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東京“パリピ”30年史①〜狂乱のバブル・ディスコパーティの時代(1986-1991)

このコンテンツは、2016年末にWebマガジン「TOKYOWISE」に掲載されたものに一部加筆をしました。「東京ポップカルチャー研究家」でもある中野充浩が編集部のインタビューに答えながら、30年間の時代と世代の流れを“パリピ”を軸に振り返っていく全3回。

東京は、パーティが大好きだ。
シーズン性やスペシャル感など何かと理由をつけては、毎週のようにいつも誰かがどこかで大勢のゲストを集めて、一時の祝祭やハッピーな出逢いを提供している。

そして、パーティは遊びの極致だ。
女たちが醸し出す“キラキラ”感、男たちが漂わせる“ギラギラ”感が入り交ざった空間では、互いの欲望を満たすためのスマートな会話や身だしなみが問われる場でもある。

パーティは、金の収支を気にかける主催者たちと、人生の楽しみに磨きをかける参加者たちが共有する華やかな都市文化の一つとして、今では東京ライフにおける必要不可欠なエナジー系コンテンツになった。

「パリピ」(パーティピープル)なる言葉が数年前から浸透し始めたが、それは物語全体においてほんの一章分にしか過ぎない。今回は時代ごとの主な事象を30年前から振り返りながら、その本質に迫ってみたいと思う。過去の流れや影響を知らずして東京のパーティ文化は語れないのだ。

SCENE① 1986〜1991年
時代そのものがメガパーティと化した“バブル”とは?

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──今回は東京のパリピ及びパーティの30年を振り返るという企画なんですが、中野さんが提示してくれた7つの時代区分に沿って話を伺いたいと思います。ではさっそく最初の時代から。

「東京の歴史上、最もリッチな青春」と謳われる数年間ですね。時代そのものがメガパーティと化して、享楽的になった若い世代が“リッチ&トレンディ”をドレスコードに、毎日のように東京中の遊び場へ繰り出していました。

新しいもの好きで流行に遅れまいと消費を競い合う。ドラマや音楽、映画や雑誌もライフスタイルのための演出ツール。車も必需品。今の人からすれば信じられない話ですが、当時はごく普通のことでした。

──やっぱりみんなお金があったからですか? たった一夜のクリスマス・イヴも狂乱化して、“レストラン・プレゼント・ホテル”の3点セットが当たり前だったと聞きます。

今よりも若者人口が多かったので、街も店も情報もモノもすべてがこの世代の好みに合わせて変貌を遂げたことの方が大きかったと思います。ただの薄暗い倉庫街だった芝浦のような場所でさえ“湾岸ウォーターフロント”としてオシャレに生まれ変わったほどですから。

──バブル期と言えばディスコの時代ですよね? “ワンレン・ボディコン”のOL、高級なDCやインポートのブランドスーツを着たサラリーマンたちが踊っているイメージが定番です。

麻布十番マハラジャや六本木エリア、青山キング&クイーンや銀座Mカルロなど“お立ち台のある宮殿ディスコ”が全盛期に入った時代です。社会人は会社帰りにそのまま出向くのが日課でした。でも“ディスコパーティ”という観点では大学生が主役でしたよ。

──詳しくお願いします。

これは世代運命なんですが、今とは比べものにならないくらい競争率の激しい受験戦争の影響で、「大学生になったら遊ばなくちゃ」願望の強い人が増殖してマジョリティを形成していました。就活も空前の売り手市場なので、学生時代のキャリア醸成なんて夢にも思いません。

“大学デビュー”と揶揄された遊びの初心者のほとんどは軟派サークルに加入していたので、こういう人たちを学校の枠を超えてネットワーク化した“イベント企画団体”が一気に力を持ち始めました。

──いわゆるイベントサークルですね。

六本木のディスコを複数店舗同時に貸し切る1万人規模の“合同パーティ”や、90年代になって“パラパラ”として浸透する上半身揃いの踊りを広めたのは彼らです。

その動員力とPR効果に目をつけた企業からの莫大な協賛金を得てビジネス化しました。ディスコパーティはもともと80年代前半に早慶の一部の遊び人たちがメジャーにしたものですが、バブル期で従来の企画重視から完全に営利目的へと変わったと言えます。

──映画『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』で、劇団ひとりがその種の大学生に扮してクルーザーでパーティしていましたね。同時代の高校生はどうでしたか?

有名な付属校や私立校に通う高校生たちの間でもディスコパーティが大流行しました。放課後にたまり場的な店で情報交換したり、「麻布十番祭りで夏が終わる」感覚を持つことのできる都心在住の大人びた高校生が発端です。

学校単位で“チーム”を組んで、揃いのスタジャンやウインドブレーカー、自分たちが流行らせたアメカジファッションを着て渋谷や六本木に集結。毎週末のようにパーティが開催されていました。文化祭やアルバイトでは得られない贅沢な小遣い稼ぎです。

──男子校と女子校の出逢い的な?

圧倒的に“ボーイ・ミーツ・ガール”的世界です。高校生であることを自覚して街へ繰り出すという“ハイスクール・スピリット”はこの時代に生まれたと思います。彼らの場合は同時代の大学生の動向を捉えつつも、当時量産されたアメリカ青春映画のパーティシーンからの影響も見逃せません。

1989〜91年になるとこの動きが学校の枠を越えてストリート&劇場化し、“センター街チーム”や“渋カジチーム”として社会現象していくのは、東京ポップカルチャー史上のハイライトの一つです。

──バブル期のパーティで他に何か特筆すべきものはありますか?

東京に本格的な“クラブカルチャー”が根付いたのもこの頃です。話題になったトゥーリアや金字塔的存在だった芝浦ゴールドには、幅広い世代の人々が集って宮殿ディスコとは対照的な感性で東京の夜をクリエイトしていました。

クラブDJや一夜限りのパーティを神出鬼没に行うパーティオーガナイザー、高感度な外国人やLGBTといった人たちの貢献、アメリカ東海岸のヒップホップや西海岸のスケートカルチャー、イギリスやヨーロッパのレイヴカルチャーの浸透も忘れてはいけないと思います。

──90年代の西麻布イエローやゼロ年代の新木場アゲハがこの流れをアップデートしていくんですね。渋谷系や裏原にもリンクします。しかし、さすがはバブル期。スキーやビリヤードなどのブーム、レンタルビデオやカラオケボックスの普及、レースクイーンやイベントコンパニオン人気があったと思えば、その真逆を行くようなOlive少女やCUTiE少女の存在、バンドブームなどパーティネタに事欠きませんね。

とんねるず司会の恋愛バラエティ番組から発祥した“ねるとんパーティ”は集団お見合いパーティの祖となり、現在の婚活パーティへの流れを作ったことは有名です。

“異業種交流会”は、イベント系サークルの“意識高い系”社会人版に他なりません。とにかくJJやCanCamなどの赤文字雑誌に出てくるようなコンサバな女子大生やOLを装っていれば、ほとんどの女子はチヤホヤされて恩恵を受けられた奇跡の時代です。

──で、高飛車になった一部の女子が男たちを「アッシー」「メッシー」とか言っちゃったワケですね。1986年から実施された男女雇用機会均等法が女を強くしたとか?

バブル期を振り返ろうとすると、そういうキーワードばかりが先行するのですべてが軽薄だと思われがちですが、実は違います。

当時はスマホもSNSもないので、知り合ったばかりの相手が教えてくれるのは実家の電話番号。大抵は親が出るので、取り次いでもらうための話し方は失礼のないように緊張感が備わります。待ち合わせ一つにしても、遅刻したら相手への連絡手段がありません。

マナーや時間を守ることは、どんなに浮かれていても暗黙のルールだった気がします。男女のコミュニケーションという点では今よりずっと品位はあったんじゃないでしょうか。 

(次回②へ続く)

*Illustration:ハシヅメユウヤ

★1986〜1991年の詳しいことについては、以下のマガジンで連載中。


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中野充浩(文筆家/コンテンツ制作者)
最後までありがとうございました。最初は誰かの脳に衝撃が走り、左胸をワクワクさせ、やがてそれが何人かに伝わって周囲を巻き込み、みんなで動き出しているうちに同じ血と汗と涙となり、最後には目に見えるカタチとなって現れる。そんなことをやり続けます。応援よろしくお願いいたします。