承認欲求を手放したい
この言葉を聞いたのは、かなり後のことになります。まぁ、言葉を聞いたことはなくとも、「誰かに認められた」とか「こんなに頑張っている自分、誰かがきっとわかってくれるはずだ」とか「テストで100点取れば、みんなが注目する」とか、これ全て「承認欲求」ですよね。
実はこれが、なかなか厄介で。
手放したいと思っても、なかなか手放せない、粘着質を持っているように思います。
別に「承認欲求」なんて持ってないよ。って思うかもしれませんけど、よくよく考えると、多かれ少なかれそれを持っています。全然ないという人は、奇特な人だと思います。奇貨と言ってもいいくらい。
純粋に「こうありたい」とか「これを追求したい」という崇高な目標を掲げてやり切る人も中にはいますけど、大半の人がそうではなくて。
きっかけや動機はこの際どうでもよくて「周りから認められたい」とか「あの人から、よく思われたい」とか、むしろそういう「想い」の方が強かったりする。
それが、モチベーションになったり、動機付けになったりすることもあります。誰かの発破や応援が、「わたし達」のやる気になるということは往々にしてありますよね。わたしも、その一員です。
でもですね。
承認欲求ばかりを追い求めていると、本来の自分を見失うことがあります。以前にも書いたのですが、例えば「いいひとでありたい」という願望。これって裏を返せば「いいひとであると、周りから認められたい」ということも、中にはあります。
自分の中の理想の「いいひと」にアプローチするのは、それほど問題にはならないのですが、周りの人から「いいひと」に思われたいというのは、意味合いが違う。それはすなわち「承認欲求を得たい」ことに他なりませんよね。
やめるためには「いいひと」をやめるしかありません。
それはわかっているんですけど、「承認欲求」を無くすのは、結構しんどいです。やろうと思っても、気がついたらついつい「他者からの賞賛や、承認を得ようとしている自分」がいます。
そしてそれをやろうとしている自分に嫌悪を覚える。
これの繰り返し。
仕方ないと言えばそれまでなんですが、承認欲求だけで世の中を生きていると、本当に「自分とは何なのか」という問題に直面します。
承認欲求が満たされている間はいいですけど、ある時ふとしたきっかけで、承認欲求が満たされないとわかると、わたしの存在意義がなくなってしまうような、焦燥感を感じますよね。
認められないわたしが、受け入れられないわたしが、悪いって。
本当は、そんなことないはずなのに。心が弱いからかもしれませんが、一旦そのモードに入ってしまうと、抜け出すまでに時間がかかるようで。
だからできるだけ「承認欲求はミニマムにしたい」と常々思っているのですけど、なかなか、そううまくはいかないようです。
それでは、また。
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