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精神的な転機は拒むことができないという。(まえがきその3)

 この春、ぼくは大学を卒業するはずだった。しかし学生企業で働いてみたり、学業以外に時間を使ったりしている間に、卒業後の進路を決め損ねてしまった。もう一年大学に残り、人生の道筋を立て直すことにした。親には感謝しかない。就職したら絶対にいい暮らしをさせてあげたいと思う。

 これまで、ぼくは自分の人生に自信があった。人のやらないことに挑戦し、それなりの評価を受け、なかなか有意義な人生を歩んでいた。
 そしていつでも、献身的な姿勢を貫いているつもりだった。誰かのために、自分を犠牲にすることに一切の不満がなかった。むしろ、人のために生きている自分が好きだった。まわりの人は、ぼくにこう言った。

「もっと、自分本位に生きていいんだよ。わがままでいいんだよ。」

 けれどもぼくは、人のために何かをする自分を愛していた。自己犠牲ができる自分を何よりも信用していた気がする。先述のタイ・ラオス旅行でも、あれこれ気を回したり、体調を崩した友人のために病院を探したりした。頼まれてもいないのに。
 それは相手のためであり、そうすることで相手は喜んでくれるだろう。喜んでくれなくてもいい。結果的にぼくの振る舞いで、少しでも彼女が快適にすごせるのならばそれでいい。
 いかに彼女たちを満足させられるか。

 どうやら、この生き方は絶対ではないらしい。ぼくは人のためといいながら、他人のために動く自分に知らないうちに酔いしれていた。どこかで他人を見下していたのかもしれない。

−お世話をしてやっている。ぼくは感謝されるべき人間だ

 そんな思いが人生に巣食っていた。人のために生きるという謙虚な生き方に胡座をかいて、感謝を周囲に強いていた。ありがた迷惑を通り越し、ただの迷惑になっていたのかもしれない。
 もちろん、このおせっかいが絶縁の直接的な原因ではないだろう。けれども、おせっかいを焼くことで、少々のことは許されると調子にのっていたに違いないのだ。許し難い何かが、ちょっとずつ溜まっていたんだと思う。

「最後くらい、お互い嫌な思いをしたくないから別行動しよう−」

 この言葉、そしてそれを放つ直前の二人の、どこか諦めたような悲しい目は、これまで積み上がりに積み上がっていた、自分の人生に対する自負と、驕りを決定的にぶちこわした。

 帰国から数日、相変わらず僕の心には喪失感があった。友人を失ったこと、人生の歩み方を見失ったこと。思ったよりは落ち着いた心持ちでいながらも、生活に身は全く入っていなかった。
 自分の人生を見つめ直さなければならない。そして、自分の人生に胸を張れるよう、軌道修正しなければならない。将来の目処が立っていない宙ぶらりんな時期に、それは突然やってきた。
 ぼくの人生に精神的な転機が訪れた。

−でもどうすればいい?

 長い自分語りでした。

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