見出し画像

【横須賀DTP演習録】答える力より問う力

弊コースの4年生は前期に横須賀ダウンタウンプラン(DTP)演習を行う。2か月弱の期間で京急線横須賀中央駅周辺の中心市街地のプランニングおよび設計を行うものだ。横須賀市は海軍の拠点として20世紀初頭に急速に発展し、戦後も東京大都市圏のベッドタウンとして団地開発が行われてきたものの、1990年代以降急速な人口減少に直面している。その中で中心市街地では2015年に吉田市政のもと容積率制限の緩和が行われ、マンション開発が加速している一方で、商業機能の低下や再開発プロジェクト間の連携不足といった課題を抱えており、魅力的な都市空間を作れていない。本演習では、そういった課題を踏まえたうえで、技術革新や価値観の転換による都市空間のありようの変化を念頭に入れつつ、質の高い空間づくりを要求されている。

さて、安宅和人氏が文部科学省「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」の第3回にて発表した資料『これからの人材育成を考える』にはこんな一説がある。

決まった答えがあるケースにおいて、与えられた問いに早く正確な答えを出 すことの価値は急激に⼩さくなる、、答える⼒よりも問う⼒、健全な懐疑⼼

安宅和人『これからの人材育成を考える』
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/184/siryo/mext_00002.html

「答える力より問う力」
ここ最近のASIBAでの活動を経て、この言葉ほど自分にヒットするものはなかった。いかにクリティカルな問いを持ち、仮説検証し続けられるか。健全な猜疑心を持てるか。正解を追い求めるのではなく、ただ間違いを探すのでもない。未来の正解を生み出す問いを立てるのだ。

当然、本演習課題に対しても問いを持った。「現代のプランナーは技術屋さんでよいのだろうか?」と。この演習課題の目的は、心地よい都市空間を作るために連綿と受け継がれてきた計画・設計技術を身に着けることにある。都市スケールで街並みを理解し(認識力)、データを用いて課題を分析し(分析力)、都市のビジョンを掲げ(構想力)、ハード・ソフト両面の設計に落とし込む(創造力)。高度経済成長期以降の都市空間の多くがこのように形作られてきたことは、まぎれもない事実だ。

しかし、現代におけるプランナーの職能は、本当にその技術によって定義づけられるものなのだろうか。そもそも日本にプランナーなどいない、というギャグは置いておいて(実際には都市計画系のコンサルがそれにあたるだろうか)、日本においてプランナーやスターアーキテクトによって巨大公共建築・巨大インフラが建てられてきた時代はとうの昔に終わっている。そして、「ステークホルダーと価値観の多様化」「都市における行政のプレゼンス低下」「空き家の増加とリノベーションまちづくりの潮流」など、より複雑な課題に直面している。

そんな中で、あえて現代的なプランナーに求められる資質を定義するならば、それは技術を持ったうえで多様なステークホルダーを調整する能力だと思う。都市には数えきれないほどのアクターがいて、それらが同じ方向を向ける時代は既に終わり、別々の利害を持ってせめぎ合っている。行政セクターはもはや都市開発の主体にはなれず、ただ民間事業者や地権者間を駆け回ることしかできない。そして、ただ作ればよい時代から、今あるリソースをどう有効活用するのかという時代になり、よりきめ細やかな合意形成が必要とされている。誰かがアクター間の課題を整理し、スキームをデザインし、合意形成することでしか、都市の更新がなされない。良い街とか良い景観がどんなものかはわかっても、実際に「建たせる」には全く別の資質が必要だと、誰もが知っているはずだ。

とらえどころのない都市計画教育を受けながら、ずっと「自分の専門性って何だろう」と思ってきた。個人的には専門性なんてないと思うけれど、敢えて考えてみるならば、①都市とは複雑な空間で、みんなにとっての正解なんてない、単なる政治だってわかっていること。②都市に誰が関わっていてどんなことを思っているのか解像度高く知っていること。③耳が傾けられていない声をちゃんと見つけて代表させられること。これらに加えて都市を計画・設計する「技術」を持っているからこそ、数多くのアクターの間に立って利害を調整したスキームをデザインすることができるのではないだろうか。「調整力」こそ現代のプランナーに求められる最も重要な職能だと僕は考える。

この調整力への関心はある程度学科の同期の中でも共有されている問題意識だと思っている。3年の後期に行われた横須賀市のマスタープランを策定する演習(マスタープラン演習)では、市域全体としてのビジョンや機能配置が主要な課題だった中で、5班中4班が非常にラディカルな市民参加のあり方を提案していた。先述のような時代的背景に伴い、多くの学生が現状の市民参加は不十分で、市民がより深く都市に関わるべきだと考えていることがうかがえる。

DTP演習では、横須賀市役所の都市局の皆様へのヒアリングは実施されるものの、行政以外の各ステークホルダーを解像度を上げる機会はない。特に市民の方の意見を聞く機会が全くない。そこに住む人の話を全く聞かずに「これがより良い街の姿です」と提案することの滑稽さに、僕は耐えられない。都市計画は他の誰でもなく市民のためにあるもので、もちろん専門技術を持った建築家・プランナーにしかできないことはあるけれど、まずは市民の皆様が自分の暮らす街をどうしていきたいのかが根底にあって、行政も建築家やプランナーもそれを実現する手助けをする立場にあるはずだ。シムシティじゃあるまいし。

成果物に関しても、市役所の皆様もお忙しいため、基本的に学科の先生方からフィードバックをいただくことになる。当然先生方は様々な自治体で計画立案を担当されており、知識も経験も豊富だが、本当に先生方だけでよいのだろうか。私達の提案が市民の皆様に向けてのもの(現実的には地権者へのメッセージが大半になってしまうが)だとすれば、その方々からもフィードバックをもらうべきではないのか。大学の中に閉じても意味はなくて、そこに住む人しか持っていない答えがあるのではないか。もっと言えば、提案した内容を横須賀市役所なり関連する事業会社でインターンして実現させる、くらいのアウトプットがあってよいのではないかとも思う。

そういった考えのもと、横須賀市役所でのヒアリングが行われた際に、市役所の方に、1か月後を目安に住民の皆様の意見を聞けるタイミングを作れないか、という相談をさせていただいた。お忙しい中でも提案を快諾していただき、中心市街地のキープレイヤーの方々をお呼びできないか、という話になったので、とても楽しみな気持ちになっていた。今後のやり取りは自分ではなく市役所と先生方との間で進めるとのことだった。

しかし2日後、より具体的な検討を経て、そのような機会を作ることはできないという話を演習担当の先生方からされた。僕自身が横須賀の飲み屋で飲みニケーションするのはOKだが、他の学生を巻き込んで「会」にする場合は許可できないとのこと。端的に言えば、大学の名前を使うことになると責任が取れないということで、まあその通りだろうと思うが、学生が学びを深めようと行動するのを見守ってさえくれないことにショックを覚えている。

ここで先生方を批判することに意味はないし、市民の皆様へのヒアリング自体はいくらでもやりようがあると思っている。この記事の本旨は別のところにあって、それは「現実は思ったより厳しく、私達はそれを乗り越えていかないといけない」ということだ。

前提として、演習課題はそもそも現実と乖離している部分が大きいと感じる。今回は中心市街地ビジョンを作り、粗い設計レベルまで落とし込むことが求められていて、デベロッパーが自社のエリアでまちづくりするイメージが近い。しかし本当に行政が中心市街地のビジョンを作るなら、地権者や事業者間でのすり合わせが必要になり、合意が得られて詳細まで示せるエリアはごくわずかだろう。そもそも横須賀市は地権者組合や民間事業者の動きをサポートすることしかしていないから、プランを作ったところでその通りに動くとは限らない。散発的な都市更新の動きと行政のちょっとした介入でしか街は変わらないなら、スペキュラティブに市街地のあるべき姿を描くことにどれだけの意味があるのだろうか。もちろん計画・設計技術として大事なのはわかっているが、本当にこれからの時代に合った課題なのだろうか。(もし僕の単なる不勉強で本当は現実と近いシチュエーションなのであれば、申し訳ないです)

「市民の意見を聞く機会が必要ではないか」という僕の意見に対して、先生方は「別に市民の意見を聞く機会がなくてもアウトプットは出せる」とおっしゃった。今回の課題を「行政から中心市街地ビジョン策定を依頼された都市計画コンサル」のロールプレイとして捉えると、現実のコンサルの実務でも市民から直接意見を聞いているときりがなく、役所の都市局職員からのヒアリングを通じて間接的に市民のニーズを把握しつつ、地図上での分析とデータをベースに提案を考えているので、演習とやっていることは同じらしい。アメリカの一部の計画策定のように何千人・何万人単位で動員できるのならば「市民の意見を聞いた」と言えるが、日本で中途半端に市民の意見を聞いても代表性が確保できないし、何より仕事が回らなくなる。かと言って、市役所の方が住民の意見や市街地の現状を知っているかと言えば、ほとんど何も把握していないということも、横須賀市役所でのヒアリングを通じて分かった。演習でも実務でも市民の声なんてなかったんだ。

市民参加なんて本当に掛け声だけで、実際は学識者・市職員・地域団体の代表者で構成される委員会だけで議論が完結して、他の人は小難しい資料を読んでおいてね、で終わってしまう。再開発担当の部署は、再開発案件があるエリアの地権者の意向は知っているが、都市計画課とは部署が違う。市役所や先生方にとっての「市民」はひたすらに地権者や街のキープレイヤーだけであって、ただそこに住んでいるような人はステークホルダーとしてカウントすらされていない。そこに住む人たちが何を思っているのか、誰も何も知らないまま、その人たちにとって大切なことが決められている。これが日本の都市の現実なんだ。市民の意見なんていちいち聞いてたら仕事が終わんねえんだ。それをずっとやり続けてきたのが僕のいる都市工学科なんだ。

これが紛れもない現実で、「都市計画とは市民のためのものだ」なんて戯言は若者の痛くてナイーブな発言でしかない。現実の都市計画は、地権者と有力者の意見をベースに工学っぽいフリをしながら良い街っぽく見える計画を作るだけで、強力で有効な規制・誘導・事業ができない限り、あとは資本の原理でなるようにしかならない。その計画で誰にとって良い街ができるかなんて(作る側は)誰も考えちゃいない。そういうもんだし、そうしないとうまくいかない、回らない。

しかし僕は、現在の都市計画を担っている先生方の考え方と、私達が捉える都市の課題・私達の時代の都市計画のあり方が異なるのは当たり前のはずだし、私達学生は10年後・20年後の都市計画を見据えた思考をしないといけないと思っている。そして、その思考を研ぎ澄ませ、どん欲に実践し続けることでしか、目のくらむような現実を少しずつでも改善していくことなどできないと信じている。まずは横須賀だ。正直あんなことを言われて、演習をやるモチベーションなんて消し飛んでしまったのだが、啖呵を切ったなら実現しないわけにはいかない。技術を習得するためのおままごとモチベはないが、自分の信じる道を切り開くモチベーションはある。答える力より問う力だ。問い続けよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?