人生からもふもふが消えた日

 もふもふ、とは私が勝手に呼んでいる愛称で本名は空男という。ジャックラッセルテリアという、とにかく散歩が大好きな犬種だ。  

 さて、彼を我が家に迎えたのは今から18年くらい前のことだ。名前をどうしようかという話になった時、映画好きな父が喜劇役者のジャックレモンとジャックラッセルを掛けてレモンはどうだろう?と言ったのをよく覚えている。
 なんだかピンとこなかった。その頃、私は父の二輪車に二人乗りをして保育園に通っていた。何気なくふと天を仰ぐと、さらっとした心地よい青空だった。美化された思い出かもしれないが、その時のことは鮮明に覚えている。そら、という響きがストンと落ちた。男の子だったので最後に「お」をつけて空の男という壮大な名前を彼は賜った。
 
 彼をもふもふ、と呼ぶようになったのはここ最近だ。今年の春、雪も桜も降らぬうちに彼は長い散歩に出かけてしまった。ここであえてもふもふ、と呼ぶのは何度も何度も呼んだ大好きで大切な名前とともに、彼との思い出を振り返れるだけのゆとりが私にはまだないからだ。

 もふもふの時間が、私より先に止まるだろうということは分かっていた。もふもふがいなくなったら生きていけないと思っていた。もふもふが亡くなった日は沢山泣いた。
 旅立つ前の数日間、彼は私に沢山甘えてくれた。短かったけれど、大きくなってからなかなか彼との時間をとれなかった私が、あんまり側にいられなかったと後悔しないだけの密度の甘えと時間をくれた。そのおかげか、不思議ともふもふが煙になる時に涙は出なかった。写真や動画を見返しても、悲しみより愛しさとぬくもりが勝った。

 あぁ、私はもふもふの死を受けとめられたのだと思っていた。でも、この間からちらちらともふもふを恋しいと思う気持ちが影を見せていた。なでたい、抱きしめたい、キスをしたい、匂いをかぎたい、眠っているところをただ見つめていたい、耳をパタパタしたい、心臓の鼓動を聴きたい…願っても叶わないからあまり考えないようにしていた。思い出そうとしなくても、お腹に手をあてた時の呼吸のリズムや深さまで思い出せる。

 さっき、お隣さんがきてもふもふに花束を持ってきてくれた。誰かに貰った花束が萎れはじめると、誰かが花束を贈ってくれる。もふもふは愛され犬だった。私の知らないところでたくさんの人に愛されていた。
 ふわっとあたたかい気持ちになって、そんな気持ちの流れで無防備にもふもふのことを考えていたら泣きそうになった。
 びっくりした。自分ではもう、もふもふの死に区切りをつけられていると線引きしたつもりだったから、心の準備をせずに思い返しただけで涙が出そうになるとは思わなかった。そこでようやく、私は無理やり区切りをつけようとしていたのだと気がついた。でも、時間が流れるに任せて、記憶が薄らぎ揺らぐように死を受け入れるのはなんだか嫌だった。
 
 書こう、と思った。もしかしたら、これきりになるかもしれないけれど自分の心から溢れるものを溢れるままに言葉にしようと思った。この文章を書きながら久しぶりに泣いた。彼が旅立った日のように喉は苦しくならなかった。
 多分あの日一日では流れきらなかった涙がこれから少しずつ水が湧くように流れていくのだと思う。いつか、もふもふのことを思い出す時、涙が出なくなる日が来るのだろう。もしかしたらその方が辛いのかもしれない。でもそれはきっと何かが次の段階に進んだときなんだと思う。それはきっと悲しみの折り返し地点だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?