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男とか女とか

「あいうえおnote」の「お」は「男とか女とか」。

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東京オリンピック関連の、最近のどたばたで、
女性が、云々、女性を、云々、
女性+てにおは、な発言と文章が飛び交っている。

女性を「長」にするとか、
組織の構成員の何パーセントを女性にするとか、
そういうことって、実は大した解決にならないと思う、私は。

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数日前、話題作の「ザリガニの鳴くところ」を読み終わった。

これは、”ザリガニが鳴くような奥地” の湿地帯で過ごした、
主人公カイヤ(女性)の生涯が、
ミステリー仕立てで語られている小説なのだけれど、
その記述のなかでは、作家自身が動物学者であるために、
様々な生き物の生態についてが、非常に詳しく説明されてもいる。

*人間の愛には、湿地の生物が繰り広げる奇怪な交尾競走以上の何かがあると気づかされた。
*人間のねじれて曲がったDNAのなかには、生存を求める原始的な遺伝子が、いまなお望ましくない形で残されていることも知った。
(p.498)

メインのストーリーに交じって、
昆虫・鳥・動物のオスとメス、そして、人間の男と女、
それぞれの関連性と相違が記されているこの小説で、
私は改めて、私自身が、
男と女についてどう考えているかを考察するキッカケを得た。

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ヒトが地球に誕生し、ヒトの子孫を残してきた長い長い歴史のなかで、
その身体の相違から、当然、男と女の役割は異なってきた。
身体的能力が圧倒的に勝る男と、
子どもを体内で育てる子宮を持ち、出産をし、乳をあげる女との、
その進化と発展の間では、世界中のどこの国においても、
相当の男尊女卑は生まれ、今もそこそこ根付いてもいる。

その男尊女卑は、それぞれの時代で、それぞれの地方で、
異議を唱えられることはあったとしても、静かに容認されつつもあった。
それは仕方ないことだったと思う。

ヒトは長い間「生き延びること」に精一杯だったのだから。

でも、地域差はあるけれど、多くの国で、或いは、地域で、
「生き延びる」より高等な生活ができるようになり、
今となっては無秩序だったかもしれない高度成長期を経て、
「人間って最高かも!」という超お気楽な、
生に対して天狗な生活を手に入れた後で、
「地球という星そのもの危機」も感じられるようになりつつある今、

男がどうの、女がどうの、
などといっている時期は過ぎてない?
そんな場合じゃあ、もうなくない?

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私は、思うのだ。
今の時代に一番大切なのは、
「人としてどうあるか」ということではないかと。

必要なところでの、必要な人は、
そこに必要な能力を持った人が、そこに必要なことを担えばいい。
ただそれだけだ。

そこに古い時代の男女の偏見を入れることはもったいない。
人としての根底の能力の差は、性別に関係ないのだから。
ただ、向くことと、向かないことがあるだけ。

性別なんて関係ない。
もっと自由でいい。
ジェンダーフリーという言葉だって、そこには不必要になる。
それが、ヒトではなく、知性をもった、人、人間のあるべき様なのだから。

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人をいう字は、一画目と二画目が支えあう。
せっかくこのような漢字がある日本だもの
第一画と第二画が、男だって女だっていいじゃない。
ともに正々堂々、50% & 50%、
たまには、10% & 90%、30% & 70%,
男とか女とか関係なしでいいじゃない。

人として懸命に生きること。
まっとうな生き方をすること。
それだけがきっと大切。

そして、最近とみに思うことは、
人として何が大切か、を知っているだろう人の顔は、
とても素敵だということ。
上手く言葉で説明はできないけれど
深くて、穏やかで、でも厳しさもある、そして優しい顔。
たまにだけれど、いらっしゃる。
その方に、見とれてしまう。

そういう方は、きっと
男とか女とか
そんなことには囚われていないと、私は思う。
そして、私もいつの日か、そういう自然なひとになりたい。

     ・・・・・ end ・・・・・

タイトル画像:夫のネクタイ&時計と、私の化粧品の一部。
今回の投稿の風刺画像。

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