見出し画像

25歳の自叙伝を30歳の自分がチャチャいれる 幼少期編

堀江貴文氏の『我が闘争』に感化されたので自叙伝書こうかと。

最近、ホリエモンこと堀江貴文の自叙伝『我が闘争』を読んでいる。この本は、堀江貴文の幼少期の記憶から現在にいたるまでのすべてを書き起こしたものだ。

なぜ、そもそも『我が闘争』を読もうと思ったかというと、新R25に投稿されている『ホリエモンにお金について突っ込んだけど、何を聞いても価値観はひとつだった』という記事がきっかけとなる。

この記事は、会社帰りの通勤時間にひま潰しにTwitterを眺めていたら、ふと興味を惹かれたタイトルだったので、かるい気持ちで読み始めたものだった。読み始める前は「何を聞いても価値観はひとつか。その価値観ってなんだろう」というのが気になっていた。新R25にしてやられた。

面白いかどうかだけを一貫して重視する価値観を自分と照らし合わせた。

読んでみてわかったのは、堀江貴文は「お金に興味がない」「価値観としては、面白ければそれでいい」「面白い=こういうサービス、会社があったらいい」という自分の価値観的に面白いかどうかという判断基準を大事にしていることであった。

世間一般的には、ホリエモンと言えばライブドア事件を連想し、とくに詳細は知らないが、なぜだか1億円ぐらいは持っているだろうというお金持ちのイメージがある。だが、実際は「ただ自分が面白いと思えるものをもとめている人」そんな印象を受けた。実際、そんなにお金持ちでもないらしい。

私は最近「幼少期から学生時代の自分は素直に面白いと思えること/自分が望むことを重視していたのに、今はなぜふつうの社会人をやっているんだろう」というギャップ、ズレのようなものを感じることが多かった。だからこそ、この堀江貴文氏の面白ければそれでいいという一貫した想いが刺さった。正直自分は一貫できていなかったので、少し心が痛かった。

(だいじょうぶ、5年後の30歳になったが、一貫できてない。)

そこで、私は考えた。自分の過去から、自分をもっと深いレベルで理解しよう。これからどうするか真剣に考えよう。25歳にして自己分析しなおそうと。まぁそんなに気張ってはいないけれど、のんびり楽しく考えようと。

(いいぞ)

世界の最前線で面白いをもとめている彼らにとっての面白さとは何か?私にとっての面白さとは何か?

そんなわけで、堀江貴文にとっての「面白さの基準」と、そのために「今までなにをしてきたのか」が気になってしょうがなかった。それに適した本が『我が闘争』である。現在前半の20%ぐらいまでしか読んでいないが、読んでいたら、感化されてしまって、自分を振り返る意味で、自叙伝を書きだしてしまっているというのが、本記事の経緯である。(自叙伝を書くことで、自分の行動理念、価値観をあぶりだしてやろうという狙いがある)

(いまもそうだが、本を読みきれない。やっぱり読めてないな!)

ほかにも堀江貴文だけではなく、面白いことがすきなのではないか?と思う人にあたりをつけて、本を買っている。世の中の経営者や偉人の自叙伝(なるべく存命の人)を漁っている最中だ。

たとえば、Amazon創業者のジェフベゾス氏について書かれている『ジェフベゾス 果てなき野望』、テスラモーターズ創業者のイーロン・マスク氏についてわかる『イーロン・マスク 未来を作る男』を買ってみて、交互に読み進めたりしている。これらの共通点は『面白いことに夢中になった結果、未来志向で前進しまくっている人』であり、彼らの「面白いの基準」、その面白いに「どうやって近づいていくか」を知りたかったからである。

無名な25歳男性の自叙伝って需要あるのでは?

さて、前置きがながくなってしまったが、私は「無名な25歳男性の自叙伝には、結構価値があるのではないか?」と考えたので、この記事を書いている。

(すまない、書き終わってから需要がないな!とおもいなおして、そこから5年下書きのままだった、気まぐれで投稿してしまいます。ほんとうにすまない。)

最近どうだろう。SEOに強いコンテンツ品質の高い記事。検索ニーズをとらえた記事。PVがとれる記事。こういった読み物が、ネットに溢れている。たしかに役に立つが、その結果「個人の価値観や人生観」が読み取れるような、日記的な、エッセイ的な、コラム的な深く考えさせられる記事を見る機会が減ったと思う。

(最近のnoteはすげーふえてるよ)

それを補うかのように、世間的な成功者だったり、今をトキメク人を題材として、インタビュー記事や『我が闘争』のような自叙伝が、世に出回っているのだとおもう。実際、参考になるし、読み物としても面白い。

だが、どうだろう。彼らも、もともと無名だったとはいえ、現在は有名であり、そんな彼らに共感をおぼえたりすることはあっても、現実的に「堀江貴文も、もともとは無名の子供だったんだから、俺も頑張ろう」とはなりにくいのではないかとおもう。それよりかは「現在は無名だけど、なんか頑張ってるっぽい人の自叙伝」のほうが、身近で理解しやすいのではないだろうか。例えば、私は普通の会社員なので、経営者から学ぶより、会社員としてどう動くのかのほうが、そのまま活かしやすいこともあるだろう。

まぁそういった、役に立つんじゃないかなぁといった、浅はかな考えに加えて、私にとってメリットとして「自分の価値基準・行動原理を理解できるんじゃないか」「今後、自己紹介とかをするときに、自分の今までが整理されていると、実は便利なんじゃないか」というのがある。記事を書きだす理由なんて、こんなもので、たいした理由なんかないのだ。

まずは基本情報的なやつ

ここまでの話は「なんでこんなやつの自叙伝を読まなきゃならんのだ」「なんで自叙伝なんて書いてるの、何者でもないのに。草」というご意見・ご感想にたいして、事前になるべく腹に落ちる説明がしたいなぁということで、長ったらしく書いた。

さて、スペックぐらいは簡潔に書きたい。が、私のこれから書く話を、より解像度高くイメージしてもらったほうが、理解しやすいと思うので、わりと細かくかきますね。

私は神奈川県で家賃7万円くらいの賃貸マンションに住み、東京都にあるIT業界の企業で働く、25歳男性会社勤務のサラリーマンである。

2018年に結婚したので既婚者であり、社会人3年目で部長代行という役職がついたりしたので年収は500万円以上くらい。在籍している会社は従業員300人以上なので大企業。共働きなので、世帯年収で700~800万くらい。

(今思うと部長代行で500万円はすくないな。そこからはだいぶ出世しました。今は東京に住んでるよ、世帯年収は嬉しいことに倍以上になったよ)

平日は朝7時半に起きて、1時間くらいかけて通勤し、10時から19時まで働く。休日はアニメ・マンガ・ゲーム・海外ドラマや読書、ネットに興じることが多いので、いわゆるインドア派である。だけど散歩だったり、ゆっくり湯船につかったり、たまに旅行に行ったり、ジムで汗を流したくなる時もあるといった、そんな感じだ。

この記事が役立つんじゃないかと思っていること

さて、ここからの自叙伝では、ついに私の過去について触れていくのだが、まぁやはり一般人の自叙伝なんか読む意味あるの?となるだろう。

なので、誰にどんなメリットがあって読むのか?それをある程度はあきらかにしておきたい。多すぎても少なすぎてもアレなので、3つくらい書いておく。

1つ目「年収500万円くらいまで、若くしていく人」の価値基準だったり思考がわかること。大企業で部長クラスというと、だいたい平均年齢としては、若くても30~40代だったり、製造業なんかだと50代でなるのが、どうやら普通らしい。それに対して、IT・通信業は若い傾向があるにせよ、25歳はまぁまぁはやいだろうから、なにかしら得られるものはあるのではないかと思う。

2つ目。

(2つ目はつまらなかったので30歳の未来の自分が独断の偏見でカットしました)

3つ目。一般人で特に飛躍的な成功もしていない、ただの会社員の事例がわかること。世の中には成功者の自叙伝が蔓延しすぎていて、ふつーなひとの事例がすくない。だからこそ、身近だけどそこそこうまくいっている人の事例は参考になるんじゃないかなと思う。

自叙伝の目的

下記を明らかにしたい。

・私が重視してきた「価値基準」と「面白さの基準」だ。価値基準は、何に価値を感じて、何を大切にしてきて、それによってどう行動してきたかということだ。面白さの基準は、何を面白いと感じるか、逆につまらないと感じるかである。

・「強み」と「弱み」。私は何が得意で、それを活かしてきたのか。あるいは何が不得意で、他人に劣っているのかである。

・「機会」と「脅威」についても知りたい。どんなことを機会ととらえて、チャレンジしてきたのか。何が怖くて、嫌いで、避けてきたのかということだ。

ということで、やっと自叙伝を書き始めようと思う。

(ながい)

自分が楽しむより、楽しんでいる人を眺めているだけの幼少期

私はどういう人間なのだろうか。幼少期を思い返す。

幼稚園に入学した4歳頃の記憶からしっかりと思い出せる。クラスにはだいたい20人ぐらいの男女のこどもたちが集められていて、絵本だったり、お絵かきセットであったり、粘土だったり、レゴブロックの知育玩具が用意されていたのを覚えている。

クラスの男の子の間では、レゴブロックが人気で、せいぜい2~3人しか同時に遊べる量ではなくて、幼稚園といえども、すでにスクールカーストのようなものがあり、発言や力がつよい子が、そのブロックを毎日のように使って遊んでいたのを思い出す。

私もブロックはそれなりに好きだったのだが、とくに羨ましいとも思わず、ただそれを眺めているような子供だった。なぜ、それほどまでにみんながブロックに執着するのかが理解できずに「他のおもちゃで遊べばいいや」と考える子供だった。

ここから読み取るに、私は「争いごとがあまり好きではない」のかなと感じる。いまでも争いを好まないし、戦略が好きなのも「なるべく戦いたくないから」なのではないかと思う。

あとは、執着できる人、それだけの熱意を持つことができる人を純粋にすごいと感じるのも、この頃からあったのではないかと思う。

今ではとくにクリエイターに尊敬の念をもっているが、私自身は「めんどくさい」ので、作品を作ろうとか、何か自分で作ろうというのはあまりしない。この記事は奇跡的に書けているが、普段は「人に話してみる」以外のアウトプットをあまりしない。これも「めんどくさい」からである。争いもめんどくさいのである。

そういえば、幼稚園には名物とも言える「ジャンボ滑り台」なるものがあり、大人から見ても、デカい滑り台だった。ジャンボでデカいので、滑るとスピードがでる。スピードが出るので、体操着のお尻の部分が高速で擦り減って、破れる。おそらく多くの親御さんを苦労させていたのではないかと思う。

私はこのジャンボ滑り台が好きだった。

ここから読み取るに「めちゃくちゃ面白い」と感じるものに対してはそれなりに熱狂して行動することはできる。あまり体力がないのもあったが、どうせ遊ぶなら、限られた体力で少しでも面白いものだけに時間を使いたいという考えがあったように思える。

今思えば、なんと無意識に戦略的な行動をする子供だろうか。たぶんこれは、最小の体力で最大に楽しむという。めんどくさがりによって成せる技ではないだろうか。

(戦略的といえば聞こえはよいが、ようは引きこもりで体力のない、もやしだ)

あと最後に、幼稚園の記憶では、クラスメイトの顔や性格や、その人がよく取る動きを自然と分析していたように思う。例えばT君は、クラスの中心的な人物で、よく遊び、人気者だ。彼はブロックが好きで、お菓子は何が出されても、うれしそうに食べる。とかである。こんな感じでクラスのみんなのことを、やはり眺めていたようにおもう。これはいまだにそうで、これからもだと思うが、初めて訪れる環境では、最初から行動しない。しばらくは仕組みや構造、役割、性質なんかを分析する時間を取るタイプだ。ある程度理解したら、自分が思った通りなのかどうかテストをする。実際に話しかけてみたりして、検証するのだ。他人から見ればただひたすらぼーーーーーーっとしているこどもに見えていたに違いない。

もう一段深堀して、ではなぜ私は、こんなにぼーーーーーーっと観察するのかというと、両親の影響があるのではないかと思う。私の両親は結構な頻度で喧嘩をしていた。まぁよくある話だと思うが。私はおそらく根っから争いが嫌いなのか、両親の喧嘩をみて嫌いになったのかわからないが、口論していたり、母親がそのあと泣いていることがあったりするのを見て育ったので「母親が泣くということは、争いは楽しいものではないし、よくないものだから、ないほうがいい」と考えたのではないだろうか。

(この前実家に帰ったら、なんか両親が少し仲良くなっていて、よかったなとおもいました)

また、父親は酒癖が悪く、会社から帰って酒を飲むと、昔話を始めて、結構過激なことを言いだす。「お前みたいな無能は俺の子供じゃない」みたいなことは腐るほど言われた。

それがきっかけで両親が口論になるというパターンが多かった。口論になると、人格否定レベルのことをひたすら言いはじめる。母に向けて、私や兄弟に向けて、同じようなやり取りを100回以上は見た。しかも次の日になると、父親は記憶を失っていて忘れているので、また同じことが毎晩繰り返されるのである。

毎夜人格否定をされ続けて、あるいはされているところを見続けて、4歳から18歳くらいの長期間、置かれていたので「その人がどれぐらいのことで怒るのか」「どういうことで泣くのか」といった感情の動きに敏感になっていたのだとおもう。物心ついたころから、親の口論の話や、いわゆる暴言の意味をすべて理解しているわけではないが、文脈のようなものは読み取れていて、寝たふりをしながら安全圏で、話の流れを追っていた。だから、幼稚園でも、まずは安全圏から話しかけず、様子見をするようになったのではないだろうか。

ちなみに両親の悪い面ばかり話してしまっているが、今では落ち着いているし、当時から普通に良き両親であった。私がそこから何を感じ取るかというのはあったが、それはあくまで私の受け取り方の問題なのではないだろうか。

(仕事で対顧客に対して、感情や、場の文脈を瞬間的に読み取る能力として、仕事に生きているよ。あと怒られ慣れすぎて、あらゆる怒りに耐性があるよ)

権威や名誉よりも「自由」と「和やかな時間」を選ぶ小学生時代

小学校低学年でも、幼稚園の延長であまり変わったことはなかった。ずーっと、ぼーっとしている子供であった。まぁぼーっとしているように見えて、活字を読んだり、考え事をするのは得意だったようなので、勉強にはあまり困らなかった。

堀江貴文の『我が闘争』の中にも同じような記述が登場するが、私も教科書を読んだり、家で本を読んだり、物事を考えたりすることが好きだったので、基本的にはテストは100点で、通信簿はだいたい良い評価という、親的には嬉しいだろうが、周りからは疎まれやすそうな子供だった。ので、通信簿見せ合いみたいなのは、見られたくないので隠していた。自慢したいよりも、疎まれたくない。争いたくないのだった。

私はスポーツは得意ではなかったので、体育の時間なんかは嫌いだったし、ドッジボールなんかをするとすぐボールをあてられていた。走れば遅いし、水泳をすれば息継ぎがいまだにできないし、鉄棒は逆上がりもできない。小学校だとスポーツができる子がモテるので、当然のようにモテなかった。

だが考えるのは好きだった。5年生から部活があり、入部体験ということで、色々みてまわっていた。その中で将棋部の体験にいったことを覚えている。将棋のルールについてはその場で6年生から教えてもらい、実際にやってみると面白く、私はすぐに上達し、初戦から教えてくれた6年生に勝ってしまった。「こいつ強いぞ!」ということで、副部長との対戦になり、それも勝ってしまい。最終的には入部体験なのに、部長とたたかって負けるという感じで終わった。その後将棋部に入った。学校内では相手がいなかったので、母の実家でおじいちゃんと将棋を指してはフルボッコにされ、負けていた。

他にも、学校にはいろいろなボードゲーム的なものがあり、私はそれらが好きで、大体何をやっても、いわゆる勝ち筋や相手の思考パターンが読むのが好きだった。

ただ、争うこと、疎まれることは嫌いだったようで、途中からはあえて負けたり手を抜く接待プレイを覚えていた。純粋に遊びとして面白いからやっているが、友達が負け続けると機嫌が悪くなるのが分かっていたので、手を抜くというのを覚えたのはこの頃だ。

5年生のとき、地域との交流ということで、近くで行われる祭りへの催しや、稲作を手伝うことになった。だれもやりたがらなかったから、委員をやった。大凧をつくってあげる大凧委員、稲作で餅米を作ってみんなの親に売ったりする稲作委員。なぜかどっちも人気なかったので、先生がかわいそうだとおもい、どちらもやってみた。

地域の祭りには大凧をあげる文化があった。なのでクラスで大凧を作った。先生たちが用意した和紙にイラストを描いて、それを竹と麻紐で編んだ大凧の骨組みにくくりつけて、1メートル以上の高さのある凧をつくり、祭りであげるという感じだ。竹と竹の結び方だったりを覚えて、それを同級生に教えて、作業してもらっている間に、他の生徒に教えるなんてことが、わりと楽しかった。先生と生徒の間にはさまれるのは、普通はいやなんだろうが、こういうことにやりがいを感じるタイプの生徒だった。大人の今でも、いわゆる根回しとか交渉とか、そういうコミュニケーションが得意なのは、このあたりからきているのかもしれない。あまりこういうことが苦じゃなかった。

稲作行事は私にとっては思い出深い。この小学校では、生徒は1つの委員会に属して、みんな何か1個はやろうという感じだった。風紀委員、黒板消し委員、図書委員だったりだ。みんなはラクな黒板消し委員が人気だったが、私はいままでに学校で行われたことがなかった凧あげや稲作を新しく始めるということに関心があったのと、先生が誰もやらなくて困っていたので、やってみた。当時から新しいことをするのにそれほど抵抗がなかった。今では新規事業立ち上げとかに興味があるのはこの頃からか。

稲作行事では、学校の近くで農業をしている方と協力して、もち米をつくった。田んぼを耕すところから、田植え、収穫、脱穀までして、最終的には地域の人や生徒の親たちに販売までするという、わりかし壮大で本格的な企画だった。最後の販売部分の準備がとくに大変だったのだが、通常のもち米は1キロで1000円くらいで販売することになった。今思っても、割と単価が高いし、100キロぐらいは収穫できていたので、かなりの金額になるよなぁと感じていた。当日までに、ちゃんと売り切れるように、学生たちでイラストを描いてもち米の紙袋に印刷したり、もち米でできるレシピをつけたり、地域の人に事前にチラシ配りしたりなんかして、わりとしっかりプロモーションしていた。

イラストは自分よりも絵が上手い友達が書いて、レシピは料理が得意な子が書いてと、子供ながらに役割分担していた。こういうのが私は好きで、得意なところで協力しようという思考が根底にある。私はそれを全体として見たときに、イイ感じになっていて、売れそうか?というのを考えていて、売れそうだと思っていた。みんなすげー頑張るなーと。賞賛していた。

(当時から、他人のすげーところは称賛して、得意な奴が得意なことをやればいいよね。という発想は今も残っている)

結果、当日はもち米は大量にあったのに1キロ1000円で完売した。もち米入りの俵も作っていて、1個5000円で5個ぐらい売れた。これが私の「作ったものを売ってお金を稼ぐことはできるんだ」という原体験だったと思う。

そんなことがあり、委員会掛け持ちで頑張っていたからか、6年生にあがるまえに、担任の先生から「生徒会長にならないか」という推薦を受けた。だが、私はその当時「生きもの係」をしていて、鶏小屋のニワトリや、チャボなんかに、給食で余ったパンをあげる時間が好きだった。ぼーっと餌をあげて眺めているのが好きだった。だからその申し出は『生徒会長になると昼休みがなくなります。昼休みが無くなるとチャボに餌をあげれなくなります。なのでやりません』とその場で断った。

今でも動物に餌をあげたり、動物園が好きだったりするけれど、それはこの頃からだった。おそらく家に帰ると喧嘩と人格否定の毎日だったので、癒しが欲しかったんだとおもう。動物は喋らないし、のんびりしてるからよい。

当時から自分の好きなことに費やす時間を優先し、特に権威とか名誉とか偉くなりたいみたいなものはかけらもなかった。単純に忙しいのも嫌いだった。

最後に今後の私の話をするうえで、かかせないものがある。友達の家に通い詰めていた時期がある。彼の家には当時珍しいパソコンが3台もあった。サービス開始直後の「メイプルストーリー」という今でも提供されているネクソン社のオンラインMMORPGゲームをプレイしていた。いわゆる多人数参加可能なオンラインゲームで、一緒に敵を倒してレベルを上げて、チャットなんかをしたりするゲームだ。私はこれに衝撃的なまでに感動して完全にハマった。「こんなに面白いものがあるのか!」と思った。

(人生の半分はここから狂いました。)

それからは、その友人宅にみんなで集まり、3か所別の部屋に設置されているパソコンで3人でオンラインゲームをするという日々を過ごした。学校が終わったらすぐ集合して、放課後はオンラインゲームである。

小学生時代までをまとめると、いろいろ経験から学び「勝つことよりも楽しむこと」そのためには「あえて負ける」こともする。権威とか名誉とか、偉くなりたいよりも「好きな時間を自由に過ごせること」を重視する生き方をしていた。争い好まず、というのも一貫していた。また、新しいこと・未知なことが好きなのもわかる。「新しい行事」であったり「オンラインゲーム」という未知なものだ。

最後に、印象深く残っているものに、こんなものがある「あなたのポリシーや大事にしていることを教えてください」という授業だ。私は当時書いた4文字をハッキリ覚えている。「のんびり」である。非常にぼーっとしていて、時間感覚がゆっくりしている子供だったように思う。

(自叙伝はここで終わっている…。最後まで書けよ!。ということで、5年経ったが、そのうち中学時代編以降を書いてみたいと思う)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?