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米津玄師 カナリヤMV考察

2020年 コロナ禍の日本において最も売れたアルバム「Stray Sheep」は「カナリヤ」と言う曲で幕を閉じる。この名曲について、今さら私ごときが語ることは何もない。そして、この曲にMVが無いことに少なからず安堵していた。そのままで美味しい新米に余計な味付けは要らないからだ。

ところがである。満を侍してなのか、急遽制作したのかは不明だが、何の前触れもなくMVが公開された。監督が是枝裕和氏だろうが油断はならない。恐る恐るYouTubeのリンクを開く。

そこには丁寧に精米され匠の技で炊かれた極上の白飯が、雑味のない味噌汁と素材を活かした浅漬けとともに供されていた。

沁みた。
自分が思うより飢えていた五臓六腑に。

どうにかこの気持ちを誰かに伝えたくて、いきなりnoteに登録した。これが初投稿である。無粋を承知で書いた以下の考察をご笑納いただきたい。(文中敬称略)

https://youtu.be/JAMNqRBL_CY

このMVのキャストは米津玄師本人を除くと6人である。しかし、蒔田彩珠と本村海(コンビニで出会う若い男女)は1人2役を演じている。時間軸はコロナ禍の「今」と、田中泯演じる老紳士の若い頃の2軸で進行する。

また米津の衣装について、黒は黄泉、白は現世を表しており、アニメのカナリヤは命そのものである。以上を踏まえてカットごとに見てみよう。

あの国民的レクイエムであるLemonを彷彿とさせるシチュエーションで、静かに歌い始める黒い服の米津。この黒い世界に1羽のカナリヤが飛び込んでくる。

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次のシーンはコロナで逝ってしまった妻と夫との残酷でやるせ無い対面。最期に
抱きしめることも手を握ることさえ許されない悲しみはいかばかりか。
あのカナリヤは妻の魂だったのではないか?

悲しみにも疲れ果て、すべてを諦めたような表情で独り川辺を歩く夫。

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続くコンビニのシーン。手前を横切る女性はマスクを着用し、レジカウンターには飛沫防止シートがあることからコロナ禍の今であることがわかる。

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前出の老夫婦はビニール越しに別れ、コンビニ店員の男の子と客の女の子はビニール越しに初めて触れ合う。

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変わってバスケをする高校生カップル。これは「今」ではなく冒頭の老夫婦の若い頃であり無邪気に思い切り触れ合えたあの頃の思い出。

白シャツの米津が優しい光を浴びて歌う。若く瑞々しい命を祝福するように。

さらに時は巻き戻り2人の小学生時代まで遡る。田舎道を元気に駆けていく子供たちを見守るように飛ぶカナリヤは、彼らの亡き祖父母、曾祖父母かも知れない。
本篇にはないが予告SPOT篇では川原で遊ぶ少女1人と2人と少年が描かれている。2人は幼なじみで高校から付き合い始めたのかも知れない。それだけの長い時間を一緒に生きてきたのだ。

次のシーンは浮かない顔でカフェにいる大人の女性。窓ガラスに杖をつく老人と寄り添うように歩く人影が映っている。この2人の絆を感じることにより女性の寂しさが際立つ。彼女が思いを馳せている相手であろう男性もまた、公園のベンチに独り。読んでいる本にも集中できず何か思い悩んでいるように見える。

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この2人は恋人同士か夫婦。後半の道路を挟んで口論しているシーンから想像するに、歌詞にある「時には諍い、傷つけ合うでしょう」状態のようだ。
仲良しの頃、戯れに顔にシーツを被せるところが故人の顔を隠す打ち覆いのようで不吉だ。その白布越しに笑いながらキスをする場面では「コロナやばいから直接キスはダメよ、チュ!」みたいな台詞が聞こえそうなほど幸せそうなのに。

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再び白シャツ米津の歌唱シーンに続き、レトロな赤ポストに手紙を投函する女の子とそれを嬉しそうに受け取る男の子が現れる。この2人はバスケをしていた2人。つまり老父婦の若い頃である。幼なじみの2人は高校を卒業しどちらかが引越しでもしたのかも知れない。スマホも携帯もない時代、離れて暮らす2人のコミュニケーション手段は文通だった。

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山を川を自由に飛び回るカナリヤのシーンに続き、溢れる光を全身に浴び、震えるように声を振り絞って歌う米津の姿は神々しいほどだ。

諍う男女、怒りにも似た慟哭に苛まれる老人。
そして、雨の中ずぶ濡れの女の子は、亡妻の若い頃ではなくコンビニにいたあの子である。通話を終えた彼女は天を仰ぎ静かに目を閉じる。その表情は深い悲しみと同時にどこか安心したような優しさがよぎる。彼女が電話で受けた知らせは、あの老紳士の訃報だった。

そう、彼女は、、、、

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コロナで逝ったあの妻に瓜二つの孫娘だったのだ。

人は繋がってる。命は受け継がれていく。

このMVに関する記事では「三世代の」という記述があるため、あの喧嘩中のカップルがこの子の両親では?とも推察できる。起用している役者は二人とも30代半ば。40歳くらいを演じているとしたら十分あり得る。
もしかしたら、あの2人の諍いは子供に関する問題だったのかも知れない。お互いが娘を思うが故にぶつかり合う、愛すればこその諍い。
お爺ちゃんの訃報を伝えたのはパパだったか?ママだったか?

再び、米津の歌唱シーン。「見失うその度に恋をして確かめ合いたい」と。

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出会った頃の妻に再会し、ボートを漕ぎながら満面の笑みを浮かべる。あの世への道中、見失った愛を確かめ合い恋をする2人。空にはV字編隊で飛ぶカナリヤ。彼らはこの未曾有の出来事の犠牲者たちなのだろうか?彼女が水面から拾った黄色い花びらはこのカナリヤたちの落とした羽根ではあるまいか?それは失いつつある命の欠片。

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そして、黒い衣装の米津。ここからは死後の世界。映写機の光に飛び交うカナリヤたちはここに辿り着いた魂。


米津の歌が終わると同時に穏やかに川辺を歩く老夫婦のシーンに切り替わる。
妻が指し示す空にあるものは何か?
次のシーンでは若き日の2人が同じように、
空を見上げている。あのカップルも。
そして、米津も。
老いも若きも、今も昔も、命ある者も亡き者も、みんなが探していたものは、あるいは見出したものは、

希望なのではないか。


籠の鳥の象徴であるカナリヤは、
自由を奪われた人々の行動。
敏感で美しくもか弱いカナリヤは、
今の私たちの心。

そして
死ぬまで歌い続けるというカナリヤは、

米津玄師自身の覚悟のような気がする。

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