がんばらないと決めた日
大学受験のお話です。母子家庭でお金の問題で国立一本、私立は一切受けないで、浪人もなし。そもそも1年間追加で勉強に打ち込める気がしなかっただけ。ただ1年間本気で受験勉強に打ち込めたら東大、京大、医学部以外はいける根拠のない自信はありました。
高校生の学力
根拠のないといいつつ僕は学力は良くて、進学校のいわゆる特進?頭のいいクラスにずっと在籍してました。特に理系科目の数学、化学、物理がとても得意で、定期試験も全国模試でも学年TOP5には常にいた気がします。学校のレベルが高くないのもありますが。。。
国語、英語は人並みで定期試験では成績が良くて模試では偏差値55くらいの人でした。理系科目で全体順位も上げてる人ですね。受験生のときは理系科目で頭がいいのは有名で特に物理は僕が一番得意で試験問題の質問とかも自習時間でよく質問されていてモテてました。笑
部活が終わり、受験に向けて
部活が強いわけでもなく、順当の優勝候補に負けて6月から本格的に受験勉強が開始しました。部活をしていた2年時でも成績は良かったのでどこまで伸びるかって話なんですけど。最初の第一志望は名古屋大学と旧帝大だったので、伸びて伸びて伸びて手が届くレベルでした。
第一志望の理由は幼少時、両親が離婚していない時に名古屋に住んでいたので、名古屋で生活したい気持ちが優先されてました。勉強したいことは二の次でしたね。あと都会に行きたい気持ちも多くて、高校の時にライブに初めていったことがきっかけで都会に住めば交通費がかからないっていう理由だったかな。あ、芸能人と遭遇したい気持ちもあったな。
振り返ると不純な動機ばっかりですね。笑
チャンスを増やすための推薦入試
夏休みの時に前後期だけでなく推薦入試の活用を先生に勧められて推薦の準備をしたんだけど、応募書類がぜんっぜんかけなくて。(動機が不純だから当たり前なんだけど)焦って、書こうとして、書いては消してを繰り返してました。その分勉強の時間も少なくなって、推薦に落ちた時に取り返せなくなる、前後期で勝負できないって。
センターを使う推薦だったけど、センターも基準7.5割を安定してとれるわけでもなかったから、あと圧倒的に二次の記述試験で稼ぐタイプだったのもあり、そんな理由で推薦を辞めました。そもそも大学なんか行きたくないし、たまたま頭が良かっただけで、勉強が楽しいとは全然思ってなかった。当時は楽しいって思い込んでたけど、人から認められる頼られるのが楽しかっただけ見たい。
母親ともけっこう衝突したりした。母親が大学に行けなかったから子どもにはどうしても行ってほしいって言われて、でも、おれは行きたくない、なんなら都会に行けるならフリーターでもいいって。
あきらめて、がんばらないと決めた
名古屋はセンターがよかったら受けようと諦めたと言って、今度は東京の大学をとりあえず目指して(都会に行く願望でしか大学に行く理由がなかった)絶対に家を出て形ばかりの自立をするつもりでした。母親が高卒で実家を出て働き始めたのもあって、独り立ちしてたから。一応、センターの結果次第でどこの大学を受けるかパターンは決めました。
センターが終わって結果が666点だったかな、東京の大学のボーダーには20点足りなくて、二次で逆転できる力はあったけど、そのころはなんだろう楽がしたくて解放されたくて手を抜きたくて仕方がなかったんだよね。
名古屋大学を諦めた時点で家から出れればいいからどうでもいい適当な大学に入ってバイト初めてそこそこに大学中退して母親と連絡手段を断って生きていこうと本気で考えてた。
受験の結果
割と自分の中でも努力した、生きてきた18年間の中でぶっちぎりの一番がんばってやってた。ただセンターを受けるまでは周囲には諦めたといいつつ全然心が名古屋大学を諦めてなかったんだよね。センターの結果で折れた。
「あ、自分は特別でもなんでもなく、ただ頭がちょっと良くて勘違い野郎だったんだ」
このときに「がんばらないで生きていこう、少なくともがんばろうとしても無理だから、がんばってる自分に気づかないくらいハマれるものだけがんばろうって」決めた。
結局、おれのセンターの点だと100点弱下のボーダーで手ごろな大学を受験した。結果は学科200人前後の17位で合格、センター余裕で二次が得意なのもあり。選んだ大学に後悔はないくらい友達にも先輩にも恵まれた。
大学受験が「がんばらないで生きていこう」と決めたきっかけだったし今でもがんばれないときによく思い出す。「がんばらないんだった」って。いいか悪いかはわからないけど、がんばらないと生きていけない価値観は変わった大きい思い出になった。
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