米津玄師の”恥ずかしい”歌詞
「米津玄師の歌詞を因数分解して分かったこと」<第35章>
*<プロローグと第1章〜34章+番外編Vol.1〜3>は下記マガジンでご覧ください。↓
米津玄師の最新曲「KICK BACK」のカップリングタイトルが「恥ずかしくってしょうがねぇ」だと発表された時、何を”恥ずかしい”と歌うのか?と様々な想像が膨らんだ。
蓋を開けてみれば、「恥ずかしくってしょうがねぇ」とは他者を冷嘲する言葉だったわけだが、モラリスト気取りで他人を断罪し溜飲を下げる所作もまた”どっちもどっち”であることに理知的な米津が気づいていないはずはない。
それについての考察はこちらの記事で↓
「恥ずかしさ」の多義性
米津は9曲で「恥ずかしい(活用違い含む)」という言葉を歌詞にしているが、この言葉の意味は実に多彩だ。
*「はにかむ(活用違い含む)」は3曲で使用
例えば、「悲しくってしょうがねぇ」とか「嬉しくってしょうがねぇ」だったとしたら、程度や理由は様々でも「悲しい」「嬉しい」という感情の方向性に差異はない。
だが「恥ずかしい」となると、望外に褒められて「恥ずかしくってしょうがねぇ」とか、自罰的な「恥ずかしさ」もあるし、当該曲のような他者に向けられる刃の場合もある。
恥ずかしさを分類すると・・・
そこで「恥ずかしさ」「羞恥心」を表現するワードを以下のようにプロットしてみた。縦軸は深刻さの程度、横軸は誰に対して恥ずかしいと感じるかを表している。
左側の恥ずかしさは自意識であるのに対し、右側の対他者は共感性羞恥や「アイツは恥ずかしい奴だ!」的な意味で他人に向けられるものと、他人から見られる自身の恥ずかしさが含まれている。
【Aゾーン】
性格的に”シャイ”であるとか、”嬉し恥ずかし”と言ったこそばゆいけれど悪い気はしない恥ずかしさ
【Bゾーン】
後から笑い話になる程度の失態やミス、イタイ言動に対する恥ずかしさ。もしくは目上の人からの賛美に対する謙遜や恐縮。
【Cゾーン】
客観的評価や他者の視線に関係なく自分自身の中に燻る恥ずかしさ。自分の能力や行い、コンプレックスに対する卑下や自虐。
【Dゾーン】
穴があったら入りたいほどの大恥を晒す、他者に恥をかかされる。あるいは他者の言動や態度に対する嫌悪感や共感性羞恥。
あくまでも筆者の感覚的に過ぎないが、このチャートに米津玄師の”恥ずかしい”歌詞を当てはめるとこんな感じだろうか?
ずっと恥ずかしいと思って生きてきた
Cゾーンの左下は「懺悔の街」の歌詞だが、この曲に関するインタビューで米津は何度も何度も何度も”恥ずかしい”と口にしている。
幼い頃からそう思っていたせいか、歌詞に出てくる「恥ずかしさ」も自分に向けられたものが多い。
米津がどうなのかはわからないが、自己嫌悪や自己肯定感の低さは、裏返せば高い自意識、強い自己愛によるものだという言説もある。
「恥ずかしさ」=「恥」ではない
「恥ずかしいくらい生きていた僕らの声(ナンバーナイン)」「恥ずかしいくらい生き急いでいた遠い遠い昔(amen)」で使われている”恥ずかしい”は決してネガティブな意味ではない。それは生きることに対する真摯な必死さであり、愚直な懸命さだ。
米津は過去のインタビューでこの類の”恥ずかしさ”についてこう言及している。
また、恋愛に関しても同じようなことを言っている。
みっともない自分を晒け出す勇気。例え無様であろうと自分の生き方や信念を貫く強さ。そんな姿を笑わば笑えという誇りを「恥ずかしいくらい生きていた(生き急いでいた)」という歌詞に忍ばせているような気がする。
何を恥ずかしいと思うか?の価値観
恥ずかしい状況は極力避けたいとか、他人の恥ずかしい姿を見るのが辛い人もいる。一方で「恥じらい」は、品のよさや可愛らしさのある所作でもあるし、あえて「恥ずかしさ」を受け止め突破していく姿は逞しく美しい。
笑いや怒りと同じように、どこに恥ずかしさのツボやスイッチがあるかは人によって異なるだろう。何を恥ずかしいと思うか?それは、生来の性格、環境、倫理観、価値観、そして時代をも映す鏡なのかも知れない。
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