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[歴史発想源] 「信義の智略・天下軍師篇 〜張良の章〜」(1)中華統一王朝揺らぐ「秦の始皇帝」

現在『ビジネス発想源 Special』の「歴史発想源」では、第50章となる「三国魏王篇」を連載中です。「三国志」でもお馴染み、中国三国時代の英雄・曹操を主人公にしたストーリーです。

そこで今回、中国史への理解をより深められるように、これまでの「歴史発想源」の中から中国大陸が舞台になる話の序盤を公開させていただくことにしました。

その1つが、中国の漢建国の功臣・張良(ちょうりょう)を主人公にした「信義の知略・天下軍師篇」です。祖国・韓を滅ぼした始皇帝の秦国の打倒と韓の再建に燃え、劉邦の軍師となって楚の項羽を討ち滅ぼし、漢帝国の建国に大きく貢献した軍師、張良の活躍を描いています。


「歴史発想源/天下軍師篇 〜張良の章〜」電子書籍版

今回、「歴史発想源/天下軍師篇」の「第一回」の序盤をここに公開させていただくことになりました。読んでみてご興味が湧きましたら、電子書籍版で第八回まで全て読んでみて下さい。

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「歴史発想源」は、歴史上の偉業から経営やマーケティングのヒントを学ぶビジネスコンテンツ。Amazonのkindleストアでは他の章もたくさん取り扱っておりますので、ぜひご活用くださいませ。

■「信義の智略・天下軍師篇」目次
【第一回】中華統一王朝揺らぐ「秦の始皇帝」
【第二回】二大英傑ここに邂逅「項羽と劉邦」
【第三回】関中王の地位の争奪戦「咸陽入城」
【第四回】絶体絶命の饗宴の席「鴻門の会」
【第五回】埋もれた国士無双の英傑「韓信」
【第六回】劉邦軍の関中制圧戦「暗渡陳倉」
【第七回】油断と余裕が招く大敗「彭城の戦い」
【第八回】天下分け目の対峙戦「広武山の戦い」
【第九回】四面楚歌と漢朝建国の功臣「張良」
【外伝】韓信の描く背水の陣「井陘の戦い」

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【第一回】 中華統一王朝揺らぐ「秦の始皇帝」


■戦国七雄の覇者・秦が敷く法治主義


 中国大陸では紀元前770年から紀元前221年のおよそ550年間の長きにわたり、戦乱の世が続きました。
 大小合わせて200以上の独立国家が各地で戦争を繰り返した前半の「春秋時代」、その多数の中から勝ち残った斉・燕・趙・魏・韓・楚・秦という7国がさらに戦争を繰り広げた後半の「戦国時代」を合わせて「春秋戦国時代」と呼んでいます。
 現在「週刊ヤングジャンプ」で連載されている『キングダム』という漫画がアニメ化、映画化となったほど大人気ですが、この戦国時代後期が舞台となっており、戦国の七雄のうち秦がこの作品の主人公たちの国です。

 斉・燕・趙・魏・韓・楚・秦の勢力図の中で、最も小国と言えるのが、その戦国七雄の中でも中心に位置していた韓の国です。
 西には秦、南には楚と大国が接しており、常にその侵攻の脅威に悩まされていた小国ですが、韓の国は長きにわたり内政と外交に優れた名臣に支えられて、最弱ながら大陸の中心で存在感を放っていました。
 後世に大きな影響を与えた名著『韓非子』を生んだ韓非(かんぴ)という人物も、韓の国の公子の一人でした。
 そんな小国・韓を支えた重臣の一つが、張一族です。
 張氏はもともと韓の王族の傍流で、一族からは5代にわたって宰相を輩出しており、小国である韓の国家経営にはなくてはならない存在でした。
 そして韓の桓恵王(かんけいおう)に仕えていた有能な宰相・張平(ちょうへい)の家に生まれた男子が、今回の主人公・張良(ちょうりょう)です。

 張良も父や先祖たちのように韓の宰相を務めるべく、幼い頃から学問を頑張っていました。
 しかし、その頃には韓の国にも暗雲が立ち込めていました。
 それまで内乱が続いていた西の隣国・秦が、わずか13歳の嬴政(えいせい)が国王となってからというもの、内乱を瞬く間に収めて、とてつもない国力を持ち始めたからです。
 そんな中、韓では宰相の張平が病死してしまったことで、秦国への対策がなかなかうまく進みません・
 そして紀元前230年、韓は秦の侵攻を食い止められずに滅亡し、約270年の歴史に幕を閉じたのでした。
 代々の先祖のようにこれから祖国のために尽くそうとしていた若き張良は、父の死後にその祖国を失ってしまいます。
「国は滅んでも、また再興すればいい。必ずその機会を作って、韓の国を立てよう」
 張良は勢力を拡大する秦の追っ手から逃れに逃れて、放浪の人生を送りながら、韓王室の復興を夢見るのでした。

 西国の秦は、韓を滅ぼしたことを皮切りに、趙・燕・魏・楚・斉と瞬く間に滅ぼしていき、紀元前221年、中華全土の統一を果たします。
 大陸全部の統一は、中華史上初の偉業でした。
 この時39歳となっていた秦の国王・嬴政は、中華全土を支配する者が今までの「王」より上の「皇帝」という称号を名乗ることを発表し、自分をその第1号として自ら「始皇帝」と名乗るようになりました。
 つまり、秦の始皇帝です。
 始皇帝は、これまでの各地の王による地方分権を否定し、全ての権限が皇帝に集中する徹底的な中央集権国家の機構を作り上げました。
 そして、それまで中華の思想では主流だった「儒教」、いわゆる道徳的な政治の思想よりも、決められた法律に従ってその判断を決めるという超現実的な厳格な政治の仕組みを作りました。
 それまでの儒教的な政治が「人治国家」だとしたら、始皇帝の敷いたのは「法治国家」です。
 ただし、その法律は始皇帝の都合で作られているので、今の民主的な法治主義とは意味合いが違い、完全な独裁制と言えました。
 中央の法律によって全土の全てが決まるので、重さや長さの単位といった度量衡、お金の通貨単位、荷車の車輪の幅、文字の書体や言語なども明文化して統一されました。
 さらには、法治主義を否定するような人治主義の思想は一切を廃さねばならないとし、儒教をはじめ数多くの古い本は焼き捨てられ、儒学を口にする儒者たちを生き埋めにして殺しました。
 この強行政策は「焚書坑儒」と呼ばれます。

 このような極端な法治主義が取り入れられたことで、中華全土の人民は法律によって縛られることになります。
 秦の始皇帝による天下統一で、中華は革新的な政治体形を型作ることになりましたが、それはいわば恐怖政治でした。
 秦政権が決めた法律にちょっとでも背いたらどんな刑罰を受けるか分かったものではない、という緊張の中で生きるしかなかったのです。
 当然、そのような政治には反発も生まれますが、全土を統一し中央集権を敷いた秦の軍事力が相手では、地方ではなかなか太刀打ちできないものでした。
 秦に滅ぼされた国家の領地の人々からすれば、それは他国に制圧されて虐げられているという屈辱的な状態であり、その恐怖政治の中で、人々は心の中に不満を蓄積していくのでした。

 始皇帝は、そんな全土に皇帝の権威を示すため、自ら各地を巡遊していきます。
 その移動距離はとてつもなく長いものでしたが、始皇帝は中国全土を理想的なものに作り変えるため、自ら現地を目にして改革に務めていったのです。

【教訓1】  ただルールで強制的に縛ると、不満が沸き起こる。


■六韜三略の兵法書で磨く、王佐の才


 諸国を放浪しながら韓王朝の復興の道を模索していた張良にとって、秦の始皇帝の諸国巡遊は、韓王朝の仇を討つ絶好のチャンスでもありました。
 城にいるよりも道中のほうが当然狙いやすいからです。
 博浪沙(はくろうさ)という場所の街道を始皇帝の一団が通過するという情報を聞きつけた張良は、そこでの一撃暗殺の準備に取り掛かります。
 始皇帝が乗る馬車は、厳重に守備されており、この馬車にたどり着こうとすれば、その周囲で幾重にも守る騎馬兵や守備兵に阻止され近づくこともできず殺されるに決まっています。
 そこで張良は、最適な暗殺の方法を考えました。
 怪力の力士を雇い、博浪沙の高台の上から、ハンマー投げの選手のように大きな鉄槌を振り回して放り投げ、その鉄槌を馬車の上から落とす、という算段です。
 重さでいえば40kgの鉄球なので、馬車の上に落としてしまえば確実に馬車の中の人の命を奪うことができるでしょう。
 密かに探していると、始皇帝の恐怖政治を憎む怪力の力士に出会うことができ、張良はその力士に多額の報酬を用意しました。
 その力士に何度もハンマー投げで目的の場所に百発百中で命中させるトレーニングを行い、力士は見事にその鉄槌の投法を身につけたのです。

 そして、その好機の瞬間がやってきます。
 始皇帝の行列が博浪沙に差し掛かった時、張良が合図を送って力士が放り投げた巨大な鉄槌は、弧を描いて飛び、見事に馬車に命中しました。
「やったぞ。これで瞬殺だ」
 豪華な馬車は粉々に打ち砕かれ、中に乗る人間は間違いなく即死であろうと思われました。
 ところがその時、始皇帝は暑かったからなのか、たまたまその馬車ではなく別の駕籠に乗っており、その砕かれた馬車には偶然にも誰も乗っていなかったのです。
 皇帝の暗殺未遂が起こったことで、秦の帝国軍の将兵たちはすぐに警戒を強めて犯人の大捜索を行います。
「しまった。始皇帝は馬車の外にいたぞ。急いで逃げよう」
 暗殺に失敗した張良と力士はすぐに散らばって逃走し、この力士はうまく逃げ去ることができたとも、逃げることができずに捕まって車裂きの刑にされたとも言われています。

 秦の帝国軍から逃げに逃げまわった張良は、下邳(かひ/江蘇省)という街にたどり着きます。
 その郊外を歩いていて小川の橋に差し掛かった時、張良は橋の上に座って釣竿から釣り糸を垂らしているみすぼらしい老人と目が合いました。
 するとその老人は、履いていた靴をいきなり橋の下に脱ぎ捨て、
「靴が落ちた。若いの、取ってきてくれないか」
と、張良に対して顎で命令をしました。
 張良はそのふてぶてしい態度にムカッとしましたが、幼い頃から深く学んだ儒学には「老人を大事にする」という敬老思想があるため、黙って橋の下に降りて靴を取りに行きました。
 そして靴を持って上がると、老人が足を突き出すので、仕方なく膝をついて靴を履かせてあげたところ、何が気に入らないのかまたポーンと橋の下に蹴り落とし、
「若いの、靴が落ちたから取ってこい。早くっ」
とまた顎でふてぶてしく指図をします。
 張良は殴ってやろうかとも思ったのですが、
「一度は言うことを聞こうと思ったご老人ではないか。次も言うことを聞いてやってもいいじゃないか」
と思いとどまり、また橋の下に靴を取りに行って、戻って老人の足に履かせてあげました。
 すると老人は、ようやくニッコリと笑い、
「おぬし、なかなか見所があるではないか。これはワシの兵法を教える甲斐がありそうだのう。おぬし、軍略の高みを目指しているのであろう。天下に名を轟かす策士になりたければ、5日後の朝にこの橋で待ち合わせようではないか」
と張良に言って、立ち去ってしまいました。

「人なき所に人ありという。もしかしたらあの人は、私をいざなう偉人かもしれないぞ」
と思った張良は、老人にまた会うために、言われた通りに5日後の朝に橋のところに来ました。
 すると、その橋にはすでに老人が来ており、川に釣り糸を垂らしてすでに何匹かの魚を釣っています。
 老人は最初に会った時のようにムスッとした表情で、
「おまえは目上の人間と約束を交わしたというのに、その目上の人間よりも遅く来るとは、バカなのか? 靴を橋の下から取ってくるぐらいならバカでもできることだ。5日後の朝にまたここに来い。バカなら約束ぐらいは守ってみろ」
と言って、魚籠をかついで帰ってしまいました。
 張良は自分をバカ扱いする老人に心底ムカッとして、
(朝といっても日の出からを朝と呼ぶのだ、などと言うんだろ。だったら日の出の時に行ってやろうじゃないか)
と考えて、5日後、暗いうちから隠れ家を出て、ちょうど太陽が出る直前に約束の場所に着きました。
 ところが、その老人はまたもや既に木の下にいました。
「目上の人を待たせるのは失礼だと言っているだろう。おまえは一度言っても分からないのか? やっぱりバカなのか? 5日後の朝にまたここに来い。これが最後だからな」
と、老人はまたもムスッとして帰って行きました。
 張良は思いっきり頭に来て、
(だったら、朝とはいつからかという定義の前に、なんとしてでも老人より早く来てやろうじゃないか!)
と考え、4日目の深夜から隠れ家の家を出て、日が変わる午前0時ぐらいに橋にやってきました。
(よしっ。あの老人はまだ来てないな。どうだっ!)
と、張良は息巻いて橋に座り、老人を待ちました。
 すると、午前2時ごろの早いうちに老人がやってきて、橋の上の張良の姿を見ると笑って言いました。
「ほう。おぬし、なかなかやるではないか。先を制すのは兵法の常。先を制すために、余計な感情を排して考え抜くが肝要。ワシの見るところ、おぬしには王佐の才が大いにある。ワシの持つ古来の兵法書を、おぬしに授けよう。この兵法を身につければ、おぬしは天下の参謀となれるぞ」
 老人はそう言うと、何巻もの兵法書を張良にどっさりと渡しました。
 見ると、それは軍師として古代王朝・周を繁栄に導き、後に斉の国の祖となった呂尚(りょしょう)、通称を太公望(たいこうぼう)という伝説的人物が書き残したと思われる兵法書でした。
 老人は黄石公(こうせきこう)と名乗って、釣竿も持ってきているのに釣りもせず帰っていったのですが、張良はその釣竿を持ち歩く姿を見て、
(あの人は、太公望の化身かもしれない…!)
と思いました。
 太公望は、自分の能力を生かせる人物に出会うために渭水で釣りをしながらそのチャンスを待ち続け、周の文王と出会って軍師に迎え入れられた、という逸話がよく知られているからです。
 ともあれ、張良は下邳の街に隠れ住みながら、「六韜三略」(りくとうさんりゃく)とも呼ばれるこの太公望の兵法書を熟読して、軍略を研鑽して行ったのでした。
 この雌伏の時に学び抜いた軍略が、やがて世に出ることになるのです。

【教訓2】 老人を大切にする。


■初代皇帝の死で中華全土が大混乱

 張良が下邳に隠棲して兵法の勉強に明け暮れている頃、同じように下邳に逃げ込んできた人物に出会います。
 項伯(こうはく)という人物です。
 秦の衛兵から逃げ回っているというので、張良はしばらく隠れ家に項伯をかくまってあげました。
 ボロボロの逃亡者ですが気品を感じるので聞いてみると、彼は無き楚の国の大将軍・項燕(こうえん)の子だと言います。
 項燕というのは、かつて秦が楚に攻め込んだ時に、秦将・李信(りしん)率いる20万の秦軍を大敗させた名将で、始皇帝が秦王に即位した後の強力な秦軍を退けられた敵将は、趙の智将・李牧(りぼく)と、楚の項燕の2人だけです。
 代わって、秦軍は王翦(おうせん)率いる60万の兵で攻めてきたために項燕は戦死し、楚の国は滅亡しました。
 名将項燕の子の一人である項伯は常に秦から追われる身となり、その間に追手の秦兵を殺害したことでさらに殺人罪を問われて激しく追われていたのです。
 韓の名族の出身である張良と、楚の名族の出身である項伯はなにかと馬が合い、下邳の隠れ家でしばらく共に生活をすることになりました。
 項伯は、自身も逃亡中で危険が増大するにもかかわらずかくまってくれる張良に、深く恩を感じました。
「張良どの。境遇が似ている我々が、いずれ共に憎き秦国を打倒できる日が来るといいですね」
「ええ。そして、そういう恨みのないような世の中を作りたいものです」
 この二人の出会いは、後に中華の天下の状勢に大きな影響を与えることになります。

 しばらくすると、世の中は大きく動きます。
 秦の天下統一から11年後である紀元前221年、秦の始皇帝が、巡遊中の河北省でいきなり病死してしまったのです。
 始皇帝が亡くなったとなると、秦の支配力は一気に揺らいでしまいます。
 そこで、側近である宦官の趙高(ちょうこう)によって始皇帝の死は隠され、遺体の帰還中は死臭をごまかすために大量の魚を積んだ車を配備したほどでした。
 この趙高は、始皇帝の死後の政治を操るために、始皇帝が生前に作っていた遺書を焼き捨てて改竄し、本来の遺書には後継者としてその名が挙がっていた始皇帝の長男・扶蘇(ふそ)を、偽の遺書を根拠にして自害に追い込みます。
 そして、自分が教育係を務めていた始皇帝の末子・胡亥(こがい)を秦の二代皇帝に擁立したのです。
 趙高は新皇帝の胡亥を自分の傀儡として奥に控えさせ、自分と対抗する秦の名将や名臣を次々に粛清していき、皇帝の権威を自分自身に集中するようにしていって、さらに人民に恐怖政治を敷いていったのでした。
 趙高は今も、史上最悪の奸臣の一人として、多くの歴史家からその名を挙げられる悪臣です。

 始皇帝の死から1年後の紀元前209年、「陳勝・呉広の乱」が起こります。
 陳勝と呉広は地方の農民組の責任者だったのですが、公共事業のために秦の本国に人夫を護送していたところ、突然の大雨のために進路を閉ざされて立ち往生となり、人夫を期日どおりに送れなくなりました。
 厳しい法治主義の秦では、人夫や物資の輸送ではたとえどんな理由があろうとも、1日でも遅れれば責任者は死罪と決まっていました。
 どうせ秦の厳罰で殺されるのだからと、陳勝と呉広は思い切って反乱を起こしたのです。
 一農夫に過ぎなかった陳勝と呉広の反乱は、今まで溜まりに溜まっていた人民たちの不満を一気に爆発させて、多くの人々が陳勝と呉広に共鳴して反秦に立ち上がります。
 陳勝と呉広の反乱軍は瞬く間に十何万にも膨れ上がり、かつて楚の国の首都であった陳城をあっという間に秦軍から奪い取ってしまいました。
 この陳勝と呉広が契機となった農民反乱は、各地に広がっていき、中国全土で蜂起が相次いで起こり、秦の管理体制は一気に揺らぎ始めたのです。

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