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はじめての青ヶ島へ(7)(8/17 八丈島・延長戦)

東京行きの船が欠航となり、昨日と同じ宿にもう1泊することになりました。additional timeは前向きに楽しむスタイル。朝の散歩は島の西側の海岸、八重根港付近を。漁港に係留されている船は、台風対応を行ったためかとても厳重にロープで固定されています。このロープ、どうやって張ったんだろう?陸揚げされた船もガッチリ固定されています。船の陸揚げはどうやって?青ヶ島はクレーンだったけど。

八重根漁港の船はロープで厳重に固定
八重根漁港、陸揚げされた漁船たち

岩場の「旧八重根海水浴場」。うらやましい。水が綺麗で水深がありそうなので、一般的な砂浜より格段楽しいだろうと思いますが、溶岩で手足を擦ったらケガしそう。

旧八重根海水浴場

関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家は、1606年、34歳のときに2人の子息とともに八丈島に流されました。正室の豪姫の同行は叶わず、以後八丈島で50年を過ごし84歳で没しています。秀家と豪姫の像を見て、どんなことがあった場合でも人生いかに生きるかと改めて思いました。

宇喜多秀家と豪姫の像

「南原千畳岩」は火山活動のなごりを肌で感じられる場所。ドロドロの状態で押し寄せて海水に急冷されて固まったのがよくわかります。

南原千畳敷、シワが寄った溶岩

八丈小島は、八丈島エリアで私にとって一番気になる場所です。かつては有人島でしたが、1969年3月をもって全島民が離島しました。海岸に「八丈小島忘れじの碑」があります。以下全文引用します。
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八丈小島忘れじの碑
この沖合に望む八丈小島は、1969年3月、過疎化と高齢化により全島民が離島を余儀なくされた。
離島45周年にあたり、数百年に及ぶ旧島民の艱難辛苦を偲んで、「八丈小島忘れじの碑」を建立する。

五十世に暮らしつづけた我が故郷よ
今日を限りの故郷よ
かい無き我は捨て去れど
次の世代に咲かして花を

鈴木文吉(元島打村 村長)詠
2014年11月
八丈小島を偲ぶ有志一同
東京八丈島ライオンズクラブ
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1969年まで有人島だった八丈小島

朝食後は車で出かけます。宿のある大賀郷(おおかごう)地区から島の反対側の末吉地区に行くには、一般的には島の南西部の(走りやすい)道路を通っていきますが、今回まだ「八丈一周道路」を踏破していないので、島の東側からアクセスすることにしました。三原山東部の麓を回る「登龍(のぼりょう)道路」はヘアピンカーブやアップダウンが続き、走るのに苦労する道路です。三原山は3,700年前頃まで活動していた火山で、約420年前まで活動していた八丈富士よりはるかに古い地形のため、浸食が進みました。このため、地形に沿って道路を作ろうとするとギザギザのルートになってしまうわけです。島南部の東側、三根地区から末吉地区までのこのルートは集落がないので、現在の形状のままなのだと思います。
ただ、途中に八丈島随一の絶景ポイント「登龍(のぼりょう)峠展望台」があります。ここを見ずには帰れません。

登龍峠展望台から八丈富士方面を望む

末吉温泉「みはらしの湯」の露天風呂は、その名の通り眺望が素晴らしい。山梨県の「ほったらかし温泉」を思い出しました。あちらは山の上から盆地を望む。こちらは山の上から海を望む。もちろんどちらも最高の湯です。

風呂にスマホを持ち込めないので、休憩所からの眺め

そして昼は、3日連続でラーメンの名店「蓮華(れんげ)」へ。1日目は名物「辛タンメン」、2日目は「辛醤麺」、今日は「辛しお焼きそば」にしました。ぜひ23区内にもお店を出してほしいなあ。

「蓮華」の「辛しお焼きそば 島唐辛子トッピング」

登龍峠で見た八丈富士は雲をかぶっていたなあと思い、雲の山腹はどういう眺めだろうと確かめるために、再度「ふれあい牧場」へ向かいました。駐車場から島の中心部方面を見ましたが、視界10m以下です。運転していて怖いほどだったので、即下山しました。

八丈富士中腹「ふれあい牧場」から島中心部を望む

観光は半日くらいがちょうどいいです。13時には宿に戻りました。あとは部屋で半日ゆっくり過ごします。   (つづく)

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