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「アルジャーノンに花束を」を読んで

<あらすじ>

知的障害者である主人公チャーリイが記す、経過報告書を読むことによって物語は進んでいく。
チャーリイは、32歳の大人であるが知能指数は僅か6歳程度である。
そのため経過報告書にはスペルミスやワードミスが多く見受けられ、読むのに一苦労する。
またチャーリイは、周りの人たちが自分を大事に扱い構ってくれるいい人たちであり、彼自身もみんなから好かれていると信じている。
そして、みんなの会話に混ざって話ができるように賢くなりたいとも願っている。

ある日、チャーリイは知能指数を向上させるための手術を受ける。
この手術は、今まで動物実験でしか用いられておらず知能の向上を持続させるという功績を残していなかったが、先日アルジャーノンと名付けられたネズミにおいては成功を収めた。
アルジャーノンの結果をもって、チャーリイは人間として初めてその手術を受けることを決意したのだ。

手術の数日後からチャーリイにも手術の効果が現れ始め、経過報告書の文章力向上によってそれが見受けられる。
チャーリイは、瞬く間に知能指数が上昇し、周りの人をも追い抜いていく。
しかし、知能の向上によって周りの人間と同レベルの会話ができ、みんながより好いてくれると信じていたチャーリイだったが、現実はそうでなかった。
みんなが構ってくれていたのは好意からではなく、ただ自分を蔑んで馬鹿にしていただけと気づく。
そして、以前は覚えていることが出来なかった幼少期の記憶が蘇り、母親から虐待されていたことを思い出す。
賢い人だと尊敬していた教授たちは、実は大してそうではなく、天才ではなくただの人間に過ぎなかったことを知り、優しく接してくれていた医者は自分を、人間ではなく実験標本としてみていたとわかる。

知能が突出し過ぎた彼は、世の中の不条理に気づき、以前の自分の愚かさを知り、自分が何者であるかの理解に苦しみ始める。以前は知る由もなかった多くのマイナスな物事を知っていくことになる。
手術をすることによって賢くはなったが、より不幸な物事に出会ってしまった今、果たして幸せと言えるのだろうか。
以前は知能が人より低いため隔たりを感じていたが、今はその知能が高くなり、違った理由で人との隔たりができ孤独を感じていくのであった。

「言語は時として、心を通わせる道ではなく障壁である」と文中の言葉が、
彼が利口になったことで会話レベルが合わず孤独を感じることを表しているのである。

しかし、知能は高まり知識は増えたが、心の方は成熟しきれていない。
人が何年もかけて、知識を蓄えながら心も共に成長するのに対して、チャーリイはありえないスピードで知識を得たため、知能と心には乖離があるのだ。
自分は一体何者で、過去のチャーリイ、現在のチャーリイ、未来のチャーリイの繋がりについて悩み苦しむのである。

同じチャーリイであるにも関わらず、知能が違うだけで別人のような感覚がしてしまうのはなぜだろうか。

幼少の頃の自分を思い返してみると、確かに現在と同じ自分ではあるが、なぜか別人のような感覚がする。
今の自分と過去の自分、同一人物であり、もう一人の自分でもある。
私たちは大体、その二者間の変化がゆっくりと訪れるため、あまり乖離を感じることはないが、彼の場合はそれが僅か数週間で訪れたのだ。

彼が悩み苦しんでいる頃、アルジャーノンの様子に変化が見られるようになった。
知能退行が見られたのである。
天才へと変貌を遂げた彼に、これが何を意味するのか、わからないはずがなかった。


<感想>

数字や言葉で示されていなくても、チャーリイの知能の変化が、文を読み進めることによって感じ取れるところが斬新であった。
また、チャーリイの知能上昇に伴って、経過報告書に書かれている文章がより高度となっていくところ、それを理解できた時、
自分もチャーリイと共に幾らかは賢くなっているのではと錯覚する。しかし、文中にもあった通りチャーリーが平凡な私でも理解できるように、くだけて書いてくれているだけかもしれない。

アルジャーノンに退行が見られた時、彼にまだ変化は見られない。しかし、この先の展開はある程度予測できる。
彼もアルジャーノンと同じように、退行していくのではないかと。それだけで胸が締め付けられる。
知能があるという事は、まだ起こりもしていない事象に対しても、想像し考えを巡らせることができるという事ではないか。
嬉しいことも増えるが、悲しいことも増えるのだ。

自分の行く先について知るという事は、幸せばかりではない。
知らないから幸せ、わからないから幸せなのだ。
しかしチャーリイは知ってしまっているのである。これから自分が、退行し全てを忘れていくことを。
出来ていた事が、それを自覚しながら出来なくなっていくのはどれほど辛いことか。

知的になることは、チャーリイにとって果たして幸せだったのだろうか。

知能指数が高いこと=幸せである、というこの方程式の是非を問いかけてくるものだと考える。

「アルジャーノンに花束を」の一文が教えてくれているのではないだろうか。
彼は他のことはすべて忘れてしまったが、本当の仲間と、友達と思えたアルジャーノンのことは忘れていなかった。
チャーリイにとっての幸せは、賢くなることなんかではなく、心から友達と呼べる対象に出会うことだったのかもしれない。

この一文に込められた想い、タイトル回収や伏線を私はよく見逃してしまう。早く先に進みたい、早く読み終えたい。その思いがそうさせる。
文字はしっかりと読んでいるはずなのに、気づかず素通りしてしまう。もっと注意を払って読めるようになりたい。

終盤でチャーリイがあんなに愛したアリスをキニアン先生と呼んだシーン

ここでも自分のバカさに辟易する。
私はここに気づけなかったのだ。フルネームを忘れていたのである。
ああチャーリイ、学校に戻ってしまったんだなとしか思わなかった。ありえない。哀れなのは自分だ。

ヨルシカの歌で「アルジャーノン」がある。
物語を読んだ上で、MVを見ながら、一度聞いてみてほしい。
コメントの中にこんなものがあった
「MVを見る限り、チャーリイの知能が上がる中盤は花が満開になっていて、知能が低い前半と後半は花が枯れている。花は満開の方が締麗で、知能も一般程度はあったほうがいい。でも、チャーリイが幸せを実感していたのは知能が低い時。物語を客観視できる私達が満開の花を見ている時、チャーリイは確かに苦しんでいたし、私達がチャーリイの知能低下を哀れんでいる時、彼は確かに満開の花の中にいた。」

ここでする話ではないかもしれないが、一つ言わせてほしい。知的になっただけでなぜか想像するチャーリイの人物像がイケメンになった。
そんな彼に会ってみたい。知能が変わったことに伴い、少なくとも私の見方は変わってしまった。
チャーリイはいつだって同じチャーリイなのに。
彼の中にも同じ葛藤があったのかもしれない。自分はいつだって同じチャーリイなのに、知能が違うだけで別な人のように感じる。彼とチャーリーが存在する。

幸せなことに私には勉強をして覚えておくということが知能として備わっている。
覚えたくても覚えていられない。学びたくても学ぶないのではない。
その事実を理解し、今目の前のことにしっかりと取り組もうと思った。
私には与えられた知能がある。
そして、やりたいこともある。
今はまだ、能力が足りないけれど学習をして向上させる事もできる。
やらない理由はない。

あとがきに、「著者と訳者が期せずして同じようなことをしていた」とあった。
自分もこんなふうな訳者になりたいと思った。

ーみんなみたいに、利口になりたいー


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