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小説『SAUDADE #3』ブラジルで刻まれた記憶

 リカたちのボサノヴァのライブ演奏がはじまる。
 砂浜を歩く足音のようなドラムの音。続いてギターがリズムを奏ではじめる。
 店中にいる人たちの視線が、ボーカルのリカへ注がれる。
 リカは、下を向き、瞳をつむり、ネックレスのロケットにキスをした。長いまつ毛の奥の目に光がともり、口がひらく。

E quen que as notas (ぜんぶの音が欲しくても)
Re mi fa so ra si do (レ ミ ファ ソ ラ シ ド)
Fica sem nenhuma (なにも残らない)
Fique nunca nota so (ひとつの音にこだわるの)

 曲は「One note samba(ワンノートサンバ)」。
 軽やかで風のようなウィスパーヴォイスのリカの歌。
 客席のブラジル在住日本人タツオがいつも現地で耳にしていた音楽は、ほとんどがサンバだった。が、リカが歌う切ないブラジルのリズムは、皆の心に灯りを燈すように染みわたるものがあった。
 ブラジルの海岸。夕暮れ時の水面、金箔が風に揺れるようにきらめいている。打ち寄せる波の音、潮の香り、店内の食器の音。『SAUDADE(サウダーデ)』すべてがブラジルそのものだった。
 1曲目がおわり、店内は拍手と、歓声と、店員たちの指笛でいっぱいになった。リカは、恥ずかしそうに肩をすくめ微笑む。ギターはすでに次の演奏を始めている。「IPANEMA(イパネマの娘)」だった。
 小さな頃からママには内緒で聞いていた曲。日本にいるおばあちゃんの妹がリカにプレゼントしてくれたカセットテープに入っていた歌だった。

 その場で録音したブラジルの雑踏とノイズだらけのカセットテープ。
「アントーニオ、頼む! 」
「オーケイ」
 と、いう声を合図に、ギターの演奏が始まる。皆の感嘆の声の向こうに男の人の歌がはじまる。やさしく語りかけるような歌声。小さなリカの心へ水が湧き上がるような感じだった。曲は、「Agua de bebe(アグアジベベ)」だった。
 何曲か生演奏の歌が続いたあと、女のひとの声がはいる。
「リカが起きちゃった、パパイ『IPANEMA(イパネマの娘)』歌って」
 ママの声だった。
「わかった。リカ、マリア、愛してる」
 ふたたび歌がはじまる。赤ん坊の声が聞こえる。
「リカが歌ってるわよ、将来歌手になる? 」
「ノー、シルヴィア、わからないわよ」
 ママの声が大きくなった。
「マリア、こんなにいい環境で育っているのよ。小さい時に与えられたものは、大きくなっても心のどこかに残っていくものなの」
 カセットテープの中の次の曲は、「Tristeza(トリステーザ)」だった。家族や仲間とすごしている至福の時間のタイムカプセル。ママには秘密のリサの宝物になった。
 リカが歌うとき、そこには顔の知らないパパがいつも一緒にいてくれるのだった。
 昔、ママに聞いたことがあった。
「わたしのパパは、今どこにいるの?」
「あなたのパパはね、ブラジルでお酒飲みすぎて酔っぱらって溝にはまって  死んでしまったの」
 リカはそれ以上何も聞かなかった。

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