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感情の養殖場、それは惨い市場となり得る可能性

ものを産み出すことって、放流させることと似ていて、それを手放したわけではないのに、世に出した瞬間それは私だけのものじゃなくなる。そしてそれは空気に触れて、浮いているチリやゴミをくっつけながら、形を変えて歩き続ける。それが怖くて、表にすることに抵抗感もある。そう考えたものは、私だけのものとして捉えて、表用、に、また何か作って終えばいいことなんだよね、多分。

実は、noteを数年前から書いてみたいと思っていた。だが、私は私のアイデアを、そう簡単に表に出したくなくて、ずっと渋っていた。
でも、本当に大事にしたい感覚だけはとっておいて、伝え方や表現のやり方を変えて、放流してもいいのかとも思って、開設に至った。

音楽は私の呪いでもあり、唯一と言っていいほどの心の拠り所、なので、大切すぎて、作り続けるたびに、本当に手を離してもいい?と
自転車に乗る練習に付き添った幾多の親たち...は、ただただ怪我したら心配だからだろうけれど。可愛い子には旅をさせろとも言うが、その旅で物体こそ傷付かなくとも、生みの親が勝手に傷つく場合もある。こりゃまた残忍なことだけれども、今ならなんとなく親の気持ちもわかってしまう。あまりわかりたくなかったけれど。自らが振り切った人生に後悔を見出したくないから、関わる人数を減らしたり疎遠にしてしまう。その後悔はとても贅沢で、後悔しないために取る選択はもっと贅沢だとも思っていて、じゃあ私はどうしたらいいんだって、何度も息詰まりそうになります。解決策は未だ講じることができません。ぶっちゃけ親とはずっと疎遠で居たかった。死んだ時に悲しくなりたくないから。しかしそれは当分叶いそうもないので、せめて悲しみを軽減させるべく、親孝行に似た行動を多くとっている、とるようにしている。

親しい人には、より親しくなる前に残忍でいたほうが楽だった。

欠陥だらけの防衛術しか手札が揃わない中で、どうやったら私と、私の周りにある大切なものたちを守れるだろうか。新しい手札をドローできることが望ましいが、それができないならば手持ちのカードを切らなくてはいけない、その決断が今の私にできるだろうか。
とにかく最善を尽くすんだって、こういう時に使うそうな。

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