第一回:レコンキスタと二国「イベリア半島」[大望の航路・ポルトガル篇]
組織を大きく飛躍させるための第一歩を、稀代の投資家から学べ!
ポルトガル王国はヨーロッパ最西端の辺境の小国であったにもかかわらず、世界各地に覇を広げて大海上帝国を作り上げ、世界に大航海時代をもたらし、極東の日本にも真っ先にたどり着いて鉄砲をはじめ様々な文化を伝えました。
まだ地球が丸いどころか、アフリカが大陸であることすら知られていなかった当時に、ポルトガルを世界へ羽ばたかせるきっかけを作った人物が、「エンリケ航海王子」の名で知られる王子エンリケです。
エンリケ航海王子が登場するまでのポルトガルは、国内史上最悪の一人の悪女によって国がガタガタに揺れ、そして一人の英雄の出現によって新生王朝の誕生に向かう、激動の時代でした。
ポルトガル躍進の秘訣を、まずはそこから遡ってみましょう。
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ポルトガルを世界帝国へと押し上げ大航海時代を切り開いたきっかけとなったエンリケ航海王子の生き様を描く「大望の航路・ポルトガル篇」(全8回)、第1回をどうぞ!
▼歴史発想源「大望の航路・ポルトガル篇」〜エンリケ航海王子の章〜
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【第一回】レコンキスタと二国「イベリア半島」
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■キリスト教勢力とイスラム教勢力の激戦地
まずは、世界地図を広げてみて下さい。
フランスの南あたりから大西洋に向かってニョキッと突き出しているのが、イベリア半島。
その大半はスペインの国土で、西側にちょっとだけ、ポルトガルの国土があります。
日本の約4分の1の面積、いわば北海道と四国を足した程度の面積しかない、ヨーロッパの西の端の小国・ポルトガル。
今回は、このポルトガルが舞台です。
日本人の感覚からすると、地中海より上は全部ヨーロッパだから、スペインとポルトガルはヨーロッパ圏内の国だというイメージがあります。
ところが、歴史上のヨーロッパ人たちはほとんどみんな、「イベリア半島はどちらかというと、アフリカ側の地」という感覚を持っていました。
もともとヨーロッパ文明は地中海の東側にあるギリシャから始まったので、その頃からイベリア半島は「地中海のずっと向こうのほうの地域」と思われていました。
そしてイベリア半島の付け根にあたる、フランスとスペインの間には、3,000m級の山々が400km以上も連なるピレネー山脈があって、これを越えるのはとても大変です。
対して、スペインとモロッコの間にあって、イベリア半島とアフリカ大陸を分けている海であるジブラルタル海峡は、対岸までわずか14kmほどしか離れておらず、そこそこ簡単にアフリカに渡れてしまいます。
17世紀のフランス王ルイ14世までもが「ヨーロッパはピレネー山脈まで」と言っているほどで、つい近世までは、イベリア半島はヨーロッパ諸国からするとアフリカ地方の一部という認識のほうが強かった、辺境の地だったのです。
かつて地中海周辺に勢力を誇ったローマ帝国は、このイベリア半島までも支配下に置いていたので、その頃のイベリア半島はヨーロッパ諸国と一体感ができていて、6世紀頃(500年代)には西ゴート王国というキリスト教派の王国が支配していました。
ところが、8世紀(700年代)には、北アフリカを制圧していたイスラム勢力のウマイヤ朝が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に続々と上陸し、西ゴート王国は滅亡してしまいます。
西ゴート王国の生き残った王族などが奮起して反抗し、ここからイベリア半島は、数百年の長きにわたり、キリスト教とイスラム教との激闘の地となっていきます。
キリスト教国側は、この時代のイスラム教国からの国土奪回政策のことを、「レコンキスタ」(再征服)と呼んでいます。
この、イスラム教国を追い出すレコンキスタ運動の中で生まれてきて勢力を拡大したのが、現在のスペインにあたる地域に建国されたカスティーリャ王国と、現在のポルトガルにあたる地域を治めていたポルトガル王国です。
この両国は、頑張ってイスラム教国を南へ南へと追い詰めて、ほぼ現在のスペインとポルトガルの領土にあたる勢力を築き上げていったのでした。
このように、イベリア半島の歴史には北アフリカからのイスラム圏の動向が大きく関わっているために、スペインやポルトガルの歴史建造物には、例えばアルハンブラ宮殿やペーナ宮殿のように、他のヨーロッパ諸国とはちょっと違う、イスラム文化が融合したような独特の外観のものが多いのです。
さて、この頃にできたポルトガル王国は、もともとはフランス王家の庶流であるブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュという人が創始したので、そのポルトガル王家はブルゴーニュのポルトガル語読みでボルゴーニャ王朝と呼ばれていました。
レコンキスタの最中の1143年にできた王朝ですが、イスラム勢力を追い出してレコンキスタを完了させたのは、スペインのカスティーリャ王国よりも、このポルトガルのボルゴーニャ王朝のほうが先でした。
1249年、地中海に面しているファロの街を陥落してイスラム残党勢力を南に追い出したことで、ポルトガルのレコンキスタはついに終わったのです。
この時、スペインのカスティーリャ王国のほうは、まだ南スペインのグラナダを中心にナスル朝グラナダ王国というイスラム教国を残していました。
ただ、このグラナダ王国はカスティーリャ王国に服従を誓っていたので、抵抗で居残っているわけではなくカスティーリャ王国から存続が許されていたのです。
この後、このグラナダ王国は250年にわたってこの南スペインに存在し続けて、やがてスペインと対決することになるのですが、この時はカスティーリャ王国の臣従下となっていたので、スペインでもレコンキスタはほぼ完了していたと言えます。
こうしてようやく、共通の敵であったイスラム教国からイベリア半島をなんとか取り戻した二つの国、カスティーリャ王国とポルトガル王国ボルゴーニャ王朝ですが、13世紀末には次第にケンカを始めます。
カスティーリャ王国はレコンキスタという目的に向かってスペインの各地方の小勢力が力を合わせてできていった不安定な連合国家だったので、けっこう内紛状態に揺れていました。
その不安定さに目をつけたのか、海での貿易で少しずつ経済的に潤ってきた隣国のボルゴーニャ王朝が、カスティーリャ王国の内紛に乱入しくようになったのです。
これによって、両国はかなり激しい戦いをした結果、1297年にアルカニセス条約という休戦条約で、スペインとポルトガルの国境はこのラインですよ、ということを明文化しました。
これが現在でも使われている両国の国境であり、現在も存続するヨーロッパ最古の国境と言われています。
現在のスペインとポルトガルの国境とほぼ同じ、カスティーリャ王国とボルゴーニャ王朝との国境が明確に決まったので、これで領土を広げる戦いはなくなります。
しかし、ケンカはこれでは終わりません。
領土を攻め取る戦いがなくなった次には、「そっち国の王位は、うちの王様が継ぐべきなんじゃないか?」という、王位継承戦争が始まることになったのです。
相手の領土を削り取っていくのではなく、トップの座を取って相手の領土を丸ごと奪う、つまり会社でいえば販売エリアの戦いではなくて、M&Aの戦いになっていったわけです。
【教訓1】共通の敵がいなくなると対立が起こる。
■隣国に王位を売り渡す、傾国の美女
さて、ポルトガル王国がレコンキスタに没頭している時、首都はコインブラという内陸の都市にあったのですが、レコンキスタも終盤に差し掛かった1255年、ポルトガルの首都は南方の海沿いの街・リスボンに移りました。
それまではイスラム勢力から領土を奪い返すことでその経済力を高めていたのですが、イスラム勢力を追い出した後は、きちんと生産と交易によって経済体系を作らなければならないということで、貿易しやすい海辺の街が首都になったのです。
リスボンをはじめとするポルトガルの海岸沿いの都市は、ヨーロッパの北方の海と南方の地中海との中継点として大きく栄えていきました。
しかし1348年頃、ヨーロッパ諸国ではペスト(黒死病)が大流行し、ポルトガルもリスボンの貿易船から国内に入って瞬く間に国内全土にペストが流行していき、人口の3分の1を失うほどの大打撃を受けてしまいます。
農村では農業従事者の人口が激減したために、生き残った農民たちの賃金は暴騰していき、待遇がもっと良さげな都市部へと流れていきます。
そのため、農村部の領主や地主たちは小作人を集めることが難しくなっていき、また大量の農民が流入した都市部では一気に失業者が急増し、国全体が大不況になりました。
そんな苦境の空気が漂っている最中の1367年、ボルゴーニャ王朝ポルトガルの国王ペドロ1世が病死し、その後継者として王座に就いたのは、22歳の息子・フェルナンド1世でした。
この若き国王の出現が、ボルゴーニャ王朝のポルトガルをさらに混乱のどん底に叩き落すことになります。
この時、隣国のカスティーリャ王国の国王は、ポルトガルの先代国王と全く同じ名前で少しややこしいのですが、ペドロ1世という人物でした。
ところが2年後の1369年、国王ペドロ1世の異母弟であるエンリケ2世が、フランス軍や貴族たちの力を借りて反乱を起こし、ペドロ1世はその戦いで戦死、エンリケ2世が次のカスティーリャ国王に即位したのです。
その隣国の王位交代劇を見て、ポルトガルの若き王フェルナンド1世は、何を思ったのか突然、
「私の母、つまり前王妃はカスティーリャ王家から嫁いできた女性だから、先代の庶子に過ぎないエンリケ2世ではなく、この私にカスティーリャの王位継承権があるはずだ!」
などと主張し始め、いきなりカスティーリャ王国の領土に攻め込みました。
しかし、当時のカスティーリャ王国は王位継承戦争で不安定だといっても、後に世界を揺るがす「スペイン無敵艦隊」の前身とも言うべき、世界の中でも最強クラスの海軍を保有しており、攻め入ったポルトガル軍はボッコボコに負けてしまいます。
カスティーリャ王国もまだ不安定な経営状態ですから、ひとまず両国とも仲直りしましょうということで、フェルナンド1世は、カスティーリャ王国の新王エンリケ2世の王女と婚約することになりました。
しかし、その隣国の王女との結婚が迫った頃、フェルナンド1世は、異母妹の結婚式に出席した時に、出席者の一人である妖艶な美女に一目惚れをしてしまいます。…
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