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「優しいね」 私の嫌いな 言葉です

嫌な夢を見た

最高に嫌な夢を見た。と私が言ったとき、あなたはどんな夢を創造するだろうか。とても怖い夢?嫌いな人が責めてくる夢?危険な目に逢う夢?

様々だろう。しかし、私が見た夢はそんな生易しいものではない。普段お世話になっている人や仲のいい人たちから「優しいね」と声をかけてもらう夢だ。夢の中で私は様々な人に親切をしている。そのたびに感謝され、「優しい人」の評価をされる。とても穏やかな夢だった。

にもかかわらず、起きた時の私は嫌な汗をかきながら、最悪な気分で目が覚めた。アラームの鳴る時計をベッドに叩きつけ、不快感と嫌悪感を感じながらキーボードを叩いている。

こんなに目覚めの悪い朝は何年ぶりだろうか。不愉快が止まらない。長い間私の奥底に眠っていたどす黒いものが再びあふれ出してしまったようだ。

優しいという評価

最初に結論を話しておこう。私は私に正当な評価を行う人間が嫌いだ。
「優しい人」「爽やかな人」「話していて楽しい」…。

ここで言う優しい人とは、あまり面識のない人や特に特徴のない人に対してとりあえず言う優しいではなく、何年も面識があったり、同じ仕事をしている人たちからの客観的な事実に基づいた評価である。

アルバイトで受付の仕事をしたときに、端末の操作がわからなくて困っていたおばあさんを助けた。
歩いていたら道を聞かれたので答えたが、よくわかっていなかったので直接目的地まで案内した。
学校で大量の本を抱えている友人がいたので、半分持った。


助けた後でみんなが言う言葉は必ず同じだ。

「優しい人でよかった」

最高に不愉快だ。気持ち悪い。そんな言葉をかけるくらいならいっそのこと「助けてくれなんて頼んでない」とでも言ってもらったほうがまだましだ。
…いや、それは嘘だ。
一言だけ「ありがとう」だけでいい。余計なことは何も言わないでくれ。

まあ要するに、私は私の行動ゆえに、優しい人やいい人という評価をされることが非常に多いのだ。だが、そんな評価をされるたびに、私の精神は粗雑なやすりで削られるかのように摩耗していく。

良い人=都合の良い人

良い人とは、都合の良い人である。とはよく言ったもので、つまりそれは、自分に対して無償で時間や労力などのリソースを割いてくれる奴隷のことである。しかし現在の日本では、奴隷を持つことは許されていない。だから奴隷ではなく、良い人、善い人、善人などという言葉を使ってヒーローという素晴らしいモノに仕立て上げる。

ひねくれてるだろうか。実際に私はひねくれているのだろう。

しかし私の場合、都合のいい人、良い人という鎖は、私を社会と繋ぎ、私を守るための防壁であり、鎧であり、緩衝材でもあった。

優しい奴隷としてしか生きられない

では、優しさの奴隷なんて辞めてしまえばいい。自分をさらけ出してしまえばいい。ありのままの自分が1番。素の自分でいれば楽になれるよ。

よしじゃあそうしよう。はい今辞めた。ありのままの自分をみんなが受け入れてくれた。ハッピーエンド。

素晴らしいな。素晴らしい。なんて感動的なストーリーだろうか。

残念ながらそうはいかない。何故ならば、私がそれを否定するからだ。私の鎧は、私を守るものであり、私を動かし活気を与えるガソリンでもあるからだ。それを脱ぎ去った時、私は人間では無くなってしまう。

鎧がなければ、私は無でしかないのだ。鎧の内側の棘に苦しみながら、しかしそれでも鎧を着なければならない。

鎧が無いゴーストである私には、時間の感覚なんてものは無い。気がついたら時が飛んでいる。何をやっていたか、今自分が何をしていたのかの記憶もなくなってしまう。鎧に記憶と時間感覚と生命力が染み付いているからだ。

いつの間にか、私は鎧がないと生きられなくなってしまっていた。

夢も希望も生きる目的も、全ては鎧が作り出した幻でしかなかったようです

私は私である。しかし私は私では無い。私が私を着ることで私は私たり得るのだ。では、私では無い私はなんなのだろう。何も無い私は私ではないのか。では、私なんて言うものはそもそも最初から必要ないのではないか。初めから私だけ存在していれば、私が私を被ることなんてなかったが、私が私を生み出していなければそもそも今この場に私が存在していないのは確実である。私が先か、私が先か。堂々巡りの無間地獄。


最初は人だったはずだ。それが次第に人の形を失っていき、時間を浪費するだけの無に成り果てた。

ホモ・サピエンスの中でも特に頭を使わない方の社会では、猿の本能が人間を支配しており、死にたくなかった私はその環境に適応しなければならず、何も無いなりに鎧を作り出した。

本能を覚え、迎合を覚え、同調を覚えた。どうやら私は社会の様々な部分において、平均よりも少しだけ下の人間であるようだ。

様々な分野において、他者よりも少しだけ弱い私は、心の優しいピエロになることを選び、個体間の競争を避けることで、私は居場所を得た。

そこに私の意思は無い。相手の応答に合わせて適切な反応を返すことで、好ましい会話が成立する。流されるまま流され、流れ着いた先にあった終着点。時にはその流れに逆らうこともしたが、大きな奔流に飲まれて無意味に消えた。

流れは止められない。私は今の私に適応してしまった。怠惰な人間の妥当な末路。本気になることも出来ず、その場しのぎで日々を過ごした結果の罰が今の私。私を救えるのは私しかおらず、それを承知したうえで何もしない。

もはや救いようがない。


死にたくはない、ただ無に帰するだけ

何も成し遂げていない私は、死ぬこともおこがましい。生きるのが嫌になることも、死に思いを馳せることもない。ただひたすらに、無になるだけ。意思を持ったまま、すべてを諦める。鬱々となることもなく、怠惰と快楽に身をゆだね、ただ一人、孤独に身を置く。そうして誰からも忘れ去られていくのだ。

私の得意なことと苦手なことを話そう。得意なことは突発的な行動と他人に同調することで、苦手なことは継続することだ。それが組み合わさるとどうなるか。どんな人にでも気軽に話しかけ、だれとでも仲良くなれる素晴らしい人間が生まれる。しかし、その場限りだ。その後は一切連絡を取らない。というか取れない。

LINEなどのメッセージツールも苦手だ。メッセージが来るたびに無の私から会話用の私への切り替えが発生するからだ。メッセージを送った後にいつ返事が返ってくるかを待っている間、常にそのことが頭の片隅から離れない。

他人と関わることが嫌いなのにも関わらず、得意なことは他人と関わることだけという、人としてあまりにも致命的な、ちぐはぐな生命、それが私だ。人と関わることを生きがいにできず、人と関わることが大好きでありたかった生命体は、いつしか全てを投げ出して無に身を委ねるだろう。


こんにちは、どうやら私は鎧らしいです。

数日が経過し、私はこんな怪文書を書いたことすら忘れて日々を過ごしていた。ふとnoteを開いてみると、書いた覚えのない文章が下書きに残っているではないか。

恐らくこれは、何か嫌なことがあった日の私がそのままの勢いで書いた文章なのだろう。私自身に向けた、気持ちの悪い恨みつらみがつらつらと書き連ねてある。

冷静になってみれば、何もやる気の起きない無の私も、何かを成し遂げようとする私も、等しく私であるのであって、そこを区別して考えようとすることはおこかましいことではないのだろうか。

私は私だ。幾ら乖離していようとも、幾ら否定しようとも、それは変わりようのない事実である。

そこに優劣はなく、裏表もない。等しく私が存在する。

私が主張したかったこととは、誰しもに存在するONとOFFの状態の入れ替わりの話であり、それぞれの状態の人格があるだけの話なのだろう。

無間地獄など甚だしい被害妄想だ。

無なんてものは存在せず、何もしたくない内向的な気分もあれば、人と話したくて外向的になる場合もある。

ただそれだけの話。それ以上でもそれ以下でもない。



以上、私の暴走と反省でした。皆様も自分自身の暴走にはくれぐれも注意してくださいね。


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