話すことで、明るくなること
「自分のことを話すよりも、人の話を聞いていたほうがいい」
そんなふうに言ったのは、確か高校生のときの友達だったかな。高校と塾が同じ子だった。
高校3年生になって部活を引退、文化祭も終わり、いよいよ受験に本腰を入れていきましょう、というぐらいの時期。学校が終わったあとに待ち合わせて、同じ塾の何人かと塾へ向かった。
2つぐらい塾の授業が終わって、夕食の時間。
これまた何人かと一緒に近くのスーパーで半額になったお弁当を買って、食事室に入った。
私はチキンカツ弁当。彼女はクノール、スープカップのきのこクリームと、たこやき8個。また別の友達はお好み焼き、また別の友達は焼きそば弁当……なんか食事室にソースの匂いがたっぷり充満していた覚えがある。たぶん、みんなたまたまだった。
そんな茶色い香ばしい香りが漂う食事室で、これからの話になった。
「ぶっちゃけ、どこの大学が第一志望?」「数学の復習どこまでしてる?」「ターゲット1000(英単語の勉強書)何回繰り返した?」「大学は何学部を志望してる?」一人が聞けば、ちらちらと答えが飛び交い、また別の質問へ流れるように移っていく。
そんなふうに私たちは探り合いつつ、自分の中にある不確かな不安を吐き出して薄めようとしていた。
そのときふと、一人が「〇〇ちゃん、あんまり話してないよね?」と言った。
〇〇ちゃんがギクッとしたことに気がついたのは、私以外に誰がいただろうか。
「……え、そんなことないよ~!」明らかな空回り返事。食事室にソースの香りと、若干のぴりっとした空気がスパイスされる。「そう?」と言い出した子が聞いた。
「いや……うん」
そして結果、仕方なさげに〇〇ちゃんは言った。
「自分のことを話すよりも、人の話を聞いていたほうがいい」
それを聞いて、みんなが「そっか……まあそういうこともあるよね」「うんうん、無理に話す必要ないし」「そうだね」と口々に言った。
たぶん受験という、ぷくぷくに膨れた風船の近くにほっそい針が「いまかいまか」と待ち構えていて、いつ何時、突き刺さって風船が割れてしまうかもしれないようなギリギリ、ナイーブな状態だからみんな納得したんだと思う。
ただ、今の私はこう思う。
話すことで明るくなることはあるよ、と。
それこそ、不安を薄めようとすることもそうだし、自分がどこを目指していて、そのために今なにをしているのかという現在地を自ら認識することだってそうだ。
かつて、「アウトプット大全」という本が大ヒットしていたけれど、人は(どんな方法であれ)出すことで、頭の中にあるときよりもずっとずっと輪郭がくっきりする。
考えていること、それはそれだけだと形を持たないモヤのようなものだ。僕のヒーローアカデミアでいうところの濃霧だ。
何をわかっていて、何をわかっていないのか。何を意識していて、何が無意識なのか。
「聞き役」とか、「傾聴する」とか、「聞くこと」が賛美されることが多いけれど、同じくらい「話すこと」「言葉化すること」も大切だと思う。
「美味しい」と言いたいし、「素敵だね」と言いたい。「優しさとは」について議論して、「美しさとは」を見つけ合いたい。
話せないと、それはたぶん、人には伝わらない。不安も、喜びも、悲しみも、怒りも、話せる人になりたいな、と私は思う。
”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。