学園祭回顧録:高校2年の頃(山東祭)

【1994年(平成6年)】

高校1年の時の経験が、その後の僕の人生に大きく影響を与えたのは間違いない。あの時流した涙をもう一度味わいたい。それは今でも変わらぬ思いとして、僕の心の中にあり続けている。そしてその思いがあるからこそ、僕は学園祭に関わりたいと強く思っている。高校2年の四月、新しくなったクラスで僕が山東祭の実行委員に立候補したのも、その思いが強く働いていたに違いない。

高校2年の山東祭では、1年の時と違って全体の準備にも関わった。僕はクラス企画の調整をする部局に配属され、チーフだった先輩の仕事を手伝うことになった。これは各クラスが使う場所や時間を調整する仕事が主で、後は企画がなかなか出てこないクラスを催促したり、アドバイスをしたりといった内容だった。けれどクラス数も25くらいなので、そんなに大変な仕事ではなかった。というか仕事はほぼ先輩が一人で片付けていたので、他の人たちがやることはあまりなかった。あったといえば、山東祭初日にその先輩が風邪か何かで倒れたので、その日だけ職務を代行したくらいだ。代行といっても、当日やらなければならない仕事はほぼないに等しかったので、ほとんど苦労はしなかった。

そんなわけで2年の時も僕は主に自分のクラスの企画に携わることになった。この年クラスでは「カジノ」をやった。といってもポーカーやブラックジャックではなく、等身大の人生ゲームというのか、複数人でゲームをし、様々な局面に立っては色々な選択をしてお金(ポイント)を稼いでいくというものだった。何故「カジノ」と呼ぶかというと、その他にカジノの歴史や様々なゲームを調べた展示を行ったのが一つと、一応「テレビ」という商品をつけたのが一つだ。(もっとも獲得までのポイントが高くて誰も手に入れられなかったが。)

この企画、最初はまた悪い癖で一人で進めてしまった感があったが、当時のクラスは結構イベント好きというかお祭り好きの人が多かったので、徐々に協力してくれる人が増え、最後は「和気あいあいとした共同作業」で準備を進めることができた。山東祭初日はスタッフ側も慣れず人も閑散としていたが、その日の夕方に緊急のミーティングを行い客寄せのための様々な対策をたてた。その成果あって次の日は結構お客が入ってくれ、逆にスタッフが大忙しだった覚えがある。ただその人生ゲームで使った写真(結婚相手用に何枚か友達に写真をとらせてもらった)がもとで、ちょっとしたトラブルが発生してしまったりもしたが、今となっては良い思い出である(ということにしておこう。)

思い出深いといえば、2年生のクラスだけでなく、1年の時に同じクラスだった友達も他のクラスで山東祭に深く関わっていたのが、何故かとても嬉しかった。実行委員をやっていた友達も多かったので、全体の準備で一緒に仕事をしたりもできたし、山東祭終了後、中庭で実行委員のお疲れパーティ(といってもジュースを飲み合うだけだが)にも一緒に参加することができた。2年生のクラスメイトとは、終了後何人かでカラオケにいった。やけにうまい人が多くて、僕はひどく面くらったものだ。(何せカラオケにいったのはそれが人生で二度目だった。)

ところで高校の学園祭といえば「フォークダンス」が一つの目玉であった。このフォークダンスは、市内の公立高校が合同で曲と振り付けを決定していたので、どの学校の学園祭に行ってもフォークダンスが踊れるようになっていた。学園祭の時期を微妙にずらしていたので、プロになると一週間近くで300人以上の人と踊る人もいたようだ。僕の友達にも「ゴッド」と「キング」の称号を授かった凄腕のフォークダンスマスターがいた。

僕はというと、結局フォークダンスはほとんどしなかった。忙しくて練習できなかったこともあるが、性格的に苦手だったのが一番の理由だろう。でも眺めているのは好きで、凄腕の友達に連れられてはただその踊りを眺めていた。おかげで曲の方はだいぶ覚えたものだ。特に一年の時の 'Please,Mr.Postman'はお気に入りで、今でもよく聞いている。聞くと何か当時のことが思い出されて、何ともいい感じの気分に浸ることができる。ちょっとした思い出の曲だ。

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