよ。

宗教は、金儲けや自分のための騙しなだけもたくさんあるし

苦痛や苦悩のかたの拠り所や癒しとしてのかたも、たくさん見てきましたよ。

宗教者や医者や弁護士だから直ぐに信じられるんでしょ。

私がいくら、同じことを言っても何にもならないことがたくさんでしたよ。

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仏教者の説法です

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以下、まとめました。
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【質問】

仏教的に、幽霊はどんな意味があるのでしょうか。

【回答】

仏教では、幽霊は、餓鬼界の衆生で、執着が強い人が堕ちる苦しみの世界です。

幽霊には、三つの特徴が考えられます。

一つ目が髪を後ろに長く引いている姿です。そして二つ目が両手を前に差し出している姿です。幽霊というと、この姿をするので、有名です。手を前に出して、「うらめしや」と言っている姿です。

最後の三つ目が幽霊には足がない姿。これも幽霊の代名詞にもなっているほど、よく知られているものです。

面白いのは、それぞれの特徴に意味があるということです。ただ単に幽霊の姿を想像して、描いたのではない、ということです。

仏教の教えを踏まえて、人間の陥りやすい姿を、きちんと、その特徴に織り込んで描いたものなのです。

一つ目の、髪を後ろに長く引いている姿とは、過ぎ去った出来事に捉われて、過去を引きずっている姿です。

二つ目の両手を前に差し出している姿とは、将来のことに執着して、悩んで、不安になっている姿で、物事を先に先に考えて、まだ何もしていないのに、未来に対して、取り越し苦労をしている姿なのです。

何かをやろうとした時に、頭の中だけで、グルグル考えて、それで疲れてしまい、何も出来ないで終わってしまう状態です。

最後の三つ目は、幽霊には足がないのが、常識になっております。

でも何故、足がないのか、と言いますと、その理由は、過去を引きずり、将来のことを取り越し苦労することですが、その結果、心が過去や未来に飛んでいってしまい、今が疎かになります。

その姿が足がない形になっています。過去の出来事に心をとられ、まだ見ぬ明日にも心を奪われる。

そのために一番大事な今が疎かになる。そうやって毎日を生きているから、自分が幸せだとは、到底、思えない訳なのです。

今の、この瞬間を、大切に生きることを教えたのが、仏教なのです。

『過去を思い出して、ぼーっとしないこと。未来をイメージして、妄想に耽らないこと。過去は、既に過ぎ去った幻覚であり、未来は、まだ来ぬ幻覚である。

現在、目の前にある物事を、その瞬間、瞬間、あるがままに観察して、今日、今ここで、この瞬間に、意識を集中して、生きるならば、そなたには、明日の心配は何もないであろう。』

お釈迦様は、過去を振り返らず、未来を追わず、ひたすら、今あるものの観察に務め、今を全力で生きることだ、と教えられます。

今、なすべきことの義務を果たすことの重要性が説かれています。

しばしば、私達は今を疎かにして、過去や未来のことに、引きずられがちだから、それを幽霊の姿で描写したのです。

🙏

自死・自殺を仏教の視点から考える 仏教学者・佐々木閑氏

仏教には「創造主」がいません。私たちは偶然、輪廻(りんね)の世界に生まれた生物であり、全てが苦しみであるという世界で悩みながら生きる運命を背負っています。これは、生まれながらに、誰かから生きる意味を授かったわけではないということです。同時に、生きる意味を自分自身で見つけるしかないということでもあります。ですから、自分の人生が誰かにつくられたものでない以上、私たちは生きることに負い目を感じる必要はありません。生きる権利はありますが、生きる義務を負わされているわけではないのです。

その上で、仏教で自殺が悪なのかどうかを考えてみたいと思います。悪には2種類あります。一つは世俗的な意味での悪です。将来の自分に苦しみをもたらす行為を指し、例えば、うそをつく、盗むといったことが挙げられます。もしそうした行為により犯罪に及んだら、逮捕され、服役するなどの苦しみを受けることになります。これは私たちが暮らす社会では当たり前のルールで、仏教に限らない世俗的な善悪観と言えましょう。

もう一つは仏教的な意味での悪です。仏教は、仏道修行によって涅槃(ねはん)を目指しており、自らの心を変えることによって、輪廻から逃れることが目的です。そのため、涅槃への道を妨げ、輪廻を継続させる行為は全て悪である、という考え方が存在します。

さて、自殺はどちらかに入るのでしょうか。まずは世俗的な意味から、自殺が後に苦しみを受けるかどうかについてですが、自殺は、すでに苦しみを受けている人が、その苦しみを消すために行う行為です。新たな悪を生む行為ではありませんから、自殺は悪にはなり得ないのです。また、涅槃への道の邪魔になるかといえば、それも違います。ただし、もったいない行為だとは言えるかもしれません。せっかく人として生まれて、悟りを開く道を歩む機会があるのに、自ら命を絶ち、これを逃すのは惜しい行為と考えられます。しかし、悪いことだとは言えません。このように、世俗的、仏教的な面から見ても、自殺は悪に入らないのです。

さらに、私が専門に研究している仏教の「律」の観点から、自殺を考えてみましょう。律は僧侶の生活を規定する仏教の法律ですが、その律で自殺は罪とされているのでしょうか。この議論の際にしばしば挙げられるのが、仏教には「人は自殺してはならない」という規則がある、という言説です。しかし実際には、そのような規則はないのです。

釈迦が「この我々の肉体は汚れたものである」と説き示したため、これを誤解した弟子たちが、「それなら死にましょう」と言って、自殺したり、互いを殺し合ったり、他人に自分を殺すよう頼んだりしたという逸話です。これを機に、釈迦は「人を殺してはいけない」という規則を制定したといわれます。物語の中で記されている「自分で死ぬ」という言い回しから、あたかも自殺が禁止されているかのように理解する方がいますが、そうではありません。律のどこにも、自分で自分を殺すこと、すなわち、自殺が罪に問われるとは記されていないのです。

この物語を拡大解釈し、仏教は自殺も殺人と見なしているという学説を唱えた人もいましたが、今はもう、否定されています。『サマンタパーサーディカー』という律の注釈書は、この物語の中では相手を殺したり、お互いに殺し合ったりすることだけが罪であって、自ら命を絶つこと、自分を殺してほしいと頼むことは罪に問われないと明記しているのです。ここを見逃すと、仏教は自殺を犯罪と見なす宗教であるかのように誤解してしまいますが、実際はそうではありません。
釈尊は、「人は全て平等である」と説いています。この意味について、カースト制のもと、人が生まれながらに差別されていた当時のインドでは、生まれで人を差別しない教えととらえることもできます。しかし、それだけではありません。私たちは無意識のうちに、人は平等という意味を、“生きている人”は平等であると考えてしまいがちです。しかし実際のところ、人としてこの世に生まれてきた者が、いつ死に、いつ生まれるかは分かりません。全ての存在は偶然に過ぎないのです。そのため、死者も生者も隔てなく、皆が平等であると釈迦は示したのだと、私は考えています。つまり、「全ての人が平等である」という言葉の真の意味は、「生きている人と死んだ人には何の違いもない」ということなのです。

自殺が悪かどうか。これはいい加減に論じられてはならないものです。私自身がいつも、自死・自殺について語る際、大切にしていることがあります。それは、この場に、亡くなった方も一緒におられる、という気持ちで話す姿勢です。人が全て平等であるならば、死んでいる人は、自分の思いや意見を人に伝えられないというハンディキャップを背負っているのだと理解した上で、「私たちのそばに今、座っておられる」と考えるべきなのです。それが、釈尊の説く「平等」であると考えます。

社会では、自殺に対するイメージが間違った形で広がりをみせており、とても残念に思います。前述の「自殺は犯罪である」という考え方に加えて、自殺した人は「弱い人だった」「愚かな人だった」というような見方、考え方が今なお存在し続けています。こうした考えが生まれるのは、生きている私たちが正常であって、亡くなった方は正常な世界から外れた人間であるという意識があるからではないでしょうか。これは、驕(おご)りであり、実は、欲望や、世俗の楽しみにしがみついて生きている私たちの方が、よほど劣った人間なのではないかと感じることがあります。この自死・自殺の問題を考える上で、釈迦が示した“平等”というものを、いま一度、とらえ直す必要があると思います。

(11月10日、京都市で行われた「仏教と自死に関する国際シンポジウム」の基調講演から)

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キリスト者の告白・神との対話・祈り

ニューヨークの祈り

わたしは成功しようと強さを求めた、けれども謙虚に従うことを学ぶように弱くされた。
わたしはさらに偉大なことをしようと健康を求めた、けれどもさらに善いことができるよう病弱な体を与えられた。
幸福になろうと富を求めた。けれども賢明になるよう貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと権力を求めた、けれども神が必要だと感じられるよう弱さを与えられた。
人生を大いに楽しもうと全てのものを求めた、けれども全てのものを楽しめるよう人生を与えられた。
わたしが求めたものは何ひとつ得ることはなかった、けれどもわたしが望んでいたあらゆるものを得た。
そんなわたしの、言葉にならない祈りのほとんど全てがかなえられた、わたしは、あらゆる人々の中で、最も豊かに祝福されている。
(ニューヨーク市のリハビリテーション・センターの壁に刻まれている祈りだそうですが、その起源は、南北戦争の時の、ある無名の兵士の祈りだそうです。)




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