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シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)2020年12月5日:全文公開

2020年12月5日(土)に開催された『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)』の全文公開(約4万2千字)です。前半の部分(約2万字)まで、無料でお読み頂けます。

はじめに 今回のイベントのテーマと開催趣旨について(坂爪真吾)

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坂爪 本日は、『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)』にご参加くださり、ありがとうございます。主催・司会担当の坂爪真吾と申します。宜しくお願い致します。

今回のイベントのテーマは、「フェミニストとアンチフェミの対話の場を作ること」です。

ネット論客の青識亜論(せいしき・あろん)さん、そして研究者でフェミニストの高橋幸(たかはし・ゆき)さんのお二人が、この数年間のSNS上で巻き起こっているジェンダー・フェミニズム関連(と考えられている)論争や炎上を一緒に&丁寧に整理しながら、フェミニスト(とされている人たち)とアンチフェミ(とされている人たち)が対話するための糸口を模索していきます。

私が今回のイベントを開催しようと思った経緯は、拙著『「許せない」がやめられない』及びnote記事にまとめておりますので、未読の方はぜひご覧ください。

以下、簡単に説明いたします。

SNS上で、ジェンダーをめぐる問題や事件について「許せない」という怒りを燃やしている人の背景には、それを肯定するにせよ否定するにせよ、何らかの形でフェミニズムが関わっている傾向があります。

私自身は、学生の時に東大の上野千鶴子ゼミでフェミニズムを学んだことがあるのですが、ツイッター上で「フェミニスト」と名乗っている人たちが使う「フェミニズム」も、そうした人たちを批判する人たちが名指している「フェミニズム」、いずれも私が東大で上野千鶴子さんから学んだフェミニズムとは全く違うものだと感じています。一方で、それらがフェミニズムとは全く無関係な別物かというと、必ずしもそうでもない。

フェミニズムは、女性の生きづらさや社会のジェンダー不平等を解決するための手段であったはずです。今のSNS上では、それがいつの間にか目的にすり替わってしまっている。フェミニズムの(と彼女たちが考えている)理屈にしたがって、SNS上で「許せない」という怒りを燃やして、特定の表現や意見の異なる他者に対して一方的にレッテルを貼って叩くこと自体が自己目的化してしまっている。

SNSが普及する前の時代は、そうした自己目的化による暴走は、あくまで局所的なものにとどまっていたと思います。「許せない」という怒りを燃やして無関係な相手を攻撃したり、見境なくケンカを売ったり、攻撃的な言動を繰り返すことがやめられないような人は、対面や運動の場では、たしなめられたり、諭されたり、敬遠されたりしてきました。

しかし2010年代以降、SNS上でのジェンダーやフェミニズムをめぐる議論や運動が盛んになっていく中で、顔の見えない相手とのオンラインでの論争が増えていきます。

自分の見たい情報だけが流れ続けるタイムラインの中で、「足を踏まれた!」「私たちは怒っていい!」といった被害者意識に基づく感情論と、「私は被害者/お前は加害者」という素朴な二元論が支配するようになっていきます。

「女性差別や女性蔑視が許せない」という怒りを燃やして、無関係な相手や表現を攻撃して炎上を巻き起こすアカウントは、「ツイッターフェミニズム」=略して「ツイフェミ」と呼ばれています。

こうしたツイフェミとの戦いがきっかけになって、インセル、表現の自由戦士、TERFなどなど、同じように「許せない」がやめられなくなって暴走してしまう人たちも増えています。

ツイフェミをはじめ、「許せない」がやめられない人たちの存在は、ジェンダーやセクシュアリティをめぐる社会課題を公の場で議論する上で、大きな妨げになっています。

一方、「許せない」がやめられない人たちの中には、性暴力被害の当事者、性別違和、パニック障害、精神疾患、発達障害、ひきこもりであることを公表しているアカウントも少なくありません。彼らや彼女らをタイムライン上で論破したり、揶揄したり、スクショを晒して嘲笑したとしても、問題は何も解決しません。

「許せない」がやめられない人たちの暴走を止めるために必要な方法の一つが、対話です。フェミニスト(とされている人たち)とアンチフェミ(とされている人たち)の対話の場を作ることが、社会課題としての『「許せない」がやめられない』を解決するための第一歩になるのでは、と考えています。本日の対話、最後までお楽しみ頂けると幸いです。

それでは、ゲストの青識さんと高橋さん、それぞれ自己紹介をお願いいたします。

青識 青識亜論と申します。本日は、高橋先生が研究者としてのお立場から発言されるということなので、私はアンチフェミ、表現の自由戦士としての立場から、一人のオタクとしての意見を発信させて頂きたいと思います。今日はよろしくお願いします。

高橋 高橋と申します。首都圏の方々の大学で非常勤講師をやらせて頂いております。青識さんに言うのを忘れていたのですが、「高橋先生」はやめて、高橋さんにして頂けますか?青識さんの先生ではないので、気恥ずかしいなと(笑)。

青識 分かりました!すみません。

高橋 私たちは、今日までに二回打ち合わせをして、かなり下準備をしてきました。青識さんとお話させて頂くのは楽しみです。意見のぶつかるところはたくさんありますが、お話させて頂くこと自体は面白いと思っています。これまで見えていなかったことも見えてくる。

この後、色々あるかもしれませんが、最終的には、参加者の皆さんに「楽しかったね」「イベントをやって良かったね」と思って頂けると嬉しいです。

坂爪 ありがとうございました。それでは、第一部の青識さんの発表「これからの萌え絵と正義の話をしよう」に入っていきたいと思います。青識さん、よろしくお願いします。

第一部:これからの萌え絵と正義の話をしよう(青識亜論さんの発表)

青識 まず今までのおさらいを含めて、現在地の確認から始めたいと思います。

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今日ご参加頂いている方はご存じのことも多いかと思いますが、2014年の人工知能学会の時から今日に至るまで、フェミニズム関係の炎上事件が継続的に起こっています。

当初から現在まで、炎上の理由として、萌え絵を使ったポスターは「性的消費」だからよくない、ということがすごく言われていました。

「性的消費」って、社会学的な概念でもないし、一体何なのだろう・・・と皆が疑問に思っていたのですが、とにかくフェミニストの皆さんによって「性的消費だからよくない」ということが言われ続け、それによって萌え絵をはじめとした様々な表現が燃やされ続けてきた、というのが今日に至るまでの流れです。

「なぜこの表現を批判するのか」とフェミニストに尋ねても、「性的消費も知らないのか」「もっと勉強しろ」で終わってしまい、議論にならなかった。

2017年に転機が起こりました。この年は、壇蜜を起用した宮城県のCM動画など、自治体や企業のCMが「性的消費だ」「女性蔑視だ」と批判されて、相次いで炎上しました。そうした中で話題になったのが、宮崎県日向市のサーファーのCMでした。

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そのCMの内容は、太ったサーファーの男性が、彼女にフラれて海に行った時に、筋肉ムキムキのイケメンのサーファーに会って「海、似合ってないね」と言われる。そこで一念発起して、頑張って身体を絞って、「似合うようになったじゃん」と褒められる、というものです。

このCMを、フェミニストとして著名なある女性弁護士アカウントが、「これが観光地PRのあるべき姿だ」と大絶賛した。これに対して、「男性の性的魅力を利用したCMじゃないか」「萌え絵や女性の性的魅力を使ったCMと何が違うのか」という批判が殺到し、フェミニスト側が炎上した。これは初めてのことだったと思います。

フェミニストの中には、「マッチョな男性の性的魅力を使ったCMだからと言って、男性皆がマッチョになることを求めているCMではない」と擁護する人もいた。

ただ、これは今まで萌え絵等の広告表現に対してフェミニスト側が行ってきた批判=「女性の性的魅力を利用したCMは、それを見ることで『女性=性的な存在としてしか求められていない』と感じて傷つく女性がいるのでけしからん」を全て覆してしまっている。それはおかしいんじゃないのか、という批判が巻き起こり、フェミニスト側にブーメランが刺さった。

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2018年に入ると、青地まみさんの「パブリックエネミー炎上」があった。青地さん自身が「オタクはパブリックエネミーだ」と言ったわけではないのだけれども、ある社会学者がそのような発言をした際に、彼女が肯定的に言及したことで炎上が起こりました。

青地さんの中では、「オタクとペドフィリアがイコールで結びついている」「ペドフィリアの集団がフェミニストを攻撃している」という認識があったようで、オタク=社会悪として捉えていた。これが、オタクであることをアイデンティティにしている多くの人たちから反撃を受けて大炎上して、青地さんのアカウントが鍵垢になる、という事件が起こった。オタクを批判した個人が大炎上した例は、これが初めてだと思います。

この頃に、荻野先生や白饅頭さんの仕切りで、お茶の水でイベントを行って、200人くらい集まりました。アンチフェミの側も盛り上がり始めていた時代であり、オンライン上の出来事をオフラインで議論することに関しても、ある程度知見が集まりつつあった時代でした。

もう一つ、重要な伏線として言及しておかなければならないのが、2018年の「小宮・青識論争」です。社会学者の小宮友根先生と私がツイッター上でバトルをしたという事件があって、そこで「最善の相」「不誠実ポイント加算」という面白い発言が生まれて話題になりました。

あるフェミニストの方の発言に対して私がかみついた時に、小宮先生が「批判相手の発言は、最善の相で読みなさい」と、フェミニストの方を擁護した。好意的に解釈してあげなさい、ということだと思うのですが、「それっておかしくないですか」と私が反論して、それをきっかけにして、合計でお互い500ツイートくらいかけて議論しました。

なぜフェミニストの発言だけ、最善の相で読まなければいけないのか。自分たちは「これは差別的だ」「あれも差別的だ」と言って、たくさんの表現を炎上させてきたじゃないか。なぜ自分たちの発言だけ、最善の相で読むように相手に要求するんですか、と。

最後の方は小宮先生もしびれを切らして、私が何か言うたびに「不誠実ポイント加算」と返答してくるようになった。これに対して、周りで見ていたギャラリーも反応した。

青地さんの時もそうでしたが、社会学者の方に対するアンチフェミ界隈の姿勢は「敬して遠ざける」みたいなところがあって、社会学を専門にやっている人なんだから、不用意に殴ったら殴り返されるぞ、という意識があった。
しかし、あまりにも小宮先生の「不誠実ポイント加算」という発言が面白かったので、みんながいじりはじめて、小宮先生が面白キャラみたいになってしまった。もちろん、これはあくまで私の主観なので、小宮先生ご自身は、全く別の見方をされていると思いますが。

こうした論争を傍で見ていた借金玉さんというアルファツイッタラーの方が、こんなことをつぶやいています。

最善の相だけだったら、「貴人の雅な扇」だった。でも、そこに「不誠実ポイント」という言葉をつけてしまったから、それがただのハッタリだったということが分かってしまって、田吾作の群れに取り囲まれて、踏まれてしまった、と。

これがどういう意味か、説明します。今のネット界隈の議論では、学者の人やアルファの人などの「貴人」は、直接「あいつはバカだ」「差別主義者だ」「悪だ」とは決して言わない。そうした下賤な価値判断や発言はしない。

その代わりに、「最善の相」のような、フワフワっと匂わせるようなワーディングをすることで、特定の対象や表現を炎上させるよう、信者たちを煽る。信者たちの直接的な言動に対して、「それ以上言ってはいけない」と止めるふりをする。こうした流れの中で、炎上はますます広まっていく。

学者の方はこれがうまい。それが借金玉さんのいう「貴人の雅な扇」です。学はないけれどもエネルギーのある田吾作の群れを学術的権威で煽って、自分たちの気に入らないものを炎上させる。

「学術的権威のお墨付きを得た」「これは普遍的な正義なんだ」と勢いづいた田吾作は、ネットリンチなどのメチャクチャな振る舞いをする。学者自身は、「そんなことをやれとは言っていない」「私は何も言っていない」というだけで、責任を取らない。そういうことが、ずっと繰り返されている。

こうした状況に対して、借金玉さんは「『それは複雑で難解な問題で、お前たちがしているような単純な話ではないのだ』というポーズを取った後に具体的な話は何もしない戦術、そろそろ芸風として安定してきたな」とツイートしています。

萌え絵などの表現に対して、フェミニストの皆さんが攻撃をしてきて、それに対して反論すると、「お前は最善の相で読めていない」「アンチフェミが言っているような単純な問題ではない」と言われる。でも、「何が最善の相なのか」「では一体どんな話なのか」という核心については、誰も何も言わない。

こうした学者のやり方を、フェミニストの皆さんも模倣するようになり、「性的消費」や「女性蔑視」という言葉を拡大解釈して、目についた表現をどんどん燃やしていくようになった。

しかし、それをやり続けると、ネタがバレてくる。魔法が尻から出るようになる。これは、『魔法陣グルグル』というマンガに出てくる「訓練をさぼると、魔法が尻から出るようになる」とセリフが元ネタです。

殴り合いをせずに、「貴人の雅な扇」ばかりを振りかざしているので、だんだん元ネタがバレてくる。既に魔法ではなくなり、「尻から出ている別の何か」になっている。

そしてこの後何が起こったかというと、「貴人の雅な扇」に煽られた田吾作たちは、トランスジェンダーの人たちを攻撃するようになりました。

小宮先生がかばったフェミニストも、いわゆるTERF(トランスジェンダーを攻撃するフェミニスト)と見なされているアカウントで、トランスジェンダーの方に対して攻撃的なツイートをしている、とされていました。

学術的権威を振りかざすだけで、核心的なことを言わない人たちは、暴走した田吾作を止める力がない。尻から別のものが出るだけになってしまった。
下品な例えで恐縮ですが、こうした流れが2018年頃にあった、ということは覚えていて頂きたいです。

そこから、「#これフェミ」を開催した2019年に突入します。コンビニの成人向け雑誌が撤去されて、「今度はグラビア雑誌を撤去しよう」とフェミニストの皆さんが盛り上がった時期でした。グラビア雑誌があるせいで、女性差別が学習されている、という主張がなされていた。

それに対して、当時#KuToo運動で売り出し中だったグラビア女優でフェミニストの石川優実さんが乗っかってきて、論争になった。それでイベントをやろう、という流れになったのですが、それと並行して宇崎ちゃんの炎上事件が起こったので、それも取り上げよう、ということになりました。

石川さんと私の両方のフォロワーだった託也さんという方が間を取り持ってくれて、彼を見届け人とする形で、イベントをやることが決定しました。

ハラスメント防止の観点から、司会にはしっかりとした知識のある方がふさわしいということになり、石川さん側の提案で、当時芸能人のハラスメント問題でツイートがバズっていた芸人の小保内さんに司会を依頼しました。当日、小保内さんは素晴らしい司会をしてくださりました。

運営は、借金玉さんが担当してくださりました。総額百万円くらいの予算規模のイベントになったので、これは赤字が出たらヤバいな・・・と思ったのですが、「赤字が出たら俺が全部被る」「トラブルが起きた時の責任もかぶる」と借金玉さんが言ってくれた。

こうしたみんなの力が集まって、イベントを実現することができました。イベントの中身はとても良いものになったと私は思っています。

「#これフェミ」で私が目指したことは、二つあります。一つ目は、フェミニストの方々と対話が通じないという状況が続いてきたので、まず共通の語彙を見つけること。

二つ目は、表現を炎上させられることが、受傷を伴う主観的経験だということをフェミニストの皆さんに知ってもらうこと。オタクの側はすごく傷ついている、ということを分かってほしかった。

当時は、石川さんの#KuToo運動が盛り上がっていたことを受けて、過去のコルセットに対する反対運動で活躍したブルーマー婦人とココ・シャネルの事例を取り上げて、フェミニズム運動の在り様なども議論しました。

ブルーマー夫人は、ブルマの元になる服を作った人です。コルセットを否定して、動きやすい服を作った。これは当時、「カッコ悪い」と非常に評判が悪かった。ブルーマー夫人は、色々な場所で講演を行い「このブルマを着ましょう」と主張した。ところが、息子の授業参観に着ていったら、息子からも「そんな服で来ないでくれ」と怒られた。そこで夫人も着るのを諦めた、というエピソードがあります。

カッコ悪ければ、それがどんなに思想的に正しくても、受け入れられない。一方のココ・シャネルは、フェミニストではありませんでしたが、女性をコルセットから解放するために、当時の女性たちの価値観に合うようなカッコいい服を作った。それが婦人服の元になっているレディスーツで、シャネルの創業の礎になった。

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二人の違いは、「思想的革命」と「自生的秩序」です。思想的に正しいからこの表現物を評価しろと主張するのか、それとも、みんなが自発的に選ぶものを尊重するのか。フェミニストとしての石川さんは、どちらを選ぶのか。イベントの場ではあまり伝わらなかったのですが、私はそういう話がしたかったのです。

結果として、お互いの間では「対話が必要である」という最低限の合意は達成されました。しかし、石川さんが終了後にイベントの内容を否定するようなブログ記事をアップしたので、私の主観では、当該合意は撤回されたと思っています。オタク側も被害者である、という申し立てに対しても、理解は得られなかったと認識しています。

しかし、「対話は可能」という実績は得られたと考えています。やろうと思えばできる。これが最大の成果だったと思います。

「#これフェミ」以降に変わったことは、アンチフェミ界隈の形成が急速に進んだことが挙げられます。2018年までは、フェミニストがおかしな発言をした場合、皆で批判することはあっても、「界隈」を形成するまでには至っていなかった。実際にリアルで人が集まるイベントをしたことで、「こんなにアンチフェミの人がいるのか」と皆が感じるようになった。

そうした中で、アンチフェミの内部で、「フェミニストとは対話をする必要はない」という対話否定派と、私のような対話派との間での対立が発生しました。

フェミニスト側も、「これ以上の対話は無意味だ」という方向に傾くようになってきた。一方で、小保内さんがイベントで対話の技術的な問題を第三者的な立場から見てくれたことによって、対話の技術的な課題に対する一定の知見は得られました。

なぜ対話が必要なのか。ツイッター上でのフェミニストとアンチフェミの対立がこのまま続くと、単なるアイデンティティ・ポリティクスに陥ってしまう可能性が高いからです。つまり、「男VS女」という対立に回収されかねない。

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「全ては男(女)が悪いので、対話の必要はない」となってしまうと、そこで議論が終わってしまう。炎上で被害を受けた人に対して、何の救済措置もなくなってしまう。「敵を倒さない限り、自分たちの被害は無くならない」という認識が広まってしまうと、いわゆるインセルのような人たちが力を持つことになってしまう。

しかし、この社会から男がいなくなる、女がいなくなる、非モテやフェミニストがいなくなる、ということはあり得ない。共生のルールは対話で作るのが最善です。そうしないと、男女の間や人種・思想の間で社会的な分断が起こってしまう。

対話の実現に向けて、フェミニスト側に訴えたい課題としては、まず学者の皆さんにちゃんと対話をしてほしい、ということ。今日は高橋さんも来てくださり、フェミニズム研究者という立場から対話をしてくださっているのですが、もっとこういう場が広がってほしい。何なら、フェミニズム側でも企画してほしい。アンチフェミ側の人間としてサンドバックになれと言われれば、私はどこにでも行きます。

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一方、アンチフェミの側の課題としては、界隈化=集団としてのまとまりが生まれることによって、そしてフェミニストという分かりやすい敵ができたことによって、議論というよりも、敵を倒すことが目的になっている人が増えた。特に「女が悪い」「女に権利を持たせたことが諸悪の根源だ」という言説がまかり通るようになってきている。そうしたミソジニー的な言説をいかに切り離すかが今後の課題になると思います。私もインセル批判のnoteを書いたことがあるのですが、定期的にそうしたことは指摘していかないといけない。

もう一つ、アンチフェミや表現の自由戦士に対して伝えたいことは、「表現の自由棒を振り回すのはそろそろやめよう」ということ。フェミニストの方々が表現を批判する際に、「表現の自由なんだからお前は黙れ」ということを言う人がいる。しかし、表現を批判する側にも、表現の自由はある。では何を言えばよいか。正当な理由なく、自分たちが好きな表現を炎上させられることは辛い、という「お気持ち」を、フェミニストに通じる言葉でしっかりと言語化していくべきだと思っています。

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多様性(ダイバーシティ)が正義である、ということは、フェミニズム側もアンチフェミ側にも共通しています。どちらも、多様な価値観を持った人間が共生できる社会が良いと思っている。

しかし、多様性を正義とするのであれば、自分とは異なる他者=男、女、LGBT、オタク、フェミニスト、ネット右翼など、他者から受ける一定の恐怖や不快といった感情は受忍せざるを得ない。それを生きていくための作法として、両方がわきまえていかないといけないと思います。

他方で、「どこまでも相手を傷つけてもいい」となると、それはそれで問題になってしまう。どこまでの傷つきを受忍するかの線引きは、対話の中で見つけていかないといけない。傷つけたから、傷つけられたから、憎いから、相手とは対話をしません、となると、そこで話が終わってしまう。ヤマアラシのように相互に傷つけあうのは仕方がないが、寛容の精神で、お互いにある程度の傷つきは許容しないといけない。

私の好きな言葉に、「『目には目を』では、世界は盲目になるだけだ」というガンジーの言葉があります。

今のツイッター上では、フェミとアンチフェミ、お互いが「目には目を!」「炎上には炎上を!」みたいになっているのですが、そうなると焼け野原しか残らない。いったんお互いに手を引いて、議論しませんか。私たちはヤマアラシではなく、人間です。相手に言葉を届けることができます。

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『めだかボックス』というマンガに、「あたし達は酷い目に遭ってきた。だから酷いことをしてもいいんだ」というセリフがありますが、それでは何も生まれない。

本日のイベントが、フェミニズム側とアンチフェミ側の対話が始まる一つのきっかけになればいいと思っています。

第一部:「フェミニズムはもういらない」とみんないうけれど。(高橋幸さんのミニ講義)


高橋 私からは、まずアカデミズムの世界から、今のフェミニズムの置かれている状況がどのように見えているかという話をいたします。

1970年代からウーマンリブと呼ばれる動きが起こり、日本で第二波のフェミニズムが盛り上がった。この時期から80年代も含めて、フェミニズムは若者文化と同じように、一種のカウンターカルチャーだった。そのため、過激さや挑発性、戦闘的な姿勢が評価されました。

当時は、女の人が怒る、戦闘的な態度を取る、強い言葉を使うということは、女らしさとは真逆だと思われて、批判されがちだった。だからこそ、ウーマンリブは強めの言葉を使って闘ってきた、という経緯があります。

ただ、現在のフェミニズムは、もはやカウンターカルチャーだと言い切ることはできない、と私は見ています。もちろん、カウンターカルチャーとしてのフェミニズムを継承していくことは重要ですし、「それこそがまさにフェミニズムの醍醐味!」でもあるのですが、現在はそこだけを見てフェミニズムを語ることはできないということです。

大きく3つの異なる「フェミニズム」があると整理できます。一つ目は政府が進めるフェミニズム政策、二つ目はアカデミック領域のフェミニズム(アカフェミ)、そして三つ目がウェブ上でも見られる運動としてのフェミニズム(カウンターカルチャーとしてのフェミニズムもここに含まれます)の3つです。

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政府が進めるフェミニズムは、別名「官製フェミニズム」といわれたりもします。2000年代にはバックラッシュもありましたが、男女雇用機会均等法(1985年)、育児休業法(1991年)、ワークライフバランス政策(2007年~)、女性活躍推進法(2015年)などに見られるように、どんどん政府がフェミニズム的な政策を進めるようになってきています。

これに対して、アカフェミ界では、「フェミニズムは政府にのっとられてしまい、運動の力が削がれてきていて、ヤバいよね・・・。でも、頑張りたいよね」という話をしている人が多いです。

では、アカデミック領域のフェミニズムは現在どのようになっているのかというと、政策系の研究者で、政府の審議会などに入って頑張っていますが、多くのアカデミシャンは、社会思想や哲学、運動としてフェミニズムをやっていくという立場でやっています。

さらに近年では、アカデミックフェミニズムの領域において、「ジェンダー平等は一定程度実現したよね、だからフェミは新しい段階に入っているよね」という現状認識を持つ人たちが男女ともに増えてきた(=ポストフェミニズム)、という社会学的分析も出てきています。宣伝をしてしまいますが、私が今年出した『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』は、そうした状況の中で、さてどうしようか、という本なんですね。

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運動としてのフェミニズムとしては、これまでの組織立った運動に加えて、近年はウェブ上でのフェミニズム活動も、#MeTooなどに見られるように大きな動きになってきました。先ほどの青識さんのお話の中で、「表現の自由戦士」という言葉が出ましたが、英語圏でも、「社会的正義の戦士(Social Justice Warrior、SJW)」と呼ばれる人たちがいます。こちらは、フェミニストの方が「戦士」を名乗っているという状況です。

このようないくつかの異なるフェミニズムが乱立しているのが現状で、大御所のフェミニストの方たちは、SNSで何が起きているかは全然見ていないし、ツイッター上でフェミニズム活動をされている方たちはアカフェミ界で何がどのように論点になっているかはいまいち見えていないという状況であろうと思われます。同じ「フェミニズム」という言葉を使っていても、全然違うものを語っている。そんな状況だと思っています。

今日の議論の大前提として、政府がなぜフェミニズム政策を進めるかを確認しておきたいと思います。

フェミニズム政策推進の背景には、グローバル資本の要請と圧力があります。もっと女性の労働力を使いたいから、女性の社会進出を促してくれ、というわけですね。権力や資本の要請によって、一見するとフェミニズムっぽいのだけれども、本流のフェミニストから言わせると「いや、それって本当に女性のエンパワメントになるわけじゃないんだけど・・・」という政策が行われがちです。

今は、こうした「官製フェミニズム」に対して最大の警戒をすべきだと思います。児童ポルノ規制も含めて、権力にとって都合の良い施策が行われる時に、倫理的・道徳的な正しさを装うために、フェミニズムっぽいイデオロギーが使われる。「こう言っておけば、否定できないだろう」と、正しさを「まぶす」みたいな感じです。これは本当に警戒すべきことだと思っています。個々の法整備についても、きちんとチェックしていく必要がある。

そういう時にアンチフェミ対フェミのような、弱者同士のつぶし合いをやっている場合じゃない。まじで。パワポで初めて「まじで。」って書いたのですが(笑)、フェミとアンチフェミが、日ごろはぶつかり合うことがあっても、本当に重要な時は対話ができる回路を開いておく必要があると思っています。その意味で、本日のイベントのような機会はとても重要だと思っています。

フェミニズムは何を主張してきたのか:経済的自由と性的自由

本題に入ります。「そもそも、フェミって何なの?」という話ですよね。めっちゃ講義っぽい話ですが、ここの原理を押さえておいてもらえると、この後の第二部の話がごちゃごちゃにならない。私はこの原理で考えていて、第二部もこの原理で話すつもりです。

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第二波フェミニズムも、今のフェミもそうなのですが、そもそもフェミニズムが何を求めてきたのかというと、「経済的自由」と「性的自由」、この二つだと考えてもらえると分かりやすいです。これらは、似ているけれども違うことなので、分けておいた方がいい。

「経済的自由」とは、就業機会及びキャリア追求の機会を平等にしてほしい、ということです。労働に関係する自由で、石川優実さんの#KuTooも、こちらに入ると思います。

経済的自由について、いま何が要求されているかというと、性別役割ステレオタイプの是正です。これがあると、女性の労働や男性の家事が進まない。

「性的自由」は、セクシュアリティに関する自由で、女性も性的欲望の主体になることを要求している、ということです。

昔の性解放時代には、「フリーセックスすればいいんだろう」ということで終わっていたのですが、それだけではなくて、女性の場合には、「望まない性的対象化をされない自由」についても問題になってくる。日常生活の中で、そもそも性(セクシュアリティ)に対して良いイメージを持てることや、性的な意味で怖い思いをしないことなども重要なことがらです。

そうした権利主張や要求についても、結局のところ何を求めているのかというと、「性的自由を求めている」と整理すればいいのではないか、と思います。

現在、世間では「今の社会には性差別があるから、変えていく必要がある」と言われています。常識的には、日常生活や職場の中で「性差別はあるよね」と言われたら、とりあえずは肯定しないといけないような空気になっていると思います。

でも皆さんの中には、「性差別って、今もまだ本当にあるの?」という気持ちもあるかもしれません。私がフェミニズムやジェンダー論を勉強し始めた時も、「性差別はある」という前提で話が進んでおり、「本当にあるの?」ということ自体、聞いてはいけないような空気がありました。一度真面目に「現代社会には、本当に性差別があるのか」「あるとしたら、どこがどう差別になっているのか」を考えてみることは大切です。

結論から言えば、やはり差別的な状況は存在しています。「昔は」性差別があってそれを女性が恨んでいるのではなくて、現状だけに焦点を当てて考えてみても、まだ男女間で財の不均等配分があります。すなわち現在でも、性別によって財が不均等に配分されている。これは、性差別的な状況だと言わざるを得ない。

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それでは、具体的にどのような財が・どのように不均等に配分されているのでしょうか。ここでは、「経済財」と時間という「財」、そして性的自由に関わる「財」の3つが不均等に配分されているという話をします。

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まず、男女間の賃金格差(ジェンダーペイギャップ)があります。日本の2018年のデータを見ると、男性の100に対して、女性は73です。初任給レベルでは男女は変わらないのですが、男性は役員に上がって役職がつくので、収入は上がっていく。それに対して、女性は正社員でも男性のようには上がらない。管理職の女性割合が異常に低い日本の現状を考えてくだされば、納得できることだと思います。

それから、このデータを見ると、男女の賃金格差も大きいけれど、正規と非正規のギャップがここまで大きいんだなということも押さえておくべきことですよね。

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次に、時間財の不均等配分として、ここでは賃金労働時間と家事育児労働時間を足し合わせた「労働時間」の長さを見ておきましょう。日本人は長時間労働で有名ですが、総労働時間は男性よりも女性の方がさらに長くなっています(詳しくは掲載したデータを見てください)。

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注目すべきは、平成28年の最新データで見ても、共働き世帯の夫の一日あたりの平均家事時間は一日当たり15分で、専業主婦の妻の夫の平均家事時間が13分という点でしょうか。共働きであっても、夫の家事時間は平均で2分しか伸びていないというのは、一体どういうことなのでしょうか。

はい、つまり、妻が働いていようが働いていまいが、夫は家事をしないということです。これは、女性の「セカンドシフト」と言われてきた現象です。女性は職場での仕事を終えた後、家に帰って二つ目の「シフト」をこなしているという意味ですね。このように、現在でも経済財と時間財が男女間で不均等に配分されている。

ここまでの2つは経済的自由に関する財の不均等配分の話でした。最後に、性的自由に関するものを見ていきましょう。これが今ツイッター界隈で問題になっている「性的モノ化」に関わってくるものです。

性的モノ化=Sexual Objectificationは、たしかにヌスバウムの議論においては「モノ化」(反対概念は「人格化」)という訳語でいいのですが、マッキンノンなどを読むと、「モノ化」ではない話もしており、私は「性的客体化」(反対概念は「性的主体化」)と訳しています。より日本語として中立的な「性的対象化」でもいいのではないかとも思っています。

ともかくも私はこれまでそうやって議論してきているので、本日も「性的モノ化」ではなく「性的客体化」もしくは「性的対象化」という言葉を使っていきます。

男女間では、性的関係における主導権という財が不均等に配分されています。「性的関係における主導権の不均等配分って何?」と思われる方も多いと思いますが、いまから詳しく話します。

データから明確に分かっていることは、そもそも性的欲望をどれだけ持つことができているか(そもそも性的欲望がなければ性的満足もありません)や、性的快楽をどれだけ達成できているかについては、男女間で不均等配分があるということです。セックスにおいて、男性の方が快楽を達成できる割合が高くなっており、女性の割合は低くなっています。

というわけで、「じゃぁ女性ももっと性的欲望を持てるようにしよう、そしてもっとオーガズムに達することができるようにしよう」というのが、一つの「社会的に」目指すべき方向性にはなるのですが、そしてたしかにバブル期の性解放時代にはこの方向性が女性たちによっても追求されてきたのですが、いまツイッター上で活動しているフェミニストの女性たちが問題視しているのはそこではない。

むしろ、女性が望まない場所や望まない形で性的客体化されることの苦しさが問題になっている。つまり、性的関係における主導権(いつ自分が性的対象として見なされたり、見なされなかったりするかをコントロールする力)を女性の方が持てていないということが問題になっているのです。

もちろん、誘われる(=受動性)ことが好きな女性もいます。また、男性の側には「女性は性的対象化されることを嫌がっているとかいうけど、そもそも女性の方が誘ってきたんだ」という認知の歪み(女性の性的主体性を過剰に見積もることによる、男性自身の免罪)がある場合もあります。

この領域においては色々な問題が積み重なっているのですが、全体傾向として女性の方が性的なことにまつわることを楽しいものとしてイメージできず、積極的にもなれず、むしろなんだか日々「搾取」されているような被害の感覚を持たざるをえないということが、問題なわけですね。これが現在、「女性の性的モノ化」として告発されていることであろうと思われます。

皆さん、チャットでたくさんコメントしてくれていて嬉しいけど、ごめん、見れない(笑)。とりあえず先に進みます。

「性的モノ化」問題の根底には何があるのか

高橋 もう一歩、この論点を深めましょう。女性の性的対象化(性的客体化)の何が問題なのかということなのですが、前提として、エロティシズムにおける男女の非対称性があることを理解する必要があります。おそらくそこをきちんと掘り返して考えていかないと、話が堂々巡りになってしまうんじゃないか、という感じがしています。

エロティシズムとは、「エロさの論理」から成り立っています。「エロい」という気持ちは感情であり、「何をエロいと感じるか」は、論理によって成り立っている。こういうシチュエーションで、こうなるとエロい、という論理がある。本能のように思えるけれど、論理によって成り立っている。

それを学習しているから、コンビニでグラビア女優の素敵な写真をパッと見て、「うわっ、エロい」と思える。エロさの論理という言葉を今日は使っていきます。

スクリーンショット (146)

エロさの論理は、男女非対象に成り立っています。少なくとも一般的に流通しているエロさの言説においては、性的対象化されることの意味は、男性と女性で違っています。

どのように非対称になっているか。個人差はあることが知られていますが乱暴にも全体傾向としてこうなっているということで喋ってしまうと、一般的には、男性にとってセックスとは気持ちいいものだし、楽しいものだし、ちょっと背徳感もあるものだと思います。自分の欲求を満たす主体になる、主体化するということでもある。

また比喩として、相手を「陥落させる」とか「攻め落とす」といった戦争や征服の表現で語られることもある。男性は、性的快楽の文脈にのった時は攻める主体になれる。こうしたことが、今あるエロさの論理になっていると思います。

女性にとってのセックスは、まず恐怖感が大きく、それから実際に物理的な痛実を伴うことも多く、そして最近はより若い世代を中心に妊娠、性病等に対するリスク感覚を強めているということもが、JASEの調査で分かっています。セクシュアリティの研究者は、この3つ(恐怖・痛み・妊娠のリスク)を言うのがテッパンです。ただ、それに加えて、私が一番大きいと思うのは、女性の場合、男性よりも、性欲が先に立つことが少ないということ。十代の調査を見ると、特にそう。

男性の場合は、二次性徴を経験する時に、異性でも同性でも、自分が性的欲望を持てる相手を見た時に、性器が反応する。女性の場合、自分の好きな相手を見たとしても、そこで分かりやすく身体的な反応が起こるわけではない。性的な欲望の学習パターンが違っている。

まず性欲があって、そこから性行動が起こる、ということにはならず、しかし、何か強い感情が湧き、それを多くの場合、「恋愛」だというような精神的な解釈をするので、女性の場合にはセックス=愛の証明だという意味づけをしがちになります。そうした男女の非対称性は色々とあります。

またセックスにおいては、女の側は「征服された側」になる。そういう感覚を、なぜか持たされる。誰かとセックスしたときに、女性本人は「うん、良いセックスをしたなぁ」と感じたとしても、それを他人にしゃべった瞬間に、例えば「攻め落とされちゃったのね」とか「やられちゃったのね」とか言われることがある。

ここらへんは、ギデンズという社会学者が『親密性の変容』という本でも論じていますので、興味のある方は読んでください。

女性にとっての性的自由とは、性的主体になれることや性(セクシュアリティ)に対して良いイメージを持てること(積極的自由)もありますが、望まない性的対象化をされないことや性的な意味で怖い思いをしないこと(消極的自由)もあります。

前者はバブル期から言われてきましたが、後者は最近の#MeToo以降の議論で、主題になっていることです。今我々が真面目に考えるべきことはこの両方の自由を男女ともにどのように確保していくかということだと考えています。

広告における女性表象の問題

高橋 皆さんとしては「OK、3次元の話は分かった。でも、2次元の女性と3次元の女性はどう関係しているのか」と感じておられるかと思います。その疑問に答えるために、「なぜある種の広告が問題になるのか」を整理します。

まず女性は、自分と同じ女性が描かれている広告を見た時に、その広告の性別や年代(属性)との共通性を通して、「これって自分だ」「自分と関係がある」と認識する。認知機能は、自分に近いものを認識する、という傾向があるので、関連づけて見てしまう。

公的な空間で女性がエロい風に描かれているものを目にすると、「自分もこういうふうに見られているかもしれない」ということに、そこではじめて気づく。意識させられる。その時、異性愛の男性のエロさの論理をパッと理解する。小さいころからそういうものを見せられて、「男の人って、女性をこういうふうに見て、快楽を得ているらしいぞ」と感じる。こういう形で、二次元と三次元がくっつく。

そのエロさの在り方が、女性本人にとって望ましいもの、自分の期待通りのものだったりすると、「そのように見られて嬉しい」と感じることもありますが、本人にとって望ましくない場所やタイミング、公的空間での性的なまなざしは、恐怖になります。

今の話、「納得いかん!」ということでしたら、後でまた蒸し返してもらっても構いません。萌え絵広告炎上問題で問題になっているのは、公共空間に何を置いていいかという問題だと思うのですが、ここまでの論理に基づくと、公共空間に置かれる女性表象物で、(私が理解している限りでの)フェミニズムの原理から問題視されるものは、二つです。

一つ目は、経済労働問題=「経済的自由」に関わる、性別ステレオタイプ(役割分業)を描いているもの。及び、それを強化するように働きそうなもの。

二つ目は、セクシュアリティ=「性的自由」に関わるもので、女性の身体を過度に性的に描いているもの。

「それが本当に問題なの・・・?」「過度って何・・・?」と、皆さんすごいモヤモヤしていると思うので、それについては第二部で議論しましょう。

本日議論したいことは二つあります。私自身、「ここを明らかにしたい」と思っているところでもあるのですが、広告において、どのような性表現が良くて、どのような性表現がダメなのかを、話し合いを通して、明瞭にできるところまでを明瞭にしたい。

前提として、一般的なフェミニストは、萌え絵を広告にすることが悪いとは全く思っていません。そんなことは誰も思っていない。多分ですが(笑)。はい、主語を大きくしないようにしましょう。少なくとも、私は思っていません。

でも、広告においては、性差別やセクシズムにつながる表現は抑制してほしい、配慮してほしいとは思っている。だからこそ今、ツイッター上で議論になっていると理解しています。

具体的に、基準が出せるようであれば出せたらいいけれども、私は漫画表現やアニメ表現の専門家ではないので、その点は専門家の人たちが詰めてほしいと思ってはいます。服はなるべく透けさせない、過度に肌に張りつかせない・・・とかですかね。これ、考え始めると「スカートの長さは短すぎないように」といった校則みたいになってくるのですが。

女性が嫌がっている顔と困り顔は避ける、というのはポイントだと思います。人間は、ある程度文化普遍的に表情から相手の感情が読み取れるということが分かっているので、女性が嫌がっていると受け取れるような表情は避けましょうというのは、一つの基準として頑張れば、作れるかもしれません・・・。

男性の性的自由

高橋 もう一つは、男性の性的自由、性的欲望についても、一歩踏み込んで考えてみたいです。萌え絵の話は、女性の性的自由の話ばかりになっていますが、男性の性的自由はどうなっており、どうしたらいいのか。その辺はいまいち議論が深まらないなぁと思っていて、ちょっと問いを投げ込んでみたいなと思っています。

私の本でも草食系男子のことを書いたりしているのですが、オタク表現界隈で発揮されている、毒性のある男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)が一体何なのかを考えてみたいです。逆に、「問題のない男らしさ」とは何のかについても考えてみたいです。男らしさ=全部悪だと言っているような人はいないので。

トキシック・マスキュリニティは毒なので、それを飲み込んでしまっている本人が苦しいし、最終的にはそれによって男性自身が死を招き寄せてしまう。もっと望ましい、伸ばしていくべき男らしさとは何なのか。

私自身の考えとしては、フェミニズムはセクシュアル・ヘルス/ライツの原理を掲げているので、男性の性欲も女性の性欲もまずは肯定、というのが基本の方向性です。性欲に付随する背徳感や汚らわしさを払拭しようとしてきたのがフェミニズムです。

それを踏まえた上で、男性の性欲表明の何が問題なのかを考えていきたい。性欲そのものと、性欲の表明の仕方を区別すべきです。性欲そのものは問題があるわけではないが、性欲をどのように表明すればよいかについては男女間の権力性が絡んでくる問題。女性の方が部下で職業上の地位が低かったりすると、社会的地位の高い男性(上司など)が、自分の欲求を満たす形で女性に押し付けることができる。フェミニズムは、こうした性欲表明の権力性を問題にしてきました。そのあたりも考えたいです。

もう少し具体的に言うと、男性において性欲はなぜか攻撃的感情と混同される傾向があります。どちらもアドレナリンが出るからだと思うのですが、そこを切り離す必要があるのではないでしょうか。攻撃的な性欲の表明、これがトキシック・マスキュリニティなのであれば、萌え絵の広告では、女性が嫌がっている顔、困り顔をしている表情は避けた方が良いのでは、と思います。以上です。

第二部 ネット論客と研究者が一緒に振り返る、公の場での性表現と萌え絵をめぐる炎上事件簿

2013年 人工知能学会「家事をする女性型アンドロイド」のイラストが炎上

青識 本日ご参加の皆様はよくご存じかもしれませんが、人工知能学会の学会誌の表紙に箒を持って掃除をしているアンドロイドの女性の絵が使われて、炎上しました。

燃えたポイントは、電源コードがつながれていて、束縛されているように見えるということ。あとは先ほどの高橋さんのご講義でもありましたように、性的役割分業を想起させるものであったことです。

学会誌はパブリックな存在であり、学会全体を牽引しないといけないような存在であるにもかかわらず、そういうイラストを出すというのは意識が低いのではないか、という批判が出ました。

この中で特徴的なのは、学会での事件ということで、アカデミズムの人が積極的に発言したことが炎上の一つのポイントだと思います。私がチラッと見た感じでも、さえぼうさん、鈴木謙介さん、小宮友根さん、千葉雅也さんが発言していた。スプツニ子!さんなど、アルファの方が一斉に批判をして、すごく燃えました。

2015年以降の自治体の萌え絵キャンペーンの炎上に、この人工知能学会の炎上が参照されて、アカデミックな権威付けとして利用されることになります。後々の炎上にも影響なので、これはとても大事な事件だと私たちも捉えています。

高橋 これは先ほどの私の講義でお伝えした「経済的自由」問題で、性別役割分業のステレオタイプだからよくないよね、という話になると思います。

ただ、ジェンダー系の方々がこの表紙にツッコんだのは、ジェンダー論ではそもそも、最新の技術領域などの「新しさ」をまとった領域において、なぜか執拗に古臭いステレオタイプが繰り返されるという法則のようなものがあることが、知られていたからではないかと思います。

特にAIやロボットなどにおいて「人間らしさ」を追求するときに、既存社会の古臭い性別役割を真似してしまうというのは、良くない悪循環です。そのためにジェンダー論者らは、すごく警戒したという背景があります。アニメや漫画、ゲームが炎上の標的にされやすいのも、そうした理由があるからだと思います。

青識 正直、この事件に関しては、アンチフェミや表現の自由戦士も、そこまで過剰反応しなかった。学会の話なので、「学術的に問題がある」と言われれば、「まぁ、そうですよね」で終わる。萌え絵攻撃だという印象も、そこまでなかった。そのため、この事件そのものよりも、この事件が後に与えた影響の方が大事なのかなと思います。

2014年 三重県志摩市の海女の萌えキャラ「碧志摩メグ」が炎上

青識 この事件のポイントは、自治体系の萌え絵炎上の発端になったことです。第四波フェミニズムを名乗る「明日少女隊」というフェミニズム団体が関わって、署名運動が起こった。これが表現の取り下げを求める署名運動のアーキタイプだと思うのですが、最終的には7000筆の署名が集まった。結局、碧志摩メグは志摩市の公認が取り消しになり、フェミニスト大勝利の凱歌になった。それで味を占めた皆さんが、次々に炎上事件を起こしていくようになります。

この事件では、アカデミシャンは割と沈黙していた。RTを好意的にするくらいで、積極的に発言をする人は少なかった。ただ一人だけ大物、社会学者の北田暁大さんがいっちょ噛みしていたんですね。

高橋 えぇ。

青識 北田さんが「性的搾取であることは間違いない」というようなことを言ってしまって、それに対して、中川譲さんという情報学者の方が「何を言っているんだ」「どこが性的搾取なのか言ってみろ」と批判する一幕もあった。

署名キャンペーンの文言も面白くて、「乳首が透けている」とか書かれていたので、「どんなに拡大しても乳首は見えないぞ」と皆で検証する動きも出ました。

萌え絵に無理解な人たちと、萌え絵に愛着を持っている人たちがぶつかった。ある種のシンボルウォー(象徴戦争)になったというのが、この一件だったと思います。高橋さん、フェミニズム的にはどうお考えになりますでしょうか?

高橋 フェミニズム一般ではなく、「私が理解するフェミニズムにおいては」という前置きをした上での感想になりますが、碧志摩メグは難しい問題だなと思っています。これ、座っているバージョンがあるじゃないですか。あれはなぜかけっこうエロい感じがするのですよ、上からの視線だからなのかな。立っているバージョンは問題ないと思います。個人的にとても微妙なところなんですよね、これ。

青識 確かに、小宮先生の論考でも、「上からの視線はダメ」というのはありました。あと「思わせぶりに髪をかき上げる仕草はダメ」とも書かれてありました。

高橋 小宮さんの論考って、そういう言い方でしたっけ? まぁ文章の精読は今日はおいておきましょうか。

そもそも海女さんは服を着て海に入られるので、服は肌についてペタッとなるんです。だから、肌に張りつくように服を描くのはリアリズムなのだという論理は成り立つ。理由のある肌ペタです。しかし、だからといって、服が肌に張りついているキャラクターを公的広報の表現物に採用していいのか、という論点が浮上してきます。この案件が論理的に面白かったのはこのあたりですよね。

さて、私としては、やはり過度に服が肌に張りついている広告表現は、一律に配慮をお願いした方がいいと思っています。たとえ、それが海女を「リアルに」再現した服装であっても、です(そもそも二次元と三次元は違うと言っていた人たちが急にリアリズムという論理を繰り出してくる感じとかが楽しいですが)。

青識 確かに座っているバージョンはエロティックな感じがあるのですが、オタク特有の表象読解の問題があって、「上からの視線」で碧志摩メグを性的なものとして利用している、という批判は、オタク側としては受け入れがたい。それはそういうキャラクターで、そういうポーズであるだけだ、という話になります。

高橋 「そういうキャラクターだから」ということは、また後の議論でつながってくると思いますが、ひとまず次に行きましょう。

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