_農学培養篇_

第一回:肥後熊本の実学精神「横井時敬」[富国の土壌・農学培養篇]

日本の国力を変えるのは「農業」か、はたまた「農学」か?

国全体が殖産興業ムードで湧き上がり、工業や商業が重要視され農業が軽視されていく明治維新後の日本において、国力発展における農業の重要性を世に説き、日本で唯一の農学専門の私立大学「東京農業大学」を作りその初代学長となった、横井時敬(よこい ときよし)。

東京帝国大学農学部の教授を務め、日本初の農学博士にもなった一流の学者でありながら、飽くなき研究で稲の生産高を飛躍的に向上させる画期的な農法を自ら編み出し、また自ら発信メディアを作って農業コンテンツを世に発した、日本の農業史を語る上で大きな存在となっている人物です。

理論よりも実践、理屈よりも本質を重視し、そのことが農業の世界にも必要だと発信し続けた日本農学の大成者・横井時敬は、どんな生き方でそのような実学主義を身につけ、どのような生き様で我が国の農政に影響を与えていったのでしょうか。

経営者・マーケティング担当者向けメディア『ビジネス発想源 Special』で連載中の、歴史上のエピソードから現代ビジネスの経営やマーケティングに活かせるヒントを見つけ出す人気コンテンツ「歴史発想源」。

日本の農業の未来のために東京農業大学を作り、自ら画期的な農法を編み出し、農政改革の重要性を世に知らしめた横井時敬の生き様を追う「富国の土壌・農学培養篇」(全8回)、第1回をどうぞ!

▼歴史発想源「富国の土壌・農学培養篇」〜横井時敬の章〜

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【第一回】肥後熊本の実学精神「横井時敬」
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■幕末の熊本は、学問論争に揺れる


時は幕末、安政年間。

この頃、九州の肥後国(熊本県)は、細川家が藩主である熊本藩が治めていました。

他藩で見られた百姓一揆などの物騒な混乱はほとんどなかったものの、常に藩の財政は苦しくて多額の借金を抱えており、開国か鎖国かに揺れるこの安政年間には、熊本藩内もいろんな方面で論派が分かれて激論に揺れていました。


特にその論戦が激化したのが、藩内の学問の世界です。

熊本藩では、宝暦5年(1755年)に第8代藩主の細川重賢(ほそかわ しげかた)が、熊本藩士が学問を学ぶ藩校、時習館(じしゅうかん)を建てていました。

つまり、熊本内のエリートを育てる学校です。

ところが、このエリート志向の時習館から、新たな独立エリート派閥が出てきます。

この時習館の卒業生で塾長も務めたこともある人物である横井小楠(よこい しょうなん)という熊本藩士が、時習館の「学問エリート」たちの考え方に嫌気がさし、時習館とは別に「小楠堂」という名の私塾を開きました。

これは、「お勉強第一」の時習館とは違って、「実践と行動がなければ意味がない」という実学主義の私塾。

この横井小楠が率いることになる実学主義の門徒たちは「実学党」と呼ばれることになります。

横井小楠の才能と考え方は全国にも知られていき、坂本龍馬(さかもと りょうま)がわざわざ熊本まで教えを請いにきたほど、後の日本に大きな影響を与えることになり、横井小楠はその存在の大きさから「維新の十傑」にも挙げられています。

横井小楠が育てた「実学党」のメンバーには、徳富蘇峰と徳富蘆花の父である徳富一敬や、熊本藩の窮地を救うことになる嘉悦氏房など、後の世に大きく羽ばたく人物たちがいました。

そして、時習館のエリート連中は「学校党」と呼ばれますが、熊本藩の家老たちにも、この「学校党」支持派と「実学党」支持派とが対立し、熊本藩政は分裂と対立に揺れていったのです。


安政7年(1860年)1月7日、熊本藩士の横井時教(よこい ときのり)の家に、四男となる男の子が産まれ、豊彦(とよひこ)という幼名が名付けられました。

この横井時教の家は、熊本城下の坪井という場所にあり、それが現在の熊本市のどこかは長らく謎でしたが、近年の研究でその家の場所は奇しくも、現在は夏目漱石記念館が建てられている場所、つまり後に夏目漱石が移り住んだ場所だと判明しています。

そしてこの年、江戸では「桜田門外の変」が起こり、日本全国はいよいよ維新へと突き進んでいきます。


さて、豊彦の父・横井時教は、「実学党」の横井小楠とは先祖を同じくする肥後横井氏の同族の親戚であり、住んでいる場所も近かったこともあって、横井小楠から学問や思想の手ほどきを受けている「実学党」の一人でした。

明治2年(1869年)、横井小楠は京都にて暗殺されてしまうのですが、横井時教は横井小楠の精神を受け継いで、子の豊彦に厳しく武士道と学問を叩き込んでいき、利発で誠実な少年に育てていきました。

横井小楠が考える「実学」の大切さは、豊彦少年の生涯に大きく関わっていくことになります。


明治4年(1871年)、11歳となった豊彦少年は、横井時敬(ときよし)と改名します。

実は横井氏は、鎌倉幕府の執権職にあった北条時政、北条時宗などの北条氏の子孫であり、先祖のように「時」の字が通字になっていました。

ちなみに横井小楠も、小楠というのは号であって、本名は横井時存(ときあり)と言います。

ともあれここに、後に日本の農業界・教育界に大きく名を馳せていく、横井時敬の名が誕生したのです。


【教訓1】実践のない虚学に流されない。


■時敬少年、熊本洋学校にて学ぶ


横井時敬の名が生まれた同年明治4年、熊本藩は廃藩置県によって熊本県となりますが、熊本城内に「熊本洋学校」が開校となります。

明治維新の際、藩内の論戦が激化したことで、佐幕派とも尊皇派ともどっちつかずの立場のまま新時代を迎えてしまった熊本藩ですが、そんな混乱期に乗じて、横井小楠の意思を受け継ぐ「実学党」は熊本県の県政で要職を占めていきました。

その熊本実学党が主導して熊本県に作らせたのが、急速に必要とされた海外の学問を学ぶ、この熊本洋学校だったのです。

実学党の招きによって、アメリカ合衆国の陸軍軍人、リロイ・ライシング:ジェーンズが教師となり、英語・歴史・科学・地質学など全ての教科を、このジェーンズが一人で全て英語で授業をしました。

外国人教師を招き全ての授業を英語化するというこの熊本洋学校は、当時の日本の中でも洋楽教育の先駆的な教育システムでした。

なお、この教師ジェーンズが住むために作られた西洋館のジェーンズ邸は水前寺公園のすぐ近くにあり、熊本県指定重要文化財となっていましたが、先日の熊本地震により、残念ながら全壊しました。


11歳である横井時敬は、この熊本洋学校の開校と同時に入校します。

彼は入学生の中で最年少でした。

横井時敬は、周囲の秀才のお兄ちゃんたちとともに、校内公用語の英語はもちろん、様々な種類の学問を学んでいくことになります。


さて、熊本洋学校に入学した生徒たちにとって、このアメリカ人教師ジェーンズが教えるものの中で、特に興味を引きつけたものは何かというと、キリスト教でした。

キリスト教や宗教学は授業教科にはありませんでしたが、キリスト教徒であるジェーンズは、教え子との交流の中で私的にキリスト教についていろいろと教えていたんですね。

そして熊本藩の消失で忠誠を誓う対象物をなくし、また西洋の急成長の源流を追い求めていた熊本士族の若い生徒たちは、キリスト教に物事の源流を見出していったのです。

徳富蘇峰、金森道倫、小崎弘道、海老名壇上など彼らの中の多くは、熊本洋学校が閉鎖した後に、新島襄により京都に新設された同志社英学校に転校して、「熊本バンド」として名を馳せていきます。

このあたりの話は、同志社大学創立を舞台にした2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の中でも結構詳しく描かれていましたね。

横浜開港の流れで生まれ、島田三郎、植村正久などを輩出した「横浜バンド」、クラーク博士の感化によって札幌農学校に生まれ、新渡戸稲造や内村鑑三らを輩出した「札幌バンド」と共に、「熊本バンド」は日本のプロテスタント発祥の三大基点としてその名を残しています。


ところが、年上の同僚たちがそのようにジェーンズ先生のキリスト教にのめり込んでいく中、最年少の横井時敬は、全くキリスト教には染まらず、「熊本バンド」にも加わっていません。

それはなぜかというと、…

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