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学園祭回顧録

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1990年〜1992年の天童二中・天童四中時代、1993年〜1995年の山形東高時代、1996年〜2001年の東大駒場祭・五月祭時代、そして2019年、2020年の、駒場祭70回… もっと読む
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学園祭回顧録:目次、およびはじめに

目次・はじめに ・中学1年の頃(天童二中文化祭):1990年(平成2年) ・中学2年の頃(天童二中文化祭):1991年(平成3年) ・中学3年の頃(天童四中生徒会):1992年(平成4年) ・高校1年の頃(山東祭):1993年(平成5年) ・高校2年の頃(山東祭):1994年(平成6年) ・高校3年の頃(山東祭):1995年(平成7年) ・高校3年の頃(生徒総会):1995年(平成7年) ・大学1年の頃(入学~新フェス):1996年(平成8年) ・大学1年の頃(Cruisin

学園祭回顧録:中学1年の頃(天童二中文化祭)

【1990年(平成2年)】 僕が初めて「学園祭」というものに関わったのは、中学1年の時の「文化祭」だった。その年の文化祭には、クラスで大きな壁絵を作りそれを展示するという「クラス展示」というものがあり、僕は学級委員だったこともあって、それに深く携わっていた。 まず一番最初に決めたのが、どのようなテーマにするかということであった。いろいろな意見が出たが、当時うちのクラスが合唱コンクールで自由曲として選んでいた「地球よ」にちなんで、「宇宙と地球」をテーマに決めた。ならばどんな

学園祭回顧録:中学2年の頃(天童二中文化祭)

【1991年(平成3年)】 文化祭のほとぼりも覚めやらぬ12月に、生徒会の選挙があった。その頃から僕は生徒会の方に興味を持ち始めていて、選挙には出なかったが、事務局員という役職につくことになった。何故生徒会に興味を持ったかは、はっきりとはわからないのだが、何か生徒会をやらなければという使命感や義務感のようなものがあったような気もする。そしてまた普段の授業や部活とは違うことをやってみたいという好奇心もあったような気もする。文化祭での楽しい経験も、その興味にちょっとは関係してい

学園祭回顧録:中学3年の頃(天童四中生徒会)

【1992年(平成 4年)】 僕が中学3年になる時、新しい中学が設立された。当時天童市には3つの中学があったのだが、僕がいた天童二中が1000人を越える大御所だったこともあり、もう1つの中学校を設立しようという動きは前々からあった。そして僕が3年になる4月に、二中と三中の学区の一部を併合する形で第四中学校が新設され、僕も含め二中に通う生徒の6割近くが四中に移動することになった。 中学3年の頃の思い出で多いのは、文化祭ではなくむしろ生徒会の活動だ。この時僕は生徒会長をやって

学園祭回顧録:高校1年の頃(山東祭)

【1993年(平成5年)】 中学を卒業して高等学校に入学した僕は、生徒会に対する興味はほとんど失っていた。それはやはり中学3年のあの一件が影響していたのかもしれない。しかし学園祭に対する興味はそれほど失っていなかった。いやむしろ生徒会への興味がなくなったからこそ、学園祭への興味が復活したのかもしれない。そんなこともあって、高校一年の4月、新しいクラスでクラス役員を決める時に、僕は学園祭の実行委員に立候補した。 高校の学園祭は「山東祭」と呼ばれていた。これは高校が山形東校と

学園祭回顧録:高校2年の頃(山東祭)

【1994年(平成6年)】 高校1年の時の経験が、その後の僕の人生に大きく影響を与えたのは間違いない。あの時流した涙をもう一度味わいたい。それは今でも変わらぬ思いとして、僕の心の中にあり続けている。そしてその思いがあるからこそ、僕は学園祭に関わりたいと強く思っている。高校2年の四月、新しくなったクラスで僕が山東祭の実行委員に立候補したのも、その思いが強く働いていたに違いない。 高校2年の山東祭では、1年の時と違って全体の準備にも関わった。僕はクラス企画の調整をする部局に配

学園祭回顧録:高校3年の頃(山東祭)

【1995年(平成7年)】 高校3年の時も、僕は当然のごとく山東祭の実行委員をやっていた。そしてこの年は、クラス企画よりもむしろ全体の準備の方に大きく関わった。 僕がついた部局は昨年と同じくクラス企画の調整の仕事だった。またいくつか部活動の部でも企画が出ていたので、その場所の調整も行った。6月にクラスの代表者に概要を説明し、7月はじめに一度企画書を出してもらい、不備がある場合は手直し。そうして下旬までに企画書が出そろったら、今度は場所決め。場所は入り口に近い場所に当然人気

学園祭回顧録:高校3年の頃(生徒総会)

【1995年(平成7年)】 入学当初は生徒会に関るまいと思っていた高校時代だが、結果として僕は生徒会に関わることになる。そしてまたあの「生徒総会」で、しかも「校則問題」で一悶着を経験することになるのである。 僕が生徒会に関わりを持ち始めたのは、山東祭も終わった高校1年の10月頃であった。各クラスから1名生活委員を出さないといけないということで、僕がクラスから出ることになったのだ。 生活委員は風紀委員のようなもので、構内の風紀を取り締まるのを主たる役目としていた。ただし活

学園祭回顧録:大学1年の頃(入学~新フェス)

【1996年(平成8年)】 中学から高校へ移った時も、通学手段が徒歩から電車に変わるなどそれなりの変化が生活の中にはあったが、それは高校から大学へ移った時ほどではなかった。東京大学になんとか合格した僕は、地元の山形から上京し東京で一人暮らしをすることになったのだが、東京での生活は山形での生活とは大きく違っていて、最初の頃はとまどいと同時に驚きと感動で一杯だった。雑誌が発売日にちゃんと発売されていたり、電車が10分に一本はあったり、今思うと些細に思えることも、あの頃は新鮮に感

学園祭回顧録:大学1年の頃(Cruising Party)

【1996年(平成8年)】 大学の学園祭というのは、少なくとも僕にとっては、中学や高校の学園祭とはまるで違うものであった。参加する企画の数や種類も、そして学園祭を運営する方法やシステムも、そのほとんどが今までとは大きく違っていた。その違いは「山形」と「東京」の違いに起因するものもあったのだろうが、当時の僕にとってその違いは大きく、そしてそれは学園祭への新たな興味へとつながっていった。 新フェスは、受験開けの僕に学園祭の楽しさを久しぶりに思い出させてくれた。ただその楽しさは

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:6月~8月)

【1996年(平成8年)】 11月下旬に行われる第47回駒場祭の準備が本格的に始まりだしたのは6月頃であった。4月と5月にも毎週ちょっとしたミーティングは行っていたが、顔合わせや新入生への学園祭紹介が主で、そんなに深い話はまだあまりなかった。 6月になって最初に決めたことは、委員会内での役割分担(人事)であった。4月や5月から新入生を中心にどんな仕事をやりたいかの希望をとっていたのだが、それを正式に決めたのが6月の最初か二回目の総会(駒場祭委員会の会議)であったと記憶して

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:9月~10月上旬)

【1996年(平成8年)】 Cruising Partyでもそうだったが、駒場祭の業務を通じても僕は「絵を描く」ためのたくさんの技術を学んだ。それはパソコンの様々な技術であったり、あるいは組織の運営方法に関することであったり、または印刷上のノウハウであったりと様々であったが、それらの中で最も大きかったスキルはAccessによるデータベースの作成とPageMakerによる冊子の編集の2つだと思われる。そしてこれらのスキルを覚え始めたのは、大学1年9月の秋休みの頃であった。

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:1+1が2となる楽しさ)

【1996年(平成8年)】 Cruising Party以来、先輩方の様々な技術やノウハウを学んでは、自分の出来る範囲を広め仕事の処理スピードを速めることに精を出していた僕であったが、それは更に僕の「1人で仕事をする癖」を強めていった。悪く言えば、当時の僕は他人に頼まなくても済むほどの仕事能力を自分で身につけたいと思い、実際多くのことを自分1人で片づけようとした。そしてまた駒場祭委員会の体制は、そんな僕の性癖にとって都合のいいものであった。 先に述べたように、僕は1人で広

学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:10月中旬~当日)

【1996年(平成8年)】 10月下旬か11月上旬頃に、ある人が駒場祭委員会の部室(学館211)を訪れ、当時の企画局長と話をし、何か本部企画で面白いことができないかという話が出てきた。そしてそれが「空白最強ライブ」だった。僕は最初の時期は関わっていなかったが、途中から企画局長に誘われたこともあって、この企画の主に裏方の作業に関わるようになった。 しかし今思うと、関わろうと決めた僕はまだ甘かったと思う。というのも、この頃僕は広告局関連の仕事はさほど忙しくなかったが、運営委員