学園祭回顧録:高校3年の頃(生徒総会)

【1995年(平成7年)】

入学当初は生徒会に関るまいと思っていた高校時代だが、結果として僕は生徒会に関わることになる。そしてまたあの「生徒総会」で、しかも「校則問題」で一悶着を経験することになるのである。

僕が生徒会に関わりを持ち始めたのは、山東祭も終わった高校1年の10月頃であった。各クラスから1名生活委員を出さないといけないということで、僕がクラスから出ることになったのだ。

生活委員は風紀委員のようなもので、構内の風紀を取り締まるのを主たる役目としていた。ただし活動はそんなに活発ではなく、「廊下は走らない」「遅刻はしない」などの主要テーマを月ごとに決めて、それにちなんだポスターを作成して貼ったりするぐらいであった。他の仕事といえば、遅刻取り締まり週間に正門に出て、遅刻者をチェックするくらいだろうか。とにかくそう大した仕事はなく、最初の一年は何事もなく過ぎた。

そして高校2年の10月頃、3年生が引退して、選挙で次期生徒会執行部を決めるという時期に、僕は生活委員長として立候補することになった。そうなったのは、ほとんど成り行きといってもいい。断りきれない状況があったし、断る勇気が僕にはなかった。また僕自身も、そんなにその仕事がいやという訳ではなかった。

かくして高校3年の時、僕は生活委員長という役目も負うことになったのだが、仕事内容はさほど以前と変わらなかった。少し貼るポスターの種類を増やした程度だろうか。そして残す主要行事は生徒総会のみという時に、それは起こった。

生徒総会というのは、基本的には生徒会側が学校の生徒会活動についての様々な案を作り、それを事前に各クラスにおろして審議をしてもらい、そこで出た意見をもとにして、最終的な案を生徒総会で発表して、質疑応答を経て議決を行うという形式になっていた。そして事前審議を経た後クラスから返ってきた質問の中に、校則についての質問があったのだ。

「何故学校にジーンズを履いてきてはいけないのですか。」

事前審議で上がったからには、生徒総会でその質問に答えなくてはならない。そしてその質問に答えるのは、生活委員長であった僕であった。

僕はその質問に因縁めいたものを感じた。奇しくも中学3年の時に僕が苦しんだ質問と、同じ内容の質問がそこにはあったのだ。

当時うちの高校は、市内では珍しく私服での登校が校則で許可されていた。といってもほとんど全ての学生は制服で登校していた。これは先生が制服での登校を強く求めていたなどの理由があるが、ここでは深くは追求しないでおく。ただしたまにある遠足や登山などでは皆私服で来ても良いことになっており、ここでようやく校則が適用されていた。

ただしその校則も、私服なら何でも良いというわけではなく、あくまで「高校生らしい服装」という規定があった。そして当時の風習では、ジーンズは「高校生らしい」とは判断されていなかった。このような背景を受けて、上記のような質問が飛び出してきたのだ。

この質問に対して僕が用意した答えは、確かこのようなものだった気がする。

1.ジーンズが高校生らしいのか高校生らしくないのかを判断する絶対的な基準はない。

2.けれども現在この高校では、ジーンズは「高校生らしくない」と判断されている。

3.この現行の慣習や制度を変えるには、学生間だけでなく先生方との話し合いも含めたそれ相応の努力が、生徒会だけでなく全学生にも必要となってくるだろう。

今思うと答えになっていないようにも思えるが、とにかくこのような趣旨で僕は生徒総会で答えた覚えがある。つまりは深く考えるなら先生達との対立も起こりかねない。その覚悟はあるか。というようなことを答えたのだ。その背景には面倒事はごめんという気持ちが強くあり、そしてその気持ちは生徒会の中にもあったと思う。何せ3年生にとってはこの生徒総会を乗り切ればお役ごめんな訳だから、なるべく面倒事は抱えたくなかったのだ。

もともとうちの高校は、部活動は盛んだったものの、生徒会はそれほど盛んではなかった。生徒会を考える余裕がなかったという方が正しいかもしれない。進学校であったので、日々の授業の予習や復習、宿題が数多く出され、学生はその対応に手一杯だった。地方の公立校というのは、都内の高校とはまるで違い、周辺に塾や予備校も全くないので、進学に関する世話は全て学校で行っていた。先生は予備校の講師並に様々な受験対策を用意してはそれを学生達に教えていた。そのため普段の授業以外にも、毎週日曜やあるいは朝の8時から補習が開かれ、多くの学生がそれに参加していた。

そんな状況下、生徒会に対する興味は薄かった。そして僕もその一人であった。生活委員長という役柄、多少他の学生よりは生徒会活動に関わっていたが、それでも中学ほどの情熱を傾けてはいなかった。また中学の時の傷跡が、より生徒会から興味を遠ざけていた。

そのような状況だから、校則についての運動は起こるはずがないと、悪く言えば目論んでいた。そしてまた、生徒会執行部だけが積極的に動くというのも、それはそれでいやだった。選挙で選ばれた以上、いや何て言えないのかもしれないが、しかし要求だけ行って後は執行部に任せたというのは、何かとてもしゃくだった。だから逆に、一緒に運動をしようというようなことを呼びかけたのだ。思えば何とも意地の悪い答えだったのだなと、今になって思う。

ともあれこのような返答をした時、会場から一つの質問が寄せられた。その質問の内容を僕ははっきり覚えていなく、また僕宛の質問でもなかったのだが、確か「執行部は何故動かないのか」とか「何故その議論を今ここでしないのか」といった内容だったと思う。

これに対して副会長が答えたことは、確か昨年の生徒総会でも同様の質問が起こり、その後執行部でこの問題に対し議論の場を設けるので積極的に参加して欲しいと呼びかけたところ、誰も参加しなかったということだったと思う。それに対してまた質問があったので、僕はつい感情的になり、あろうことか副会長を遮って質問に答えてしまった。

これについては後から多くの人に責められ、僕自身も反省している。議長を無視して勝手に質問に答え議場を混乱させてしまい、結局中学校の時と同じ過ちを犯してしまったことになる。いけないことだったのだが、僕はともかくその質問に、最初の答えを少しくどくした感じで答えた覚えがある。僕の答えに対し質問者はまだ何か言おうとしたが、3年生の方からもうやめろといったヤジが上がり、結局その質問はそれで終わりになった。

その後もいくつか質問が飛び交ったが、僕が答えることはもうなかった。そして質疑応答もようやく終わり、最後に議長が、「生徒会案を承認する方は拍手をしてください」と拍手承認を求めた。

しかしそこでまた問題が生じた。拍手がぱらぱらとしか起こらなかったのである。おそらくは先ほどのやりとりが影響したのだろう。どうする?また質疑応答かと思ったその時、議長が一言こういった。「過半数の賛成により無事承認されました。」これに対して当然抗議の声はあったが、ともかくこれで生徒総会は終了するに至った。

高校最後の生徒総会は、何とも後味の悪い結果となってしまった。3年生の旧執行部は引退するからそれでいい。けれど2年生の新執行部はどうだ。結局彼らに重い仕事を残してしまったじゃないか。そういう思いが執行部内にはあった。そしてまたこの一連の事件に関して、もっと深く考えてみたいという思いもあった。僕らは生徒総会でいくつかの失敗をした。ならばどうすれば良かったのだろうか。そして生徒総会は、生徒会はどうあるべきなのだろう。そんなことを考えてみたくなったのだ。

そうして旧執行部の何人かで、「提言の会」なる会を作り、そういった問題を考え、そしてその考えを全校生徒に提案していくこととした。基本的には大判用紙2枚くらいに「提言」をまとめ、それを昇降口に掲示した。近くにご意見箱もおいて感想も求めた。そこに寄せられた感想も、本人の許可が得られれば同様に掲示した。

12月近くから始めたこともあり、受験も近かったためそう多くは発行できなかったが、それでも五回くらいは発行し、最後に結論めいたことを掲示することもできた。その結論は以下のようなものである。

「部活や勉学に忙しい学生にとって、恒に「生徒会」に関心をもってもらうのは難しいだろう。それならばせめて年に1度か2度くらいだけでも、「生徒会」に関心をもってもらえるようにはできないか。今の制度である「生徒総会」をもっと活用して、生徒総会がある時期ぐらいは学校中が「生徒会」に興味を持つように、生徒総会を盛り上げて行くべきではないのか。」

この提言がその後山形東校でどうなったかは定かではないが、しかし高校の最後に行ったこの提言により、僕は再び生徒会への、いや自治への関心を持つに至った。それは中学の時に止まった時間が、再び動き出したかのようであった。

中学と高校の時に負った心の傷は、まだ完全には癒えていない。今でもあの時の生徒総会は、できれば考えたくないと思っている。けれども僕は少なくとも、自治というものに真っ正面から取り組む勇気を得たような気がする。「提言の会」の活動を高校の最後に行えたことは、僕にとって一番の救いであったのだ。

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