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ユダヤ人の物語 エイブ(ABE)

「エイブのキッチンストーリー」

 2020年11月に「エイブのキッチンストーリー」という映画が公開された。原題は「ABE」である。この映画の主人公は、「エイブ」という名前の、ニューヨークのブルックリン生まれの12歳の少年である。彼の父は、パレスチナ系アメリカ人であり、彼の母はユダヤ系アメリカ人であった。両方の側の親族が集まると、いつもお互いの民族の「物語」を巡って喧嘩に発展してしまう。パレスチナ側の「物語」とユダヤ側の「物語」が決して相容れることはないのだ。
 エイブは、母方のユダヤ系親族から「アブラハム」と呼ばれ、父方のパレスチナ系親族からは、「イブラヒム」と呼ばれる。旧約聖書の創世記に登場する「アブラハム(Abraham)」は、イスラム教では伝統的に「イブラヒム」と発音される。しかし、エイブは、「アブラハム」でもなく、「イブラヒム」でもなく、「エイブ」と呼ばれることを好む。彼は、12歳の少年なりに葛藤して、2つの分裂した世界の間でバランスをとりながらも、懸命に固有のアイデンティティを築こうとする。
 エイブの趣味は料理である。彼は、複雑な家族関係から逃れるかのようにして、料理の世界にのめり込んでいく。そのような中で、ある日、フードフェスでブラジル人のシェフのチコと出会う。エイブは、チコが創る無国籍料理の世界に魅了される。そして、両親に内緒でチコが働くキッチンを訪れ、チコに料理を教えて欲しいと願い出る。チコの下で料理の修業を積んでいき、やがてイスラエルとパレスチナの味をミックスした料理を作れば、家族を一つにできるのではないかと考えるようになる。
 あらすじの解説はここまでにしたい。続きは、是非映画を見て欲しい。果たして、パレスチナ系の親族とユダヤ系の親族は、お互いを理解することができるだろうか?
 僕は、横浜のみなとみらいの劇場でこの映画を妻と一緒に観た。観ているうちに、自分の中に眠っていたいろいろな感情が思い起こされた。自分も12歳の頃、エイブと同じように、2つの分裂した世界の狭間で何とか自分の固有のアイデンタティを確立しようとしてもがいていた。あの頃の苦しさや悲しさ、そして、ブラジル人料理人のチコのように、周りで見守ってくれて、暖かく接してくれた大人たちのことを思い出した。

民族の「物語」

 僕は、エイブと同じように、生まれながらに2つの文化をもっている。父親は日本人であり、母親はアメリカ人である。僕が少年時代を過ごした1970年代から1980年代にかけては、周りに自分と同じような境遇にある子供はそれほど多くなかった。
 それぞれの民族には、それぞれの「物語」がある。日本には日本の「ストーリー」があり、アメリカにはアメリカの「ストーリー」がある。そして両者の「ストーリー」が相容れないということも少なくない。僕は12歳の頃、両者の「ストーリー」の相克を十分に理解ができないまま、エイブのように第3の世界を求めていたような気がする。
 民族同士の「物語」はなぜ相容れないことがあるのか。これは僕にとって大きなテーマだ。20代の頃は、隣の国、韓国の歴史、文化、言語にも興味を持つようになった。大学を卒業した後、韓国の地方都市で一年間、英語と日本語の講師をしながら、韓国の歴史、文化、言葉を勉強した。そしてなるべく現地の人達と交流を持つようにして、韓国の「物語」を理解するように努力した。
 日本に帰国した後、なるべく韓日・朝鮮の「物語」を語り、理解してもらおうと努力してみた。共感してくれる人も多かったが、一方で、隣の国に対して悪い感情をもってしまう人たちも少なくない。日本と韓国との間に横たわる溝を埋めようとして多くの人が懸命に努力を続けてきたけど、その溝はむしろ深まっていくばかりだ。それと同じように、イスラエル人とパレスチナ人との間の溝は極めて深い。
 これは、単にどちらかが白か黒かという問題ではなく、民族間に横たわる根源的な敵意のようなものがあるような気がする。これは、安易なヒューマニズムで解決できるものではない。しかし、歴史を白か黒かで見るのではなく、民族の物語の中に秘められた豊かな色彩を探っていけば、根源的な敵意を超えるような、何らかの和解のヒントが見えてくるかもしれない。

なぜユダヤか

 本稿では、主にユダヤ人の「物語」を語りたいと思っている。なぜ、「日本」でもなく、「アメリカ」でもなく、隣の国の「韓国」でもなく、「ユダヤ」なのか。
 僕の母がアメリカ人であることは既に述べた通りであるが、母親からは、家系の中にユダヤ人のルーツがいるかもしれないということを聞かされてきた。母の姉、つまり僕の叔母は、このルーツをとても大事にしており、イエス・キリストを信じるユダヤ人の集会に集っている。
 僕は子供の頃から母に連れられて日本のプロテスタント教会に通ってきた。子供の頃から繰り返し聖書の物語に触れている。聖書の「物語」は、自分自身の物語にもなっている。
 旧約聖書の中には、「エレミヤの哀歌」という書がある。これは、ユダヤ民族がバビロニアに捕囚の民として連れていかれ、エルサレムの神殿が崩壊することを深く嘆く、うめきのような散文である。自分の国が占領されて滅ぼされるというような経験をしていないにも関わらず、僕はなぜかこのエレミヤの激しい慟哭に深く共感できるのである。自分の中に何らかの「ユダヤ性」があるのかどうかわからないけど、ユダヤ人の「物語」に不思議と自分の「物語」ともなっているのである。なので、多少なりとも当事者性をもって、ユダヤ人の「物語」を語れるのではないかと思っている。
 だからといって、パレスチナ人難民の境遇がどうでもよいというわけではない。民族の物語には普遍性がある。エレミヤの悲しみは、祖国を追われたパレスチナ人難民の慟哭とも重なる部分があるのではないだろうか。ここに歴史のアイロニーがある。

西岸地区で出会ったガザ出身のクリスチャン

 2018年にイスラエルに旅行する機会があった。アメリカで活躍する日本画家のマコトフジムラさんが、ハイファで個展を開催することに伴って、多くのアーティストを連れてイスラエルのアートシーンを巡るというツアーがあり、そこに妻と僕が参加をさせていただいたのだ。妻は表千家の茶道の稽古を長く続けており、いわば日本の伝統芸能を実践するアーティストとして招かれたのである。名所で茶道のパフォーマンスも行うということで、茶道具一式をもっていく必要があったのだが、僕は道具持ちとして参加が許されたのだ。
 このツアーの中で、パレスチナ自治区である西岸地区を訪れ、ガザ出身のパレスチナ人クリスチャン、Kさんの話を聞く機会があった。彼の話はとても衝撃的であり、僕の中に深い印象を残した。
 パレスチナ人の中でも、伝統的にキリスト教徒である人達が少数ながらいる。Kさんは、たまたまガザ地区のキリスト教徒の家で生まれたのである。彼は、ガザで行われているハマスの反イスラエル教育について語ってくれた。ハマスとは、現在ガザ地区を実効支配している武装組織である。
 イスラエルには、現在西岸地区とガザ地区の2つのパレスチナ自治区が存在している。パレスチナ人は、両自治区を自由に行き来することはできない。しかし例外的として、ガザ在住のキリスト教徒はクリスマスの時期に西岸地区に行くことが許される。西岸地区にはイエス・キリストの生誕の地ベツレヘムがあり、特別に巡礼が許可されるのだ。Kさんは、クリスマスの時期に西岸地区を訪れたとき、そこに留まることにした。ガザでの生活に嫌気が刺したからだろう。西岸地区は、ハマスの支配を受けておらず、イスラエルとの共存を模索するファタハの支配下にある。彼は、西岸地区で生活するなかで、あるキリスト教会に導かれた。その教会で新約聖書を読み、イエスの人格に魅せられた。それまでは伝統的にキリスト教徒であっても、形式的な宗教のようなものであって、実際に新約聖書の物語としっかり向き合うことはなかったそうだ。Kさんは、特にイエスの「汝の敵を愛しなさい」という言葉に感動した。そして、自分の敵とは誰であるかを考えた。パレスチナ人にとって敵とは、まさしくイスラエル人である。Kさんは、敵であるイスラエル人がどんな人間なのか知るべく、ユダヤ人との交流を始めたのである。
 彼はガザ出身のパレスチナ人として、同胞を愛しているとハッキリ告白していた。それと同時に、クリスチャンとして、イエスの言葉に従って、イスラエル人を切り捨てることはできなかったのである。
 僕は彼の話を聞きながら、まさにイエスの人格がこの青年の中に強く生きていることを感じた。ガザから脱出した彼は、ガザに帰ることもできないし、かといってイスラエルで生きていくこともできない。西岸地区で生きていくしかないのだ。幸い、アメリカのキリスト教団体の援助を受けていたようだった。この団体のおかげで、僕らはKさんの話を直接聞くこともできた。
 イスラエル人とパレスチナ人の対立には依然として出口が見えない。しかし、実際にイスラエル・パレスチナの地を訪れてみると、両者の狭間で多くの無名の人たちが平和を築いていることを発見する。

ユダヤ人の物語

 2021年の6月と7月に、社会人の勉強会サンデーラボの主催で、ユダヤ人の4000年にわたる物語を2回にわたって解説させていただいた。これは、映像作家の祝大輔さんの企画によって実現したものである。祝氏は、マーティン・スコセッシ監督「沈黙」の助監督および時代考証係を勤めた方でもあり、日本のキリシタンやユダヤ人の歴史について深く関心を寄せられている方である。たまたまあるイベントで知り合い、いろいろとお話させていただく中でこういうイベントの企画が持ち上がった。本稿は、この勉強会で語った内容をベースとする。
 ユダヤ人というと、人によって様々なイメージがあると思う。

・ 神に選ばれし民でありながら救世主イエスを十字架に架けた罪深き人々?
・ シェイクスピア『ヴェニスの商人』の強欲でキリスト教徒から金を搾り取る冷酷な高利貸し?
・ ヒトラー率いるナチス政権のホロコーストにより大量虐殺された民族?
・ 世界の金融と産業を牛耳りアメリカをも裏から操っていると噂されるロスチャイルド家?
・ パレスチナ自治区との終わりの見えない紛争を抱えているイスラエル国?

 ユダヤ人には、壮絶な苦しみを乗り越えてきたというイメージと世界の黒幕というイメージが同居する。
 また、以前にあるテレビ番組で、元貴乃花親方が「相撲って日本語じゃない。もともとシュモーというヘブライ語なんです」 という発言が放送されたことがあったが、神輿や祇園祭をはじめ日本とユダヤの関係性に注目されることもある。
 いろいろな誤解や偏見、都市伝説も多い。そうした誤解や偏見を解くべく、エイブの名前の元となったアブラハムから始めて、2日間にわたって、アブラハムから初めて、現代イスラエルの建国まで、ユダヤ人の物語について語らせていただいた。
 このことを通して、僕は、結局、自分の「物語」を何とか理解しようとしたのかもしれない。

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2018年ガリラヤ湖で

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