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ツイッターで巻き起こる「法律とジェンダー」の炎上を因数分解する

法律とジェンダーは、現在のSNSにおけるホットなトピックである。

2021年6月7日、「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム(WT)」における立憲民主党の本多平直議員による「14歳との同意性交で捕まるのはおかしい」という趣旨の発言が問題化され、SNS上で大規模な炎上が巻き起こった(後に本多氏は議員を辞職)。

6月23日に出された夫婦同姓を定める民法を合憲とした最高裁の判決についても、SNS上で大きな話題となった。

8月6日に発生した小田急線での刺傷事件においても、「幸せそうな女性を見ると殺したいと思うようになった。誰でもよかった」といった犯人の供述をめぐって、SNS上で様々な議論や運動が巻き起こった。

ここ数年、ツイッターのアカウントを開設して情報発信を行う弁護士が目立つようになり、弁護士がSNS上での論争に参加したり、その結果として炎上や訴訟にまで発展するケースが増えていることも、法律とジェンダーというテーマに注目が集まる一因になっている。

法律とジェンダーに共通するのは、「分かりづらさ」である。

前提となる知識や文脈を共有していないと、「そもそも何が問題になっているのか」「なぜ燃えているのか」を理解することは難しい。

特に近年の炎上は、事情を知らない第三者や、文脈を共有していない第三者から見ると、そもそもなぜ燃えているのか、誰が燃えて(燃やして)いるのか、理解もできなければ確認することも難しいケースが増えている。

炎上の原因や事実関係の真偽を客観的に把握しづらいケースが増える一方、炎上の当事者が受けるダメージは深刻であり、心身の不調や社会生活に支障をきたすレベルにまで発展してしまうこともある。

法律とジェンダーをめぐる炎上の背景には、一体どのような問題構造があるのか。そして、これ以上ツイッターで「分かりにくい炎上」に巻き込まれて不要に傷つく人を増やさないために、どうすればいいのか。

これらの問いの答えを探るため、司法試験受験生時代からネットを活用した情報収集・発信を行っており、法教育と性教育の連携の意義について学会等で発信されている、ツイッター利用歴10年の鈴木愛子弁護士(@ponikitiai)にお話を伺った。

文脈の消失した世界で、全てが二項対立に還元される

ツイッター上で、ジェンダーの絡むテーマで炎上が起こった場合、中心となる個人や集団が「ミソジニー(女性嫌悪)」や「セクシスト(性差別主義者)」といった言葉で括られて、「ミソジニー男性VSフェミニスト」「セクシスト VS 反女性差別」といった二項対立図式に単純化される傾向があります。

2020年11月に、老舗タイツメーカー・アツギの公式アカウントがタイツやストッキングを履いた女子高生や会社員など若い女性のイラストを次々に投稿したことに対して、「ストッキングを履く女性を性的な目で見ている」「女性を性的に消費している」という批判を浴びて炎上した事件がありました。

こうした性的な要素のある表現に関する炎上議論では、表現の自由の戦士VSフェミニストといった戯画的な二項対立に単純化され、「善か悪か」「敵か味方か」といった振り分けだけが話題になり、建設的な議論が困難になりがちです。

単純化の原因は、ツイッター特有の問題点である「文脈の消失」です。

140文字という制限の中、感情的な投稿が拡散されやすい傾向があるため、誰が・いつ・どのような場面で・どのような意図を持って・誰に向けて発信した情報なのか、といった文脈が失われてしまう。

ツイートの文脈が失われた結果、議論が「善/悪」「敵/味方」の単純な二項対立図式に還元されてしまったり、何年も前のツイートが掘り起こされて、全く別の文脈に載せられて批判や攻撃の材料に使われる、ということが起こります。

さらにツイッター上では、失われた文脈を回復しようとするツイート=反論や説明もまた、批判の対象になってしまうことがあります。

例えば、アニメが好きな人にとって、特に性的な意図を持たずに愛好しているキャラクターや表現に対して、作品を知らない第三者から「有害な表現」「女性に対する差別」というレッテルを一方的に貼られてしまうのは、とても傷つく経験になります。

傷ついた人たちの中には、激怒してすぐに反撃する人もいますが、これ以上自分たちの好きな作品やキャラクターが不当な批判を受けることがないように、それらがどのような人たちに・どのような文脈で愛好されているかについて、説明しようと試みる人もいます。この人をAさんとします。

しかし、Aさんが言葉を尽くした説明を試みても、(過去の性被害等が背景にあるゆえに)「性差別的な表現」であることを大前提として表現を認識する人(Bさんとします)からは、そのような説明をしようとすること自体が「気持ち悪い」「加害性に対して無自覚」という見方をされてしまうこともあると思います。

Bさんと同じ立場の人たちから一定の理解が得られることももちろんありますが、「議論を見て一定の理解をした人がそれを表明する」とは限りませんし、説明しても受け入れられなかったというさらなる傷つき体験は、愛好者層のAさんにとっては、ネガティブな記憶として残ります。

そうなると、Aさんは、「Bさんのような人たち(ある種の文脈に基づいたアニメ表現を苦手とする人たち)には、もう説明しても無駄」と、相手を無意識に集団として把握するようになります。

そして、「私はそれが苦手だ、性差別的だと思う」と、勇気を出して初めて声をあげた人(Cさんとします)に対しても、「Bさんのような人たち」と同一視して、いきなり冷笑的な態度をとってしまうようなこともあります。

そうなると、Cさんは「Aさんのような人たち(ある種のアニメ表現を愛好する人たち)は、どうしても性差別性を自覚できない人たちである」と、やはり、相手を無意識に集団として把握するようになります。こうした空気がそれぞれの立場で醸成されてしまい、分断と対立が激化してしまいます。

文脈の説明そのものが「加害」として批判されてしまう構図は、性差別や性表現をめぐる炎上だけでなく、法律の問題に関する炎上でも見られます。

性暴力事件に関する裁判や、未成年の性交同意年齢に関する議論がメディアで話題になると、ツイッター上で「無罪判決を許さない」「裁判長の名前を晒せ」といった運動が巻き起こることがあります。

こうした運動の中には、司法制度の在り方に一石を投じる意義のあるアクションもある一方、「その無罪判決を出した裁判官個人を晒上げたい」という動機に基づく、明らかに現行の法制度に対する無知や誤解に基づいたものもあります。「裁判官が性犯罪を容認しているから、自分の家族に起こってもいいと思っているから、無罪判決を出せるんだ」といった感情的な反応も起こりました。

法制度に対する誤解に基づいた主張が「社会正義のための運動」として広がっていくことを看過できず、自らのアカウントで「罪刑法定主義」や「適正手続」の意義等について、情報や意見を発信する弁護士もいます。

例えば、どんなに悲惨な事実、道義的に責められるべき行為があっても、行為の時点で刑罰法規が定められていなかった場合に遡って処罰することができないことや(遡及処罰の禁止)、違法な方法で収集された証拠は公判で証拠とすることができず(違法収集証拠の排除)、その結果として、悲惨な事実や道義的に責められるべき行為が客観的な事実としては存在しても判決としては無罪になることがありうることなどの発信です。

この際、専門家である弁護士の一部が、暴言と言わざるを得ない表現で意見を発信してしまうと、性犯罪に関する法制度の在り方に対して真剣に一石を投じるアクションをしている層にまで、「弁護士=被害者に対して暴言・揶揄嘲笑・冷笑的な態度をとる人たちである」という誤解を受けてしまいます。

また、罪刑法定主義や適正手続と、男女平等や性犯罪被害者の保護が単純な二項対立になるものであるかのような誤解も与えかねません。

また弁護士が法制度に対する誤解を解こうとして説明すること自体、「上から目線だ」「被害者に対する二次加害(セカンドレイプ)だ」と批判・攻撃されてしまう場合もあります。

そうした齟齬の中で、「あの人たちには、もう説明しても無駄」「叩くしかない」とお互いが感じてしまうと、あとは終わりなきレッテル張りの応酬になってしまいます。

フェアではない方法による批判の応酬が招く、対立の激化

論敵をブロックした上で、他のアカウントから閲覧した論敵のツイートをスクリーンショットで保存して、批判的なコメントを付して投稿する「スクショ晒し」をすれば、自らを安全圏に置いた状態で、論敵の悪口を仲間と共有して盛り上がることができる。

こうした光景はツイッターでは日常的に見られますが、法的にも倫理的にも大きな問題をはらんでいます。

スクショ晒しは、端的に陰口です。引用RT(リツイート)とは異なり、スクショ晒しは、晒された本人には通知がいきません。しかし、RT数が伸びれば、いつかは本人の目にも止まります。

仮に批判の内容それ自体は的を射たものであったとしても、フェアではない方法で自分の意見を晒され、陰で嗤われた場合、その批判を受け入れられる人はほとんどいないでしょう。

フェアな方法=丁寧な対話で堂々と批判されたのであれば、本人が批判を受け入れて、内発的に行動を変える可能性もあったかもしれない。

しかし、スクショ晒しなどのフェアではない方法による批判は、批判を受けた側にとっては、むしろ批判の対象となった行動を正当化することにつながるはずです。

フェアでない方法による批判を受けた人は、「やられたらやり返せ」とばかりに、同じ方法で相手に対する批判を行う。そうなってしまうと、対話による状況の改善は絶望的です。

フェアでない方法で論敵を批判する人たちは、「弱者に行儀の良さを求めるな」といった理屈で、自らの行動を正当化しようとする傾向があります。

しかし、弱者であることは、他者を傷つける免罪符にはなりません。被害者だからといって、全ての行動や要求が無条件で正当化されるわけでもありません。

自分たちの振る舞いを正当化するために、被害者を利用・代弁・消費するようなことはあってはならないのです。

批判の方法がフェアであるかどうかを検証すること、批判者の目的や文脈を理解した上で、批判の伝わりやすさや批判された側にとっての受け入れやすさなどを問題化すること自体は、トーンポリシング(=訴えの内容そのものではなく、話し方や言葉づかい、態度を批判することで、論点をずらす行為)とは明確に区別されるべきでしょう。

「痛みの個別性の消失」が招く悲劇

「分かりにくい炎上」の因数分解は、これだけでは終わりません。

終わりなきレッテルの貼り合いとスクショ晒しの応酬は、さらに厄介で複雑な問題を生みます。

対立が激化していくと、その炎上の中で目立つに関連する話題で注目されているアカウントが、発信者本人の意図意思とは無関係に祭り上げられ、発信を観察する無数のアカウントにより「代弁者」「(仮想)敵」の役割を一方的に押しつけられるの関係にあるかのような「空気」が生じてしまうこともが起こります。

最近でも、「#法クラMe Too」というハッシュタグで、法曹界での性被害について声をあげた女性弁護士達が、性被害を受けた女性たちのから「代弁者」とされる一方、過去に(他の男性弁護士と同様に、オタク文化的な文脈で)「女子校のプールの水になりたい」とツイート発言していただけの弁護士が、たまたま過去の発言を「掘り返された」がために注目され、性被害を受けた女性たちにとっての「仮想敵」であるかのような「空気」が生じ、理不尽なバッシングを受けるという事件も、つい最近に生じています。

ツイッター上では、被害者の立場にいる人の発言が尊重・拡散される傾向があります。しかし、誰もがそのポジションに立てるわけではありません。

自分の被害体験を自分で語ると、「嘘松」(虚言)というレッテルを貼られたり、検証と冷笑の矢が飛んでくるリスクがあります。勇気を出して過去の被害体験を語っても、そもそも誰も反応してくれない可能性もあります。

そのため、自分の被害体験をストレートに語るのではなく、特定のアカウントの発言に自分の被害体験を重ね合わせて、援護したり批判したりする振る舞いが強化されます。

特定のアカウントが、不特定対数の人たちの痛みの代弁者、あるいは怒りをぶつけるためのサンドバック=加害者に仕立て上げられる。それによって、ますます炎上は激化していきます。

こうした背景には、ツイッターにおける「痛みの個別性の消失」があります。

ツイッターでは、誰もが自分の痛みを他人の痛みに投影することができてしまいます。

自分の痛みが他人の痛みになり、他人の痛みが自分の痛みになる。自他の境界線が消えてしまった結果、他人への攻撃が自分への攻撃だと読み替えられてしまう。

また、過去の痛みが現在の痛みになることも起こります。炎上しているタイムラインを眺めているうちに、過去の辛い体験の記憶がよみがえり、つい感情的な投稿をしてしまったことのある人もいるのではないでしょうか。

同様に、未来の痛みも現在の痛みになります。炎上している人のタイムラインには、「まだ起こっていない現象に対して怒っている人」がどんどん集まってきます。

「自分/他者」の境界線と、「過去/現在/未来」の境界線が消えることで、あらゆる痛みに過剰に共感・反応してしまうようになる。

多重化した痛みに耐えられなくなった人たちは、痛みの原因を単純化して、任意の対象を「こいつが元凶だ」と一方的に断定して、苛烈に叩くようになる。

つまり「分かりにくい炎上」とは、痛みの個別性が失われた結果、生じる現象であると言えます。

そもそも誰のものなのか、そしていつのものなのかも分からない痛みや怒りが幾重にも積み重ねられていくことで、問題の原因がどんどん見えづらくなる。

その結果、本来無関係な人たちまでも巻き込んで炎上が拡大してしまい、多くの人が負わなくてもいい傷を負ってしまう。

その傷の痛みが、さらに次の「分かりにくい炎上」の引き金になる・・・という悪循環が続いています。

ツイッターのタイムラインで話題になるのは、この段階です。事情を知らない外部から見ると、「また誰かがツイッターで失言をして炎上したんだな」程度にしか思われないかもしれません。

しかし、実態は複数の対立軸と時間軸、そして不特定多数の人々の痛みと怒りが幾重にも絡み合っている状態になっており、炎上の渦中にいる人でも、誰が・なぜ・どこで燃えているのか、把握できなくなっているケースもあります。

悪意による印象操作、捻じ曲げられる反論

「分かりにくい炎上」の最大の問題点は、「一度燃え上がってしまったら、炎上を止める手段が事実上存在しない」ということです。

炎上を鎮火させるためのアクションを起こしても、多くの場合、逆効果になってしまうのです。

正当な理由なく燃やされた側は、当然ですが反論します。しかし、燃やす側は、まず「あいつは●●だ」という断定を行い、異論・反論を全てノイズとしてブロックした上で、マジックワード(意味や定義は曖昧だが、インパクトの強い言葉)を駆使して批判の拡散を繰り返すため、燃やされた側の反論は一切届かず、議論が深まることもありません。

誹謗中傷が止まらない場合、燃やされた側は法的措置を示唆することもあります。しかし、それが逆に火に油を注ぐことになってしまいます。

「法的措置を検討している」とツイートすること自体が「訴訟恫喝だ」「スラップ訴訟(=批判を封じ込めるための威圧・報復を目的とした不当な訴訟)だ」「弱者を黙らせようとしている」という批判を招き、さらに炎上が激化してしまうことがあります。

ひどい場合は、本人が想定している対象者とは違う相手に対して法的措置を検討している、という誤読や印象操作がされてしまうこともあります。

あらゆる文脈が消え、分かりやすい二項対立図式に還元された情報空間の中で、こうした誤情報は劇的に広まってしまいます。

事実誤認に基づく批判が大々的に拡散されても、本人は訂正も反論もできない、という状態になってしまいます。

ウェブ記事で話題になるのは、この段階です。

近年、ウェブメディアを中心に、特定の個人や企業が炎上しているという事実だけを記事にした報道が目立ちますつが、「分かりにくい炎上」が増えている現在では、炎上の原因とされているツイートを羅列するだけでは、炎上の原因や構造はほとんど伝わりません。

結果として、事実誤認に基づいた内容の記事が公開され、さらに炎上を激化させてしまい、被害者を増やすだけの結果に終わってしまうこともありまする。

攻撃が激しくなり、収束の目途が立たなくなった場合、炎上の中心にいる人はアカウントに鍵をかけるしかなくなりますが、鍵のついた状態のままで謝罪や説明を行っても、一部のフォロワーにしか届かないため、状況はほとんど改善しません。

「痛みの個別性」を取り戻すために

「分かりにくい炎上」は、燃やされる側にとっては悲劇以外の何物でもありませんが、燃やす側にとっては、悪魔的な魅力を持った手段になります。

ターゲットの個人・団体・企業に対して大きな社会的ダメージを与えることができ、炎上がメディアで報道されることによって、批判の「正当性」や「公益性」も担保できます。

不特定多数の痛みや怒りを代弁して、正義の名の下に相手を燃やし尽くす快楽や旨味を一度知ってしまったら、もうやめられないでしょう。

「分かりにくい炎上」が増加すればするほど、「痛みを訴える当事者の立場になれば、無条件で自分の主張を通せる」と勘違いする人が出てきます。

「当事者を支援する立場であれば、どのような発言も正当化される」と考える人も出てきます。

「ツイッター上で当事者ポジションを確保すること」「当事者を代弁するポジションを確保すること」によって、大きな力を得ることができるという誤解が広まれば広まるほど、当事者であることを主張する権利、当事者を代弁する権利をめぐって、当事者同士・支援者同士でのポジション争いが起こるようになります。

そうした立場性の奪い合いは、「分かりにくい炎上」をさらに複雑化させるだけです。

そして、そうした争いの中で生まれた傷の痛みが、さらに次の「分かりにくい炎上」の引き金になってしまう。こうした悪循環は、どこかで終止符を打たないといけません。

ツイッターでハッシュタグをつけて投稿すれば、誰もが自分の立場や痛みを武器に変えて、気に入らない誰かや何かを、皆で一斉に叩くことのできる時代になっています。

性被害や性差別をなくすため、そして法制度の改善やジェンダー平等の社会を実現していくためには、自らの立場や痛みを武器に変えて戦うことも必要です。

しかし、それはあくまで社会を変えるための武器であって、意見の異なる他者を陥れるため、ツイッター上で自らの承認欲求を満たすための武器であってはならないのです。

そう考えると、法律とジェンダーに関する「分かりにくい炎上」に巻き込まれて不要に傷つく人を増やさないための道筋が見えてきます。

「分かりにくい炎上」による不幸を防ぐためには、誰かを責めるのではなく、炎上の起こる原因と構造を把握した上で、私たち一人一人が、痛みの個別性を取り戻す必要があります。

あなたの痛みはあなただけのものであり、私の痛みは私だけのものです。

そこを自覚することができれば、自らの立場や痛みを武器に変える前に、その武器で誰かを叩く前に、立ち止まって考えることができるようになるのではないでしょうか。

*本記事と関連するテーマは、2022年12月刊行の『ツイッターで学ぶ 「正義の教室」』(坂爪真吾・晶文社)でも掲載しております。


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