学園祭回顧録:高校1年の頃(山東祭)
【1993年(平成5年)】
中学を卒業して高等学校に入学した僕は、生徒会に対する興味はほとんど失っていた。それはやはり中学3年のあの一件が影響していたのかもしれない。しかし学園祭に対する興味はそれほど失っていなかった。いやむしろ生徒会への興味がなくなったからこそ、学園祭への興味が復活したのかもしれない。そんなこともあって、高校一年の4月、新しいクラスでクラス役員を決める時に、僕は学園祭の実行委員に立候補した。
高校の学園祭は「山東祭」と呼ばれていた。これは高校が山形東校という名称だったからだ。山東祭は毎年8月下旬に行われていたため、その準備は7月と夏休みが主になっていた。
学園祭の実行委員の仕事は、まずはクラス企画の準備と、その他講堂企画や中庭企画、開祭式、閉祭式、中夜祭などの全体の準備がある。僕は全体の方では開祭式を手伝うことになったのだが、こちらは3年生の先輩が多く手伝っていたので、僕が受け持つ仕事はそれほどなかった。そのため僕は主にクラス企画に関わることになった。
クラス企画の内容は、演劇や展示、占いやゲーム、模擬店や喫茶店など様々であった。内容に特に制限はないが、食べ物は3年生しか扱えないことになっていた。これは調理室の狭さの関係だろう。また毎年1年生の数クラスは演劇を行っており、これは一つの伝統になっていた。
企画書を提出しなければならない7月下旬を控え、7月のある日クラスで山東祭の出し物について話し合う時間を得た。とりあえずどんなことをやろうかという話になり、「演劇」という案が多数決で決まった。ならばどんな「演劇」をやる?「悲劇」?「喜劇」?その内容は?という話になり、いくつかの案が出たが、最終的には「マッチ売りの少女」を喜劇風にアレンジして行うことに決まった。
劇が決まったら脚本である。そしてそれにあわせてキャストを決め、また大道具と小道具も作らなければならない。とりあえず「脚本」と「キャスト」と「大道具」と「小道具」の4つの班を作り、それぞれで練習や制作を行うことになった。
しかし今改めて思うと、7月上旬に内容を決め8月下旬に上演するというのは、かなり無理のあるスケジュールだったように思える。しかも中に夏休みを挟む。休みがあるから練習できるといえばそうだが、逆に言えば休みなのに学校に練習に来るのはかなり大変である。それぞれ部活なども抱えているならばなおさらだろう。
そんなこともあって劇の準備は思うように進まなかった。そして僕自身もまた、中学3年の頃の悪い癖から、1人で仕事をこなそうとしてしまった。とりあえず簡単に脚本を作り、それを「脚本」グループに見せ、少し手直しして脚本を決定。次にキャスティングは、立候補者がいなかったのでくじ引きで決めてしまった。僕はくじにあたりマッチ売りの少女(けれども脇役)を演じることになった。
僕は焦っていたのだろう。とりあえず決まればいいと、ほとんど機械的にことを進めすぎてしまった。その結果クラスの中に熱意を呼び起こすことに失敗した。そしてますます僕は1人で仕事を抱え込むという、悪循環を引き起こしていた。
けれども8月下旬になり、2学期が始まり出す頃には、僕は決して1人ではなかった。衣装を用意してくれたり、演出の照明・音響効果を考えてくれたり、大道具や小道具を作ってくれたり、様々な人が企画に協力してくれた。最後の最後で、「和気あいあいとした共同作業」を行うことができた。それはとても楽しいものだった。
山東祭前日の日は大変だった。その日は講堂で練習することができたので、一通りリハーサルをする予定であったが、台風が来て大荒れの状態だったので、20時頃まで作業をした後、先生から早く帰った方がいいといわれた。大雨の中ずぶぬれになって駅まで走っていったら、電車が止まっていて、同じような境遇にいた友達と駅で1時間ぐらい無駄話をした思い出がある。思えば僕の雨好きも、この頃から来ているのかもしない。そして本番当日。リハーサルを1回も行えない状態での上演だったが、いくつかのハプニングはあったものの、何とか無事上演することができた。
山東祭も終わりに近づき、いよいよ残すは閉祭式の実行委員長挨拶のみとなった。スナップショットでの山東祭の思い出に耽っていた僕は、何て言うのかと少し期待しながら委員長が壇に上るのを待っていた。しばらくして委員長が壇上に上がった。皆が一斉に注目する。けれども委員長は何も言わない。言葉を発しようにも発することができない。出るのはただ、ただ涙だけ。そう、委員長は泣いていたのだ。
委員長は、泣いている中でも何とか言葉を言おうとする。けれども出てこない。そんな委員長の様子を見て、誰かが「頑張れ!」と叫ぶ。違う場所でも誰かが叫ぶ。至る場所から「頑張れ」のエールが寄せられる。そして最後に委員長は、「ありがとうございました!」と一言、そのエールに、そして会場全員に答えるのだ。
僕はその委員長の姿をただ呆然と見ていた。実行委員の会議でも何度か会ったことがあるあの委員長がただ泣いている。何故かは分からないが、それにひどく感動した。閉祭式が終わって後片付けをしている間も、僕はその感動の余韻にしばらく浸っていた。
後片付けもようやく終わり、教室にクラス全員が集まって最後のミーティングを行っている時、僕は先生から一言挨拶を求められた。僕はその場で立って、みんなの方を見て言う。
「えー、7月から準備を行ってきましたが……」
僕は言葉を続けなかった。続けることができなかった。出るのはただ涙だけ。そう、僕もまた泣いてしまったのだ。
半分はもらい泣きかもしれない。でも残り半分は、確かに自分で流した涙だった。嬉しいから?それとも悔しいから?何故かもわからないまま、僕は立ち尽くし涙を流していた。
そんな僕を見て、誰かが「頑張れ」と叫んだ。僕はさっきの光景を思い出し、少し笑って、それから「ありがとうございました」という言葉を辛うじて声に出した。そして、そして僕の高校一年の山東祭は、幕を閉じたのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?