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第二回:農業先進地福岡での発明「塩水選種法」[富国の土壌・農学培養篇]

最先端を、最先端で塗り替えろ!

明治前期、日本の農業は最先端の地・福岡から生まれた「福岡農法」によって牽引されていました。老農・林遠里が発明した「寒水浸法」「土囲い法」などが農業界をリードしていたのです。

そんな中、駒場農学校を首席で出ながらも福岡県内の農学校の一教員となっていた27歳の横井時敬は、これら「福岡農法」ブームを根底から覆し日本の農業を激変させることになる、画期的な最先鋭の農法を発明します。

農学の若き新星・横井時敬と、従来の農学を牽引する老農や学者たちとの、長く熱い戦いが始まります…!


経営者・マーケティング担当者向けメディア『ビジネス発想源 Special』で連載中の、歴史上のエピソードから現代ビジネスの経営やマーケティングに活かせるヒントを見つけ出す人気コンテンツ「歴史発想源」。

日本の農業の未来のために東京農業大学を作り、自ら画期的な農法を編み出し、農政改革の重要性を世に知らしめた横井時敬の生き様を追う「富国の土壌・農学培養篇」(全8回)、第2回をどうぞ!

▼歴史発想源「富国の土壌・農学培養篇」〜横井時敬の章〜

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【第二回】農業先進地福岡での発明「塩水選種法」
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■横井時敬、農業先進王国の九州へ

駒場農学校(後の東京大学農学部)を首席で卒業し、新設された駒場農学校農芸化学科へ再入学するも、ここでの学問は実地では役に立たないと感じた横井時敬は明治14年(1881年)、病気を理由に農芸化学科を中退します。

この時、横井時敬は21歳。

ちょうど退学する直前に兵庫県の神戸師範学校の講師も務めていた縁で、横井時敬は同年、兵庫県植物園長となります。


実はこの頃、中央政府では農政に対する考え方がかなり変わってきていました。

明治政府は欧米の学問を吸収するために東京に駒場農学校を作ったというのに、「どうも欧米農法のノウハウは、日本では使えない」という、横井時敬も同じように感じた矛盾を、政府も考えるようになったのです。

やっぱり日本には日本独自の農法が合っているのでは、ということに気がつき、イギリス式の農学に代わって、従来の日本の農法を重視するようになってきたのです。

そして、外国から来た講師ではなくて、日本独自の農業を研究していた各地の農家たち、いわゆる「老農」と呼ばれる人たちが注目され、その農業技術を教わるようになっていきます。


その中でも特に有名な一人が、群馬県の船津伝次平(ふなつ でんじべい)という人物です。

彼の「船津農法」は大きく注目を集め、明治10年(1877年)、46歳の時に駒場農学校の教官として招かれています。

ちなみに2015年に放送されたNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では後半に群馬県が舞台になっていきましたが、この船津伝次平も重要人物として登場しており、石原良純が演じていました。


そのように、日本の農法が欧米農法より注目を集めたことで、欧米農法しか学んでいない初期の駒場農学校の卒業生たちは、「使えない学問しか知らないただの学者」という立場になり、そのほとんどが農業界では全く相手にされず、地方の農学校や中学校の教師ぐらいにしかなれませんでした。

「大学は出たけれど」という、高学歴ながら低級なエリートにしかなれなかったのです。


横井時敬は、兵庫県での公務員を半年ほどやった後、明治15年(1882年)3月、九州にわたって福岡県農学校の三等教諭になりました。

これだけを見ると、他の卒業生と同じように、「使えない学問だけを学んだ、地方勤務の低級エリート」の道を進んだように見えるかもしれません。

しかし、横井時敬は単なる教員生活だけに人生という時間を使うようなことはしませんでした。

地元の農家や農業指導者たちと、どんどん交流を図っていったのです。


というのは、当時の九州北部というのは、日本国内でも農業のトップクラスを走る先進地域でした。

そもそも、九州北部という地は古来から中国大陸に近かったり、鎖国時代も長崎出島に近かったりと、海外に向けて開けている地だったので、いろんな情報や人材が海外からも入り込んできて、関東なんかよりも圧倒的スピードで産業のノウハウや学問が進んでいた地域です。

慶応義塾大学を作った福沢諭吉は大分県の中津藩、早稲田大学を作った大隈重信は佐賀県の佐賀藩出身というのを見るだけでも、どれだけ九州北部は先見性を持った人材が多かったかというのが分かります。


農業の分野においてもはるかに関東より進んでいて、九州で培われた農業技術が全国に広まっていった、という例はいくらでもありました。

例えば、江戸時代中期の元禄10年(1697年)、日本最古の農書と言われる『農業全書』という本が出版され、この本は日本の農業を大きく変え、その後の農学のお手本となったと言われています。

この『農業全書』という名著を出版したのは、筑前福岡藩の宮崎安貞(みやざき やすさだ)と貝原益軒(かいばら えきけん)です。

福岡の農業の実態から発信されたこの『農業全書』は晩年の徳川光圀も稀に見る名著だと絶賛しており、8代将軍徳川吉宗も愛読書の一つとしていたほどで、福岡の農業レベルの高さは全国的に有名でした。

余談ですが、福岡県糸島市にある福岡県立糸島農業高校は戦後の一時期「福岡県立安貞高校」という名でしたが、これは『農業全書』のメインライターである宮崎安貞の名前にちなんでいます。


このように、福岡は昔から農業先進の地。

そのため、福岡の地にはたくさんの農家の技術が結集し、またこの時代は老農たちが活発に議論を交わしていた、農業のシリコンバレーのような場所だったんですね。

そして、その福岡の近隣諸国である熊本県、佐賀県、大分県なども、その技術が波及していって農業大国になっていました。

もともと九州出身である横井時敬は当然そのことは身をもって知っていますから、「あいつは九州に左遷されていった」という中央の連中の嘲笑を横目に、「自分は最先端の地域へ身を投じた」という自覚があったのです。

もう駒場農学校で学ぶことはないと中退した横井時敬は、今度は「実地で学ぶべき時だ」とばかりに、自ら農業の世界の中でも最先端の地に飛び込んで、実践的研究を始めたのです。

学校で机上の空論を学ぶことは十分にやったので、これからは実際の実践によって可能性を切り開いていく。

そういう実学主義を、横井時敬は貫いていきます。


やがて横井時敬は、明治18年(1885年)に三等教諭から教諭となりますが、独自の農業研究によって農務局から農学士の位を受け、明治20年(1887年)、福岡県勧業試験場の試験場長となります。

勧業試験場というのは、官営の農業研究機関で、今風に言えば農業研究センターと農学校を兼ね備えたような場所です。

現在では、福岡県勧業試験場の研究機関としての側面は福岡県農林業総合試験場、農学校としての側面は現在では福岡県立福岡農業高校になっています。

横井時敬は27歳で、そこのセンター長になったわけです。


どうして、ただの農学校の一教師だった横井時敬が、今度は研究センターの所長に転じることになったのか。

それにはまず、当時の福岡県の農業の状況から見てみることにしましょう。

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