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鰻と風船と東京タワー

BNP上昇


BNP。
脳性ナトリウム利尿ペプチドの略語。
心不全のマーカーだ。

前回の定期検査の結果と比較して、BNPがやけに高いことを確認したかかりつけ医は、平日の昼間に我が家に電話をかけてきた。

異常が見つかったのは私の夫であり、サラリーマンの夫は職場にいる時間だ。それは分かっているであろうはずのかかりつけ医が、妻の私に電話してきたのだ。

受話器を取った私は、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら医師の話を聞いていた。

「BNPが異常値…心不全の恐れ…病院を紹介するから…できれば早いうちに…検査…必ず伝えて…」

そんな言葉が、クリニックの診察室で挨拶した時と同じ落ち着いた声に乗ってこちらへと流れてきた。

夫は不整脈を持っている。もう何年も前、このかかりつけ医を最初に受診した時の夫は、お腹やふくらはぎまでむくんでいて、息も辛そうだった。この変化は急激にやってきたものだった。医師は夫を「心房細動」と診断した。医師は、帰宅を許可したものの、何かあったらすぐに電話するようにと、夫に自分の携帯番号も渡していた。

何か美味しい物食べたいね ~ 鰻

あの電話から暫くして、夫は大きな病院での精密検査を予約した。ちょうどその頃、私たちの入籍記念日が近づいていた。夫は、電話の伝言を聞く以前から自分でも不調は感じていたはずだけれど、記念日を楽しむことを優先したいと言ってきた。

「塩分とかそういうのはとりあえずどうでもいいから、なんか美味しい物食べたい」

「何が食べたい?」と私。

「野田岩でも行こうか」と夫。

野田岩というのは、東京の赤羽橋駅から徒歩で行ける老舗の鰻料理の名店だ。お小遣いが貯まると二人でうきうきと何度か食べに行っていた。

「いいね」

絶対安静の指示が出たわけでもない。なんとかなるだろう。私も賛成した。

そうして、私たちは、かかりつけ医の電話から数日経ったある日、電車に乗って赤羽橋へと向かった。6月の晴れた日。おめでとう入籍記念日。

志ら焼きと中入れ丼

野田岩別館のテーブル席につく。その日は天然ものが入っていると聞いたので、その志ら焼きを注文した。「白焼き」ではなくて「志ら焼き」とメニューに書いてあるところがいい。それから中入れ丼を二つ注文。

香の物や肝吸いが揃ったところに続けて運ばれてきた志ら焼きは、箸を当てればほろほろと軟らかい。塩や山葵とよく合う。ほのかに香ばしく、ちょっぴりバターのような味もする。

「ああ、やっぱりうまいなぁ」と目の前に座る夫が言う。

「幸せだねぇ」と私。

次に運ばれてきた中入れ丼。これはご飯の上にかば焼きがのっているだけのうな丼ではなく、箸を進めれば中からもう一切れかば焼きが現れるという贅沢でボリュームのある丼だ。普段、私は丼物はお腹が途中でいっぱいになってしまうのでほとんど頼むことはないのだが、これだけは別。華やかな柄をあしらった器の蓋を開ける。たれを通して備長炭で焼き上げられたこちらもふわふわの蒲焼きが現れる。それをご飯を一緒に崩しながらいただく。

川を海をどこまでも泳いでいたであろう力強さと生命力が、柔らかな食感の奥深い味わいの料理に姿を変えて、私たちを元気づけてくれると想像しながら口に入れてみる。

夫もどんどん「元気」を体内に取り入れているんだな。私はその素直に嬉しそうな食べ方をちらりと見た。良かった、きっと心臓の調子もよくなる。大丈夫だ。そう信じられた。

「ああ、うまかった」

店を出たとき、夫はそう言った。6月の日差しはもう十分に強く、空気にはちょっと湿り気がある。じんわりと汗が出てくるような陽気だ。

「東京タワー行ける?」と私。

「歩ける」と夫。

風船と東京タワー

野田岩から東京タワーは目と鼻の先だ。私は、メインデッキのタワー大神宮に参拝に行ってみたいなと前日に話していた。ただ、タワーまでは上り坂になることと、移動が増えることで夫の循環器に負担になったりしないだろうかということが、ちょっと心配だった。

「行く」という夫と、ゆっくりと東京タワーを目指した。タワーの足元まで来た。見上げるとやっぱり高い。最後に来たのはいつだろう。もしかしたら子供の頃の遠足だったろうか。夫もタワーを見上げながらふと足を止めた。「ちょっと休む」と言った。元気な時ならなんてことのないスロープも、息を整えないと登っていけない状態なのだ。

二人で休憩し、もう一度歩き出す。発券売り場に到着し、展望台までのチケットを買う。エレベーターですうっと空へと近づく。メインデッキで降りて、まずは大神宮を見つけて参拝した。

床の一部がガラス張りになっていて、はるか真下が見下ろせる。高所恐怖症の夫は、ちらりと覗いただけで「やだやだ」と顔をそむけた。私は笑った。そうして、一面のガラスの向こうに広がる東京の街並みを見下ろしながらゆっくりと歩いた。

その時だ。

どこか近くで結婚式が行われたのだろうか。色とりどりの風船が目の高さへと漂ってきた。風があまり強くなかったのか、風船たちはそれほどばらばらにならず、私たちの眼前を左から右へと流れていく。

「これ、すごいね」と私は言った。

この一瞬、偶然の一瞬、地上からはるかに離れた一点で、風船たちが挨拶をしていく。奇跡なのかもしれないな。

(そうだよ。やっぱり大丈夫だよ。体調はうなぎのぼりにまた良くなるよ)

夫も「すごいな」とは言いながら、もう違う眼下の世界に目を移していたが、空想好きな私にはこれも応援としか思えず、泣けそうなくらい、嬉しかった。

風船は6月の空をさらに昇っていって、小さくなった。

正常範囲へ

その後、夫は、大学病院での精密検査と栄養指導を受け、仕事も今までどおり続けてよいというゴーサインをもらった。利尿剤が追加で処方された。おトイレにたびたび行く時間帯の調整などはちょっと大変だが、心臓への負担を軽減することができるらしい。

塩分やタンパク質の摂り過ぎには注意したが、基本的に食べたいものを原八分目で食べる生活を続け、週末には楽しみの晩酌も続けた。それでも、数か月後のかかりつけ医による検査ではほぼ正常値まで回復した。

実は内心(これが最後になる可能性もあるのかな)と思いながら夫と出かけた6月の記念日。一緒に美味しく食べたこと。忘れられない食事だ。


元保護犬であった愛犬がシニアとなりお空組となりました。まだまださびしい毎日ですが、これからも保護犬たちが幸せをつかめるように何らかの行動は続けたいと思います。愛ある作品も素人ながら作ってまいりたいと思っています。 お茶一杯分ほどでもサポートをいただけたら心から嬉しいです!