学園祭回顧録:高校3年の頃(山東祭)

【1995年(平成7年)】

高校3年の時も、僕は当然のごとく山東祭の実行委員をやっていた。そしてこの年は、クラス企画よりもむしろ全体の準備の方に大きく関わった。

僕がついた部局は昨年と同じくクラス企画の調整の仕事だった。またいくつか部活動の部でも企画が出ていたので、その場所の調整も行った。6月にクラスの代表者に概要を説明し、7月はじめに一度企画書を出してもらい、不備がある場合は手直し。そうして下旬までに企画書が出そろったら、今度は場所決め。場所は入り口に近い場所に当然人気が集まるので、それをくじ引きで決めた。また廊下の片隅や中庭などの特殊な場所を使いたいというクラスもあるので、そういった場所の調整も行った。こういう些細な場所でもちゃんと決めておかないと当日に思わぬトラブルがあったりする。この年も一件だけ当日場所のことでもめてしまった。大事には至らなかったが、少し焦ったのもまた事実だ。

場所決めが決まると、今度は企画コンテストの準備に取りかかった。これは当日審査員や来場者にどの企画が良かったかを審査してもらい、その結果を最後の閉祭式で発表するというものだ。企画に優劣をつけるのもどうかという声があったが、模擬店/展示/演劇の各部門で評価の高かった企画を発表し、賞金として3,000円渡す程度だったので、まあいいんじゃないかということで、実行に踏み切った。

審査員はまず各学年ごとに先生を一人ずつ選び、また知り合いの実行委員数人に頼んだ。そして当日に正門付近で来場者にアンケートをとり、それらを全て加算して得点を出した。最初は正門前で立て看板などを出して大々的に行うことも考えたが、結局街頭アンケート程度のことしかできなかった。

当日はその集計に追われ、クラスの方にはほとんど参加できなかった。ただ準備段階ではいくつか手伝うことができた。その年クラスでは焼き鳥の模擬店を行ったのだが、僕が手伝うことができたのは、ジュースや材料の買い出しと、後は開祭式でのクラス宣伝だ。

毎年山東祭では、開祭式に自分たちのクラスの企画を宣伝することができる。といっても時間が2、3分なため、各クラスはこの短い時間にいかに自分たちをアピールするかに勝負をかけてくる。

このクラス宣伝の概要が定まったのは、確か山東祭の2日前だったと思う。放課後教室に残っていた数人と話し合っていたところ、¥ショップ武富士のCMのダンスをみんなで踊ったらいいんじゃないかという案が出た。その案が結構受けて、とりあえずCMで流れている曲のCDと、振り付けを覚えるためにCMを撮ったビデオを、次の日まで用意することになった。

CDの方は結構苦労したようだ。¥ショップ武富士本社に電話をかけて曲名を聞き出し、結果「シンクロナイルド・ラブ」という題名であることがわかり、CDショップを駆けめぐってようやく友達が見つけ出した。ビデオの方はある友達がそのCMをしっかりと撮っていてくれた。

材料が揃ったので、次は振り付けの研究を行った。振り付けに詳しい友達がビデオを何回も見て、ここはこうじゃないかと実際に踊りながら、曲の振り付けを決めてくれた。そして練習。踊りには男性20人近くが参加してくれた。体育館の卓球場を借りて、前日の夜20時頃まで練習した。それだけじゃ足りないので、次の日も早朝6時から練習を開始することにした。朝早いので心配だったが、ほぼ全員がちゃんと時間通りに集まってくれた。これには嬉しさを通り越して驚きがあった。この時うちのクラスに何か異常なノリがあったのは事実だ。

練習も一応済み、残るは衣装だ。CMではレオタードで踊っているので、うちらも水着で行こうということになった。ただ上半身裸は寂しいので、上にはクラスで作ったTシャツを着た。

そして本番。舞台の幕が開くと、そこには男20人がTシャツ海パン姿で陣取っている。彼らは皆後ろを向いており、微動だにせずじっと「その時」を待っている。そして会場におなじみのあの音楽が流れる。ダンス開始のフレーズにさしかかったその瞬間、彼らはくるっと振り返り、一斉にあの踊りを踊り出す。

…それはとても異様な光景だっただろう。しかしその異様さが受けて、振り返った瞬間会場にはどっと笑いが起こった。僕はその笑いに勝利を確信しながら、無表情にダンスを踊りきった。(無表情で真剣に踊るのがコツの一つだった。)

その踊りは今でもはっきり覚えている。いつか同窓会か何かで、また一緒に踊りたいと僕は思っているのだが、今のところ賛同者は少ない。

そんな踊りを覚えている暇があったらフォークダンスの振り付けを覚えるべきだったのかもしれない。高校最後のフォークダンスも、僕は振り付けをそんなに練習することはしなかった。けれど3年間の中では一番練習した。その甲斐あって、その年は五回程度だがフォークダンスを踊ることができた。僕の友達は相変わらず踊りまくっていたが、何故か犬の着ぐるみで踊っていたので、その姿はどこか異様で、変に笑えてしまった。

そして閉祭式。その年の閉祭式は、いつもの講堂ではなく、グラウンドで行った。僕はその閉祭式で、例の企画コンテストの結果発表をした。優秀クラスの名前を書いた垂れ幕を大判用紙で作り、「皆さん、校舎の三階の窓をご覧ください!」と注目させた後、その垂れ幕を開くという手はずだったが、校舎があまりにも遠かったため、垂れ幕が小さすぎてクラス名が読めなくなってしまった。受賞クラスはあらかじめメモしていたので、進行上の妨げにはならなかったが、雰囲気を大きく盛り下げってしまったかもしれない。閉祭式の担当者には悪いことをしたと思っている。

閉祭式も終わった後、最後の後片付けをしている中、僕は閉祭式の担当者が泣いているのを見た。聞くと閉祭式のことを悔やんで泣いているようだった。原因は何か分からなかったが、僕はさっきのこともあり、またその担当者が1年の時からの友達だったこともあって、ひどく気になった。そしてまた2年前、自分が泣いたあの時をちょっと思い出した。

結局山東祭で泣いたのは、1年のあの時だけだった。その後2年生の時に1度だけ、部活の関係でうれし泣きをしたことはあったが、それ以来僕はあのような涙を流したことはない。2年の山東祭も3年の山東祭もとても楽しく、むしろ1年の時より楽しかったが、それでも僕は泣かなかった。

別に泣かなかったから失格という訳でもないのだが、泣くことがないからなおさら、あの時の涙は何だったのかとひどく気になってしまう。1年の時は苦労が多かった。ならばあの涙は苦労から来る涙だったのだろうか。それとも閉祭式の担当者と同じように、悔しさから来るものだったのだろうか。

あの時僕は、嬉しいも悲しいも、悔しいも楽しいも何も感じていなかった。ただ心の中に漠然とした感情の渦があって、ただその渦に自分の身を任せていた。そうしたらいつの間にか僕は泣いていた。涙で声がでなくなっていた。そしてただ立ち尽くしていた。

涙に意味などを求めてはいけないのかもしれない。けれども僕はその涙の理由を知りたいと考えている。それはあの涙が僕が学園祭に関わる強い動機の一つであるからだ。しかしその答えは、もしかしたら一生かかっても求めることはできないのかもしれない。

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