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自分とつながる。声にのせる。

先日、ある年末番組を観ていた。今年話題になったトピックをランキング順に紹介していく番組だ。上位には「100日後に死ぬワニ」や「鬼滅の刃」が上がっていた。毎年こういった番組を観ていると「あの話って今年だった?!」と驚くもので、「100日後に死ぬワニ」はまさにそうだった。

各順位のトピックが発表されるごとに、ワンピースドレスでロングヘアのスラッとしたお姉さんがそのトピックの内容を紹介していく。これも年末番組あるあるだろう。高くよく響いて聞き取りやすい声でスラスラと紹介していた。表彰式に相応しいような、華やかでお淑やかな声だった。

番組も終盤に差し掛かった頃。今年、最も話題になったトピックは、誰もが予想する通りとでもいおうか、「緊急事態宣言」「コロナ(新型コロナ)」と発表された。

そこで私は違和感を覚えた。彼女がこれまでと変わらず明るく華やかな声でお淑やかに詳細を紹介したからだ。

誰がどう見ても、おめでたい結果ではないだろう。楽しい話題でもないだろう。言葉と声が重ならず、内容が入ってこなかった。何を話しているのか理解するのにかなり頭を使った。聴き心地の良い声であるにもかかわらず、正直、疲れた。

彼女は、原稿を語っているのではなく、ただ文字を読み上げていたのかもしれない。意味を伝えるのではなく、表彰式のお姉さんを演っていたのかもしれない。気持ちの良い声なのにもったいないなと感じた。

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同じようなことが夏頃にもあった。九州が豪雨と台風で大変だった時期だ。

何気なくラジオを聞いていると、あるイベントについてアナウンサーのお姉さんが紹介していた。その中で、九州の料理人と電話をつないで話をする場面があった。確かその料理人は、イベントで出る料理の監修を手がけていたと思う。

その電話でいきなりお姉さんは、明るく楽しそうに「今、そちら九州はどんな様子ですか?」と言い放った。料理人は「雨の影響で大変で…」と心なしか不機嫌そうに答えた。そりゃそうだろうと思ったのだが、お姉さんはさらに驚きの反応をした。「そうですか〜!」ととても元気に、まるで「良かったですね!」と言っているような口調で応えたのだ。聞いていた私は、思わずラジオの前で「は?!」と声を出してしまった。

まるで会話になっていない。相手が話すのを聞いて丁寧に返している“雰囲気”にしているだけではないか。そもそも、相手の話を聞いていると言えるのだろうか。ただ物理的に音を聞いて、音が止まったから相手は話し終えたらしいと判断し、「そうですか」と返しただけなのではとすら思えてしまう。

私はお姉さんではないので、どの程度相手の話を受け止めて、どんな気持ちや考えで返答していたのかは知らないしわからない。もしこれがテレビで顔が映っていれば、物憂げな表情をしていたかもしれない。けれど、声からはそういったことは一片も感じとられなかった。話している内容と声が、全くと言っていいほどそぐっていなかった。

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こういったことは、日常でもしょっちゅう起きているのだと思う。たまたま例に挙げた2件は女声の話だったが、性別も年齢も関係なく起こり得るのではなかろうか。

私自身も、今年の夏先にオンラインでナレーションのワークショップを始めたばかりの頃は、自分が思っている声の表情と、実際に他者に届いている印象の違いに驚いた。

最初に練習した原稿は、春の兆しと新たな環境への挑戦にワクワクする気持ちを表現したものだった。そんなワクワクを反映して、ポカポカと明るいイメージで読んだ…つもりだった。

ところが、教えてくれているしょうじさんや他の参加者からは「暗い」と言われてしまった。最初は「え、ちゃんと明るく読んでるのに? そんなわけないでしょ、じゃあどうしたらいいって言うのさ」と困惑した(素直でない生徒で、いつもしょうじさんの手を煩わせている…申し訳ない)。でも、自分で録音を聞き返してみると、確かに要所要所が不安気だったり、気持ちが抜けて文字を読んでいるだけだったり、落ち着いた雰囲気にしたつもりがただ音が落ちているだけだったりして、全体的になんとなく暗い印象だった。

そこで声のトーンを明るくすることをより意識してみた。すると今度は「声だけが跳ね上がってキンキンする、軽い」「気持ちが入っていなくて、形だけ明るくしている。だから、内容も入ってこない。聞いていて疲れる」というフィードバックを受けた(実際はもっと優しく伝えてくれている)。

オンラインラジオのstand.fmを始めたのはちょうどこの頃(最近はめっきり更新しなくなってしまった…)。初期を聞けば、細くて軽く、キーンと響く高い音だけが出ているのがわかると思う。決してその頃の声が悪かったとは言わない。機械との相性は良くはないが、「綺麗な声」「かわいい声」と言ってくれる人もいた。けれど、どこか落ち着きがなく浮き足立っていて、「話の内容が届く声」ではなかったと思う。

それからワークショップでは、「『どんな声を出そう、どんな読みをしよう』を一回忘れて、文章の情景をイメージする。どんな気持ちで誰に語りかけているのかを体感する」ことを主軸に練習した。自然と声の落ち着きと温かみが増してきた。声を高くして強調するだけでなく、低い音から潜らせて印象づける方法も知った。知らないうちに今までと違う抑揚の付け方や声の出し方も増えていった。

まだまだ安定はしていないし、反対に高くならないようにと意識しすぎてうまくいかないこともある。“正しい読み”を想定してそこにはめようとしてしまい、自分と読みのつながりが薄まることもある。けれど、タコの糸が切れたように声だけが宙に浮いていることは減ってきたと思う。

原稿に潜って一つひとつ掴みながら読めたときは、ただ文字を読み上げているときとは違い、何かがストンと腑に落ちてつながる感覚がある。そういうときは、しょうじさんからも良かったと言ってもらえる。後から自分で録音を聞き返しても、なんだか落ち着く。

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声と伝えることの重なり・ズレは、その場で自分のことを伝えるインプロのワークでも大きく影響する。

例えば「楽しい」と思ったとき、即座にその感情をパートナーに伝えようと、ただ「楽しい」と言葉にする。このとき、どんな発し方をするかで全く印象が違うのだ。「自分が『楽しい』ことに気がついたから言葉にしておく」だと、独り言になり届かない。「ちゃんと相手に伝えようとして」とフィードバックを受け、今度は「楽しい」という“言葉”を伝えようとすると、圧がかかるばかりで「楽しい」は伝わらない。

「楽しい」という“言葉”へのこだわりを捨てて、その瞬間の“感情・衝動”を伝えようとして、はじめて届く。自分と芯からつながり、自分がしっかり声にのっているからだ。そういうときは、その一言が相手へも自分へすらも与える影響が大きくなり、やりとりや場面が大きくリズミカルに動き出す。

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近年よく「アウトプットが大事だ」なんて話を聞く。その多くは、どう端的に伝えるか、どうわかりやすい言葉や図表で伝えるか、どう理路整然と整理して伝えるか、わかりやすいプレゼンテーションとは何か…といったことを解説していると感じる。受け取る側もそういったテクニックを求めがちだと思う。

でもそれは、一番外側の「形・見え方」とそれを作るための準備や工程だ。もちろんそれは大切だと思う。特にビジネスの場面では重要だろう。

けれどもっと、効率や合理性からは遠く情緒的な、自分とつながること、そしてその考えや感情を声にのせることも、大事といわれる「アウトプット」の欠かせない要素なのではないだろうか。

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