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不安定を受け入れ、安定を手に入れる

ここのところどうも不調が続いていた。

こなしてもこなしても次々に現れる課題の山、初めて家族以外の人とする共同生活、身体的不調、眠れば悪夢、起きていてもあまりの眠気に起きていることすらままならない。なんとも負のスパイラルである。

先週少し体調を崩してしまい、オンライン授業の出席を諦めたのだが、これがかなり負担になっていた。というのも、授業は一コマ2時間以上あることもあり、その録画を見る時間を取るのが、課題をこなしながらだとだいぶ困難だったのである。
そんなわけで出席できていない授業があれよあれよという間に溜まり、授業の復習にあたる課題も手付かず、火だるまになってしまった。

課題が溜まるにつれて面白いように体調不良も併発。頭が割れるように痛い。眠気で起きていられない。寝ても休まらない。などなど。明らかにストレスの産物である。

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東京での最後の数ヶ月間はとても穏やかで幸せだった。どうしたらあの感覚に戻れるのだろう。どん底にも思えた谷の中で、ぼうっと考えた。
幸い、私はノートに感じたことを書きつけるのが習慣だったので、「東京での穏やかな数ヶ月」もノートに残っていた。ノートのページを繰り、いそいそと読んでみる。するとなんともびっくりした。

そこには日々の生活に七転八倒する私がいた。
仕事ではミスを犯し自信喪失し、私生活では私の永遠のテーマとも言えるパートナー問題(相手は不在)で苦悩していた。

相手が不在でどうやって悩むんだと思うかもしれないけれど、そもそも現れるかどうかわからないパートナー。そしてそれがとても悲しい。
来ない待ち人を待ちつづけることが悲しすぎて、現れることのない待ち人を軸に描かれた不条理演劇、『ゴドーを待ちながら』を読んだくらいだ。

だいぶ横道に逸れたが、どうやら私は忘れっぽいので、ノートに書きつけて頭を整理するとその悩み自体を忘れ、平和だった部分のみを切り取って、あの日々を幸せで穏やかな数ヶ月として記憶していたらしいのである。
なんとも情けなくもあるが、幸せなことである。単純万歳。

あの幸せな日々がそんなに幸せでもなさそうだ、とわかって悲しくなるという道もあったのだろうと思うけれど、私に実際に訪れたのは、精神の安定だった。
そもそも幸せな日々すら苦悩に満ちていたのであれば、今のこの苦悩もいつかの幸せな日々なのかもしれない。
少なくとも、私には心穏やかな日々は日常ではないのだから、これはわりと平常運転なのかもしれないぞ、そう思ったらなんだか一気に全てが大丈夫に思えたのだ。

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瞑想なんかのファシリテーションを聴いていると、心を落ち着けるには安定させようとするのではなく、むしろ波立つ心を受け入れることが大切だというような話をよく耳にする。
そしてそれを身をもって体験したのがこの出来事だったのだと思う。
不安定を受け入れることで安定を手に入れる。なんとも矛盾しているようでもしかしたら真理なのかもしれない。

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