見出し画像

なぜ『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)』を企画したのか(坂爪真吾)

2020年12月5日(土)17時~に開催予定の『「許せない」がやめられない』出版記念トークイベントファイナル:シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)、おかげさまで150名超の方に参加申し込みを頂いております!

画像1

参加申し込みをしてくださった皆様、そして登壇をご快諾くださった青識亜論さん(@BlauerSeelowe)&高橋幸さん(@Schnee05)のお二人に、改めて感謝いたします。

高橋さんが「なぜ今回の #シンこれフェミ をやるのか」についての記事+ウェルカムメッセージの記事を書いてくださりました(ありがとうございます!)

青識さんも、noteで当日の議論のベースとなる記事を書いてくださっています。

これは主催の私も書かねばなるまいッ・・・!ということで、つらつらとnoteを書きたいと思います。

イベントの開催趣旨は、告知ページに書いた通りです。またツイッターフェミニズムをはじめ、SNS上でのジェンダーをめぐる炎上について、私の言いたいことは、全て拙著『「許せない」がやめられない』に詰め込んだので、未読の方はそちらをお読みください。

画像5

この記事では、それ以外の点に焦点を絞って書きます。

1.なぜ私が企画したのか

1-1 「普通に死人が出るレベル」という現実

いきなり重い小見出しですが、ご容赦ください。

今回のイベント=シンこれフェミは、「フェミニストとアンチフェミの対話の場を作る」ことを目指しています。

私自身は、公の場で「フェミニスト」とは名乗っていません。公の場での性表現の是非をめぐってツイッター上で熱心にフェミニストと戦っている「表現の自由戦士」でもなければ、フェミニストへの敵愾心や憎悪を燃やす「アンチフェミ」でもありません。

そのため、フェミニストとアンチフェミの対話の場を作る、という今回のイベントの趣旨からすると、双方の陣営から「なぜお前が主催するのだ」と突っ込まれるかもしれません。その点を、まず簡単に補足します。

私はNPOの世界で生きている人間なので、社会課題をどう解決するか、という視点で物事を考えることが多いです。

『「許せない」がやめられない』にも書いた通り、フェミニスト、あるいはアンチフェミ、表現の自由戦士、いずれの立場であるかに関わらず、SNS上で「許せない!」という怒りを燃やして、誰かや何かを叩くことがやめられなくなっている人たちは、社会課題の解決を妨げている存在であると同時に、その存在自体が社会課題そのものである、と私は考えています。

「社会課題とは大げさな」「具体的にどんな問題があるんですか」と思われる方もおられるかもしれませんが、「許せない」がやめられなくなった人たちによって引き起こされる問題を一言で言えば、「死人が出る」ことです。

拙著の中でも数々の事例を紹介しましたが、「許せない」がやめられない人たちの振る舞いは、既に「議論」や「批判」と呼べるような水準を超えて、「無差別の暴力」になっています。

本来、議論のテーマと無関係の人たちにまで、一方的に「社会の敵(パブリック・エネミー)」というレッテルを貼り、正義という名の棍棒で一斉に叩く。

「許せない」がやめられない人たちから一方的に「敵」認定され、ネット上で言葉の暴力を浴びせられることで、社会的評価や地位を失ったり、精神的に追い詰められて死を選ぶ人は、確実に増えています。

私自身も、被害者の一人です。

障害者の性や性風俗の領域でNPOとして事業活動・情報発信を行っている私は、嫉妬と被害妄想に駆られた障害学会界隈の研究者や活動家、セックスワーク・スタディーズ界隈の活動家や風俗ライターから、長期にわたって様々な誹謗中傷や名誉棄損、盗撮やデマの拡散、ネットリンチ、著作権侵害や営業妨害などの被害を受けました。

<参考記事>

最終的には、『「許せない」がやめられない』のあとがきに書いた通り、訴訟を起こして解決したのですが、私が受けた被害は、(他人事のようにサラッと書いてしまいますが)普通の人なら確実に自殺するレベルだと思います。仕事先や大切な家族にも危害を加えられました。加害者の固有名詞、そして「障害学会」「セックスワーク・スタディーズ」という単語を見るだけで、未だに吐き気がします。

私は、幸運にも家族と弁護士の支えがあったおかげで死なずに済みましたが、今のネット上に蔓延している「許せない」という怒り、それに基づく悪意と言葉の暴力の嵐は、一個人の命を簡単に奪えるレベルまで、一瞬で増幅します。

どれだけ心身を鍛え上げたプロレスラーや格闘家でも、メンタル筋力が常人よりも数倍強い芸能人や政治家であっても、時速200キロで突っ込んできたダンプカーと正面衝突すれば確実に即死するように、ネット上で増幅した悪意の集合体に勝てる個人は存在しません。

今のSNSは、そうした「時速200キロで走るダンプカー」が、ブレーキの壊れた状態で暴走している状況だと思います。いつ、どこで、誰が被害に遭うか分からない。そして、被害に遭ったとしても、「批判されるようなことをしたお前が悪い」と責められてしまう。もしくは「自分が悪い」と思い込まされてしまう。

SNS上では、毎日のように炎上やバッシングが起こり、数時間~数日で忘れ去られていきます。「1か月前にツイッターで炎上していた話題」を覚えている人は、ほとんどいないでしょう。

しかし、一つ一つの炎上の陰には、心無い言葉を大量に浴びせられることによって、深く深く傷ついている「生身の人間」が必ず存在しています。

第三者にとっては、わずか数時間~数日の出来事、どこにでもある&すぐに忘れてしまうような炎上事件だったかもしれませんが、被害を受けた当事者の傷は、場合によっては一生残ります。ネット上で膨大な悪意と言葉の暴力を全身に浴び続けた結果、場合によっては死を選んでしまう人もいる、という事実は、決して忘れてはいけない。

燃やした側はすぐに忘れるかもしれませんが、燃やされた側=自分の大切なものを公衆の面前で罵倒され、踏みにじられた側の人は、多くの場合、一生忘れません。消えない憎悪と殺意が胸に刻み込まれ、そこから暴力の応酬が起こります。

SNS上の「議論」によって、「普通に死人が出る世界」「毎日、当たり前のように、誰かの尊厳や社会的評価が踏みにじられている世界」「憎悪の連鎖と暴力の応酬が起こっている世界」になっている現状は、個人の問題として済ませられることではありません。

それはもはや、「議論」「学問」「社会運動」といった人聞きのいい言葉で取り繕うべきではない。社会病理=社会の問題として捉えて、何らかの処方箋を打ち出すべき、というのが私の考えです。

1-2 「怒りのキメラ」を止められないアカデミズム

「ブレーキの壊れた状態で暴走しているダンプカー」の主要な燃料の一つになっているのが「ジェンダーやセクシュアリティをめぐる怒り」です。

「女が許せない」「男が許せない」「性差別が許せない」「LGBTが許せない」「トランス差別が許せない」「萌え絵が許せない」「性表現(規制)が許せない」などなど、こうした怒りの構造については、『「許せない」がやめられない』で詳細に分析しました。

画像2

お読みくださった方はお分かりになると思いますが、『「許せない」がやめられない』は、私が被害を受けたセックスワーク・スタディーズ界隈の活動家の言動を因数分解して作った本です。

画像6

『「許せない」がやめられない』のキーワード「怒りの万引き」は、セックスワーク・スタディーズ界隈のLGBT活動家が用いる「私の怒りを盗むな!」という決め台詞(迷言?)から着想しました。

当事者であることを主張し、被害者であることを装い、マイノリティを恣意的に代弁して、他人の怒りを盗むことに夢中になっている人ほど、自分自身が他人の怒りを盗んでいることに無自覚なまま、他人の怒りを自分の怒りと勘違いして、「私の怒りを盗むな!」と叫び続ける傾向があります。

セックスワーク・スタディーズを因数分解すると、「男が許せない」「女性差別が許せない」「弱者に行儀の良さを求めることが許せない」というツイッターフェミニズムの怒り、「性的マイノリティに対して無理解なフェミニストが許せない」「トランス差別が許せない」というクィア・スタディーズの怒り、「表現の自由を侵害することが許せない」「性表現規制が許せない」という表現の自由戦士の怒りなど、ツイッター上に存在する様々な「許せない」が浮かび上がってきます。

いうなれば、SNS上の全ての怒りが魔合体した「怒りのキメラ」です。

<参考記事>

こうした怒りのキメラに思考を奪われた人たち=「許せない」がやめられなくなった人たちは、自分たちのやっていることに学問的な装いを施したがる傾向があります。感情論や私怨ではなく、あくまで「論理」と「社会正義」で動いているのだ、と自分に言い聞かせたいのでしょう。

客観的に見れば、学歴コンプレックスと学問コンプレックスという私怨の発露以外の何物でもないと思うのですが、やたらと「なんとかスタディーズ」と名乗りたがったり、怪しい「統計的事実」を持ち出したり、自分でも意味や定義を理解できていないような専門用語や分析概念、舶来の横文字を使いたがる人、ツイッター上にはたくさんいらっしゃいますよね。

こうした人たちに対しては、本来、アカデミズムの世界の人たち=研究者が「いやいや、あなたたちのやっていることは、学問でも何でもありませんよ」「学問は、特定の信念集合を正当化するための手段ではないですよ」「ちゃんと学問をしたいのであれば、ツイッターの匿名アカウントで学術用語や統計を濫用してイキるのではなく、まず大学・大学院に入って勉強してね」「っていうか、学問なめんな」とツッコミを入れるべきだと思います。

しかし、「勇気を出して声を上げた(自称)弱者や(自称)当事者」を批判することのうしろめたさ、そして絡まれたら面倒なことになりそうな「声の大きな活動家」から攻撃されることへの恐れもあって、そうしたツッコミ作業を表立って行う研究者はほとんどいません。

「許せない」がやめられなくなった人たちの言動は、一見すると「政治的に正しい」「フェミニズムやリベラルの思想信条に沿っている」ように見えるので、それを批判するとかえって面倒なことになる=自分にも火の粉や流れ弾が飛んでくる、という理由もあるのでしょう。

アカデミズムによって「お墨付き」を与えられた(ように見えてしまう)怒りがSNS上で暴走しているのに、アカデミズムの世界で生み出された言葉が誤用・濫用・悪用されているのに、誰も何も言わない。もしくは、ツイッター上でそういった惨状になっていることすら、知らない。知ろうともしない。

結果として、ツイッターフェミニズムやツイッタークィア・スタディーズ、セックスワーク・スタディーズや表現の自由戦士のような、思想や学問の皮を被った「怒りのキメラ」が跳梁跋扈し、「許せない」がやめられなくなった人たちがそこかしこに溢れて、多くの被害者と加害者が生み出され続ける・・・という悪循環が延々と続く。

被害者の一人としては、「完全に、アカデミズムの怠慢だよな・・・」「これはさすがに無責任だよな・・・」と思わざるを得ません。

「学問を語る(騙る)迷惑な人たちは、学問の世界の人たちで責任を持って始末してくれませんか?」とお願いしたいところですが、研究者の方々にも、それができない理由があります。

『「許せない」がやめられない』でも事例を上げましたが、研究者が、ツイフェミやクィア・スタディーズ、セックスワーク・スタディーズや表現の自由戦士界隈のアカウントや活動家から苛烈な攻撃を受けるケースは、少なくありません。

ネットリンチやデマの拡散、シンポジウムや学会発表を装った嫌がらせや吊し上げなどの被害に遭った研究者の中には、SNSでの発信をやめてしまったり、精神を病んでしまった人もいます。

しかし、ほとんどの被害者は「所属先の大学に迷惑をかけるといけないから」「世間体が悪いから」という理由で、泣き寝入りしてしまう。明らかに著作権侵害、名誉棄損のような被害を受けていたとしても、何もできない。

「許せない」がやめられなくなった人たちに攻撃された場合、研究者や大学教員の方は、防御も反撃もできないまま、一方的に殴られ続けるしかないことも多い。

また非常に嫌な話ですが、アカデミズムの世界における自分の論敵や怨敵を陥れるための手段として、「許せない」がやめられなくなった人たちを「鉄砲玉」として、間接的に利用している研究者もいます。

「鉄砲玉」たちの言動が一線を超えて暴力化し、制御不能になった場合、「私は無関係」という顔をして、しれっとその場から立ち去る。焼け野原に残るのは、「鉄砲玉」になった人と「鉄砲玉」で撃たれた人の屍だけ。

ジェンダーをめぐるツイッター上での論争や炎上には、「研究者同士の代理戦争」という側面もあるはずです。

余談ですが、今回のシンこれフェミの告知記事をWANに掲載してもらったのところ、なぜか数日後に何の通告もなく削除されました。削除理由の説明を求めても、全く返信がない状態です。

アンチフェミのイベントならともかく、「これからのフェミニズム」を考える真面目なイベントが、一方的に削除されるってどうよ。「ぜんぶ青識のせいだ。」とつぶやきたくなりました(笑)。

WANの対応、明らかに不誠実で問題のある対応であり、公開質問状案件(笑)だとも思うのですが、個人的には「中の人たちも大変なんだろうな・・・」と思ったので、特にそれ以降問い合わせ等はしておりません。WAN自体も、「鉄砲玉」が飛び交う「研究者の代理戦争」に散々巻き込まれている被害者なのでは、と思うので。

こうした背景を考えると、大学教員をはじめとした研究者が対話の場を作る、ということは、残念ながら現実的ではないと思います。

1-3 対話の場を作るために必要なものは、戦闘力

前置きがとても長く&重くなってしまいましたが、ここで颯爽と登場するのが、我々NPO(公益活動を行う非営利組織)です。

フリーハンドでしがらみがないので、自分たちの目指す理念の下、オープンな議論の場を作ることができる。行政のような公的機関でもないので、「よくも税金でそんなことを」「よくも公共の施設でそんなことを」などの難癖をつけられるリスクもない。

いざというときは、世間体やら所属組織の事情やら公平性の原則やらを一切気にせずに、問題のある人をすみやかに退場させることができる。

ゲストや参加者の皆様の安心と安全を守った上で、リングの上で思う存分に議論を戦わせることができる。

その意味で、「許せない」がやめらない人たちが増加の一途をたどっている今、こうしたイベントを開催することは「NPOの仕事」=新しい公共をつくるための重要な仕事になるのでは、と考えまして、僭越ながら企画した次第です。

2019年11月に青識さんがこれフェミを企画・開催された時、「こ、これは(色々な意味で)すごい」と衝撃を受けたのと同時に、「本来であれば、これはフェミニストや研究者のやるべき仕事だよな・・・」と感じました。

『これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会』というタイトルのイベントを、フェミニストではなく、アンチフェミ(とされている)側が全てをお膳立てして開催する(せざるをえない)状況、どう考えても「フェミニズムの敗北」では。

青識さんがあらゆるコストとリスクを個人で背負って(そしてイベント終了後、見事にちゃぶ台返しを食らって玉砕&大炎上してしまって)いるにもかかわらず、青識さんの実践を評価する研究者やフェミニストは、ほぼ皆無だったと思います。それはちょっと違うんじゃないか。

「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」という格言がありますが、他者に「自覚」や「対話」を求める人ほど、自分も他者から同じように「自覚」や「対話」を求められることを、全く想定していない。「撃たれる覚悟」もないのに撃ちまくっている人が多すぎでは。

匿名アカウントで安全圏から「対話すべき」とツイートすることは誰にでもできますが、実際に意見の異なる他者との対話の場を作るためには、多大なコストとリスクが発生します。誰にでもできる仕事ではありません。

そして、対話の場を作ろうとする人は、「対話の場を作られてしまうと都合が悪い人たち」から攻撃される運命にあります。

ちなみに、私がセックスワーク・スタディーズ界隈の活動家から攻撃されたのも、「対話の場を作ってしまったから」です。

「怒りのキメラ」に脳をジャックされた人たちによって汚染されていた国内のセックスワーク論を浄化するために、弊社では様々な意見や立場の人たちが安心・安全に集い、性労働に関する議論や対話をできる場として「セックスワークサミット」というイベントを立ち上げました。2012年の開始から8年間で、延べ1000人以上の方に参加して頂いています。

画像3

こうした対話の場が増えてしまうのは、「許せない」がやめられない人たちにとっては、死活問題です。対話によって「敵」とのコミュニケーションや和解が実現してしまえば、怒りが消えてしまう。

そもそも「敵」ではない相手=自ら作り出した仮想敵と熱心に戦っていた人、自分たちのイデオロギーを広める手段として、マイノリティ・当事者・被害者を都合よく利用していた人たちにとっては、なおさらです。

対話の場ができてしまうと、自分たちが当事者や被害者であることを装い、大きすぎる主語を用いてマイノリティを恣意的に代弁していたことがバレてしまう。

そして何より、怒りという麻薬をキメることによってどうにか見て見ぬふりを続けてきた「見たくない現実」「見たくない自分の姿」を、嫌でも直視せざるを得なくなる。それだけは、絶対に「許せない」。

それゆえに、対話の場を作ろうとする者は、「対話の場を作られてしまうと都合が悪い」人たちから、執拗に攻撃されることになります。彼ら・彼女らにとっても、「絶対に負けられない戦い」になるため、必死です。虚言やデマなど、ありとあらゆる手段を使って、十八番である「印象操作」や「歴史修正」、「放火」を仕掛けてくる。

そのため、対話の場を作ろうとする者は、自衛のための戦闘力と情報発信力を身につけることが必須になります。逆説的な表現ですが、対話のためには戦闘力が要る。力なき正義は無力です。

弊社も、実際に民事訴訟を一通り経験して、「許せない」がやめられない人たちの手口と対処法については、あらかたラーニング(青魔法を学習)しました。彼ら・彼女らの問題点を12万字程度の分量で分析・書籍化して、全国の書店に並べるだけの情報発信力もあります。

今回のイベントも、「対話の場を作られてしまうと都合が悪い人たち」からあれこれ批判されるかもしれませんが、ゲストや参加者の方々に対して一線を越えた批判や攻撃をしてくる輩に対しては、躊躇なくストレートな方法を取らせて頂きますので、よろしくお願いいたします(にこやかな笑顔)。

2.なぜ青識さんと高橋さんをゲストに選んだのか

2-1 「本物のフェミニスト」のカッコよさ

以上、長くなってしまいましたが、「なぜ私が企画したのか」について説明してきました。

以下は、「なぜ青識さんと高橋さんをゲストに選んだのか」について、説明します。

青識さんについては、前述の通り「これフェミ」という対話の場を作った功労者であり、出版記念イベントをする際にはぜひお声掛けしたいな、と出版前から考えておりました。

『「許せない」がやめられない』の執筆に当たって、過去10年分近くのツイフェミのツイート、及びジェンダーをめぐる炎上関連のツイートを読み込むという地獄のような苦行(もう二度としたくないです・・・・!)を行ったのですが、ツイフェミ的な動きを批判する論客としては、松浦大悟さん(元参院議員)、柴田英里さん(現代美術作家)、青識さんのお三方がずば抜けて面白かったので、お声掛けをさせて頂きました。

*松浦さんは第1回目、柴田さんは第2回目の出版記念トークイベントにご登壇頂きました。

青識さん、私から最初に連絡があった時は相当警戒されたと思いますが(笑)、イベントへのご登壇、そして「これフェミ」というタイトルを使わせて頂くことについてもご快諾いただき、ありがとうございました。

ツイフェミ界隈では悪名が轟いている(笑)青識さんですが、ご本人は非常に紳士的かつ思慮深い方なので、リアルでお話をお聞きした際の印象は、ツイッター上とはかなり異なると思います。そのあたりのギャップも含めて、当日の議論を楽しんで頂ければ幸いです。

そして、高橋幸さん。今年6月に『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房)を上梓され、「ポストフェミニズム」という視点から若い世代の性別役割分業や性行動の意識調査、SNSにおけるハッシュタグ・ムーブメントなどの分析をされている気鋭の研究者です。

社会学理論とジェンダー理論を専門にされているので、「社会学」や「フェミニズム」という言葉が本来の意味とはかなり異なる形で用いられているツイッターの歪んだ言説空間を中和するためにも、今回のイベントにはまさに適任の方だと思います。

「適任の方だと思います」などと偉そうなことを書いてしまいましたが、今回のシンこれフェミ、高橋さんがOKしてくださらなかったら、そもそも開催自体が不可能でした。もう「圧倒的感謝っ・・・・!」と連呼するしかありません。

昨年派手に大炎上したイベントの続編に、「ファーストペンギン」として登壇してくださる勇敢な研究者の方は、フェミ業界広しといえども、なかなかいないはず。まして、対談相手はツイフェミ界隈では「悪の枢軸」(失礼)として名高い「あの」青識亜論。舞台は「超」がつくレベルのアウェイ。研究者のお仲間からも、あれこれ忠告や制止を受けたはずです。

そうした中、「アンチフェミのフィールドワークになれば」という軽やかな姿勢でご登壇を快諾してくださった高橋さん、フェミニスト&研究者&社会学者の鑑だと思います!後光、差しまくりです・・・!!

ツイッター上で「フェミニスト」という言葉のイメージが地に落ちて久しいですが、ツイッターで熱心にフェミニストを批判している男性の中で、実際にリアルでフェミニストの女性に会ったことのある人、ほとんどいないのではないでしょうか。会ったこともない相手を批判するのは、カッコ悪いですよ~。

「一週間待ってください。本当のフェミニストをお見せしますよ」と美味しんぼの山岡士郎のようにつぶやきたくなりますが、イベント当日には、高橋さんが「本物のフェミニストのカッコよさ」を見せてくださると期待しております。

(オンラインイベントではありますが)生まれて初めて会った「ファースト・フェミニスト」が高橋さんで良かった、という男性参加者の声がたくさん届くはず、とワクワクしております。

というわけで、『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房)をまだ読んでいないという方は、今すぐにAmazonでお買い求めください。ご登壇くださった高橋さんへの感謝の気持ちを、「著書の購入」という行動でダイレクトに伝えましょう!!

スクリーンショット (100)

打ち合わせの中で明らかになったのですが、青識さんと高橋さん、実は以前から運命的なつながり(因縁?)があったそうなので、気になる方は、イベント終了後の懇親会でお聞きになってみてください。

2-2 三位一体で立ち向かえ

後出しじゃんけんのような分析で恐縮ですが、前回の「これフェミ」、うまく行かなかったのは、登壇者の中に研究者がいなかったからなのでは、と思います。

インフルエンサーや社会活動家の得意技は「動員」であり、決して「対話」ではありません。お互いに「どういん」コマンド一択しかない場合、煽りやレッテル張り、印象操作の応酬になり、そもそも議論になりません。泥仕合が続くだけです。

「たいわ」コマンドを使える職業は、研究者です。

研究者は、「戦うための土俵」=議論のルールや前提が存在しない世界、すなわち全員が場外乱闘の泥んこプロレスをしてるような世界では、その力をほとんど発揮できません。あらゆる文脈が捨象されるツイッターの140字の世界では戦えない。140字の世界の先住民=「許せない」がやめられない人たちに晒されたり、煽られたりして、うまく利用されてしまうのが関の山です。

しかし、きちんとした「土俵」のある世界では、研究者は無類の強さを発揮します。そして議論のルールや前提を踏まえた上で、自分と意見や価値観の異なる他者と、人格否定や感情論の応酬にならない形で、冷静に意見交換を行うことができる。そのための専門的な訓練を積んでいる。

そう考えると、「フェミニストとアンチフェミの対話の場を作る」という目的を達成するためには、NPOが土俵を作り、その中でガチの研究者とインフルエンサーのネット論客が議論をする、という三位一体のスタイルが最もふさわしいのではないでしょうか。

こうした対話の場を作り、議論の質を高め、各所で質の高いコミュニケーションの総量を増やしていくことができれば、「許せない」がやめられない人たちを減らし、SNS上での被害者や加害者の増加にも歯止めをかけられるはずです。

そうした実践と議論の積み重ねによって、社会課題としての『「許せない」がやめられない』は、きっと解決できるはず。ジェンダー・セクシュアリティに関する公共的な議論の場をつくることができれば、これからのフェミニズムにも大いに貢献できるはず。私はそう考えています。 

長々と書いてしまいましたが、本記事を読んで「どんなイベントになるか、観てやろうじゃないか」と思われた方は、ぜひ!お申し込みください。

シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)、皆様のご参加、お待ちしております!

 ⇒参加申し込みはこちら!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?