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革靴の力

 これは西洋的な、つまりヨーロッパを発祥とする生活文化圏に限った話であるのか、東洋においても認められる話であるのか、ともかく、西洋人は靴を大切に扱うという話で、もちろんここで靴と言うのは、丁寧に鞣された革で造った紐靴のことであって、ボンドでゴムを繋ぎ合わせた履き物のことではない。職人が手作業で仕上げる英国の上等な靴ともなれば、一足十万円は当たり前の世界で、ビスポークと呼ばれているオーダーメイド、すなわち顧客の足そっくりの木型から作り始めて、納期も半年から一年はかかると言われている工法によるならば、ゆうに五十万円以上、ボンドストリート辺りで設えたならば、少なく見積もって百万円はするらしい。それでも、単に高いから大切にするという訳ではなくて、西洋人は流行の流行はやすたりが激しい衣類などよりも、靴や鞄、つまりは職人が造った革製品への投資を優先するらしく、ただ摩耗してゆく、修繕と言っても肘当てを貼り付けるくらいの衣類に比べて、革製品は日頃の手入れ次第では十年、数十年は使い続けられるものであるし、また靴などは底を張り替えれば、親子二代にわたって履き続けることも出来る、要は丁寧に履き、大切に扱えば、それだけ寿命も長くて、定番のオックスフォード・シューズでも選んでおけば、流行とは無縁の古典的なスタイルで、百年前からそのデザインは変わらない。

 だから、西洋人の若者が社会へ出るに当たって身の回りの品一式を揃える時分には、先ず靴から、予算の許す限り上等な紐靴を贖うようで、スーツやネクタイといった旬のある、そして傷みやすいアイテムは最後に揃えると、私淑する服飾評論家が言っていた。それは、靴というモノが、手入れさえ怠らなければ、一生付き合えるだけのタフな造りであることはもとより、履き手と共に年輪を刻み、古艶が生まれて、それらエイジングの効果が、靴の価値を倍加させるもので、だからホテルマンは足元に視線を走らせて客を見定めるのであって、それは何も高級な靴を履いているから上客なのではなく、どれだけ持ち物を大切に扱っているか、つまり丁寧に生きているかを判別する為に足元、すなわち靴の手入れ具合を基準に、靴をではなく、ヒトを値踏みしている訳である。実際、向こうの紳士に言わせれば、もしもメンテナンスを怠ったボロボロの靴を履くくらいなら、脱げたとか、忘れたとか、適当な言い訳をして裸足でチェックインした方がマシであり、反対に安物のスーツしか着るものが無かったとしても、よく手入れされた上等な革靴、たとえ十年以上履いた代物であっても、磨き込まれた古艶に輝く靴を履いていたならば、大抵のホテルマンは敬意をもって迎えてくれるそうである。

 そうした西洋的な価値観、靴に投資を惜しまず、手塩に掛けて面倒を見るという態度、また社会も履き手の靴に対する愛情を評価するという文化、その対極にあるのが我が国の靴事情で、それでも最近は一部の好事家やファッショニスタを相手に専門誌なども発刊されてはいるようだけれど、概して、日本人の靴に対する扱い、靴を見る眼というのは、西洋とは比較にならないほど、ぞんざい、無関心であるような気がしてならない。それは、通勤電車に乗って、向かいの席に座っているビジネスマンたちの足元に視線を落とせば簡単に判ることで、とても磨き込まれているようには見えない、甲革の生傷が痛々しく、それでも少数の若者などは、高価であったろうと推し量られる革を使った靴を履いてはいるものの、やはりクリームなど塗ったことが無いのであろう、すっかり褪色して古艶とはまるで正反対の方向に色が変わってしまっている。そして共通するのは、靴底にも革を使った靴を履いている向きが少ないという話で、もちろん雨の日でも滑らないようにという便を考えているのだろうけれど、ゴム底の、つまりは履き込んでも張り替えて使い続けることが出来ない、履き捨ての靴が大勢を占めているという寂し過ぎる現実である。

 勤め人の小遣い、可処分所得が少ないのは洋の東西を問わない話で、ただ、その少ない小遣いの使い道として、西洋人は優先して靴を選び、日本人は後回しにしているという簡単な話であって、往々にして、日本のサラリーマンが靴を買う時などは、何とかセンターとか、何とかマートのようなディスカウントストアで用向きを済ませて、だから日々の手入れなどする気も起らず、とことん履き潰して、また次の臨時収入でゴム底の安い靴を買っている。判りやすく譬えるなら、十万円という元手を使って、西洋人は十万円で良質な靴を買い、日本人は一万円の安物を毎年履き捨て、十年で十足買っている、そういうことである。もちろん、価値観の違いと言えばそれまでで、靴に何の興味も無い向きからすれば、大きなお世話以外の何物でもないのだろうけれど、ただ折角稼いで得た金を、想い入れの欠片も無い消耗品の為に使ってしまうという悲しい話で、これは想像だけれども、靴を粗末にする向きが、スーツには愛情を一杯注ぎ、ネクタイは誰にも負けず偏愛しているようには、とても考えられなくて、靴と言わず、衣類と言わず、きっと持ち物を大切に扱う、手入れをしてでも使い続けるという意識、発想など持ち合わせていないのではないだろうか。

 だから、一度で良いから、十万円ではなくとも、一足奮発してみるべきで、名のある、それは一流のファッション・ブランドという意味ではなくて、一流の職人が造っていることで知られたという意味での、名のある工房の靴、百年デザインが変わらないグッドイヤーウェルテッド式に編まれたオックスフォード・シューズでも一足、選んでみては如何だろうか。これは大袈裟でなく、そういった靴を履いてみれば、歩き方から変わるもので、何も高い靴を履いているから慎重に歩くということではなく、小遣いをはたいて、その道の靴屋まで足を運び、数ある手造りの靴の中から選んで買った、という体験が、その一足に対する忘れ難い想い入れとなり、きっと歩き方も変わり、背筋は伸びて、どれだけ残業して遅く帰ったとしても、一日を共にしたその靴を労わるように埃を払い、時にはクリームなど塗って傷を癒してみる、そんな気持ちになるはずで、実は癒しているのは靴だけではなくて、愛でるようにクリームを塗り込む時間と手間を通じて、履き手の心もまた癒されていることに気が付くはずである。相乗作用とは良く言ったもので、そうやって靴に気を配り始めることで、次第に身の回りのモノたち、それは衣類だけでなく、財布などの小物や、また文房具のようなモノにまで意識は向いて、やがて粗末に扱うことも無くなってゆくに違いない。

 西洋の文化だから高級だとか、西洋の価値観だから正しいとか、そんな盲目的な西洋礼賛を始めるつもりではなくて、ただそれでも、一足の靴をきっかけとして丁寧な暮らしに目覚めることが出来たとするなら、それは安い買い物になるだろう。今夜も、使い古しのタオルで履き慣れた愛用の靴を磨くことにして、それは、とても十万円もしない既製の靴だけれど、時間をかけて選び、シューフィッターの助言も聴きながら決めたもので、今日という日を足元から支えてくれたことに感謝しつつ、乾燥して失いかけた光沢は、クリームで潤いを与え、すっかり古艶が生まれて手放し難くなり、世界でただ一足の面構えを見せている。少し休ませて、また履く日が巡り、その繰り返しが、靴と共に歩む人生という道行きになるのだろう。

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