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フィンガー シークレット «chapter 9»

26歳の誕生日が過ぎ、律子は就職活動を始めた。新聞の求人欄を調べ、ハローワークに通い、自らの力で仕事を探す。
律子は強くなりたかった。父の中の弦が、どれほど奇妙な音を鳴らそうとも、動じない自分になりたかった。

5月の末、律子は法律事務所の事務として職を得た。新しい律子がそこにいた。

再就職の初日、律子は多忙だった。小さな法律事務所は、慣れた事務の女性が突然退職したために、律子を待ちわびていたのだ。容赦ない量の雑用が、律子を迎える。だが、その状況は律子にはありがたかった。

律子がいないと溜まる仕事。目の前のやらなくてはいけないことを、黙々とこなす。届け物やら、書類の受け渡しやら、外出も多い。自然と人との出会いも多くなる。それまで律子が苦手としていた、臨機応変な人付き合いも少しずつ会得した。

日々は慌ただしく過ぎて行った。


年が過ぎ、奏子も響子も大学を卒業した。

人というものは、自らの意志と、ある程度の時間があると変わることができる。律子は、この数年間、奏子を見てつくづくとそう思った。

高校時代、いかにも自分に自信がなく、活発な響子を羨ましく思ってばかりいた奏子。だが、高校卒業と共に、奏子は響子をも卒業した。双子の姉妹という枠から抜け出し、1人での道を自分の力で模索していったのだ。
響子のような華やかな生き方とは違っていたが、ひとつひとつのことを確実にこなし、その都度に新しい目標を定め、それをまた自分の力とする。積み重ねて積み重ねて、奏子は大きく成長した。

いくつかの英語検定試験で高いレベルの点数をマークし、その力を生かして、奏子は外資系の証券会社に入社した。さすがの父も、奏子の実力を認めないわけにはいかなかった。
律子は、奏子の成長を心から喜び、誇りに思った。


就職という点では、もうひとつ驚いたことがあった。それは響子である。
もって生まれた度胸と決断力、そして美しさ。大学時代もその魅力を存分に生かし、父母のお咎めも適当にかわし、自由に毎日を過ごしていたように見えた響子。そんな響子がいったいどのような道を選ぶのか、律子も興味深々だった。

就職活動の時期を迎えたある日、響子は父に言った。

「お父さん、お願いがあるの。お姉ちゃんにお世話したみたいに、私にもどこかの会社を紹介してちょうだい。お父さんが選んだところなら、どこでもいいから」

響子の願い入れは、あまりに唐突だった。家族全員が驚いた。父でさえも、驚きの表情を隠せなかった。
そして父は、律子の退職の際に迷惑を被ったことを愚痴ったけれど、結局は響子に会社を世話した。

それまで自由奔放に人生を進んできた響子が、ここにきて父に従う道を選ぶ。いったい何が響子をそうさせたのか、律子には見当もつかなかった。そして、ちらりと伺う父の顔には、満更でもなさそうな笑みが浮かんでいた。


奏子の仕事の力量は大したものらしい。同期の男子社員に引けを取ることなく、仕事をこなし、残業も男性並みで毎晩遅い。だが、奏子に辛そうな様子は全くなかった。

翌年の夏、奏子はアメリカの本社に転勤を命じられた。入社2年目の快挙である。予想外の速さで、家族が1人家を出た。


奏子のアメリカでの生活も落ち着いてきた頃、ある日、律子の法律事務所に響子から電話が入った。
用事があってすぐ近くまで来ている、一緒にランチはどうかという誘いだった。もちろん承諾。

お店選びから注文まで、相変わらずの要領の良さで次々と響子が決める。律子は何もする必要がなかった。6歳も離れた妹とは全く思えない。生きる力と生き抜く術は、昔から律子よりはるかに上等なのだ。

たわいもない話をしながら食事を終え、コーヒーが運ばれる。

「お姉ちゃん、いい男はできた?」

響子はにやにやしている。
さすが響子だと、律子は感心してくすっと笑った。その拍子に柳を思い出した。

「キョウちゃんのそうやって意表をつくところ、柳さんに似てるわ」

「ちょっとお姉ちゃん、何年たったと思ってるの? まだ柳さん?
お姉ちゃん、今年は20代最後の年でしょ? いい男なんていっぱいいるんだから。柳にとらわれているなんて、幽霊ばあちゃんになっちゃうよ」
響子は手を垂れ、高らかに笑った。

柳の木の下の幽霊ですか、私は。それも一理あるな。

「ほらほら、柳のこと考えるのはもう終わり。男は柳だけじゃないんだから。何度言ったらわかるのかしらね」

本当にどちらが姉でどちらが妹なのかわからない。おむつを替え、ミルクを飲ませたこともある妹が、姉をたしなめる。人間なんて年齢じゃないなと律子はつくづく思う。
響子のように、何事も軽やかに考えることができたなら、自分の人生ももっと違ったものになるのかもしれない。律子は、その昔の奏子のように、響子を羨ましく思った。

「ところで本題に入ってもいい?お姉ちゃん」

響子が言った。律子は驚いたが、頷いた。

「あのね、私いい男を見つけたのよ。で、今回は本気なの。それほど価値のある人。だから今夜、お父さんに切り込むわ。お姉ちゃん応援してね」
響子は満面の笑顔だった。

そうか、とうとうそういう時が来たのだ。父はまた、あの険しい顔をするだろう。だけれども、律子は響子を守りたかった、父から。本気で。
響子には、今まで通り苦労なんてさせたくない。のびやかに、明るく人生を歩んでいって欲しい。

「わかったわ、キョウちゃん」

律子は覚悟を決めた。場合によっては父と争うことも決意した。

また1人、あの家から家族が出ていくのも近いわね。律子は思った。そして、仕事をうまく調節して定時退社をした。
父は、前日まで出張に出ていたので、早めの帰宅だろうと響子はよんでいたのだ。


家族4人の夕食。最近は、揃っての夕食の機会がかなり減った。そして、そう遠くない時期に4人は3人になるだろう。律子はそう考えながら箸を進めていた。

響子には何ら変わった様子はない。いつも通り半分テレビに夢中だ。父も同じ。そして母は、父のビールの量を気にしてばかりいた。
緊張しているのは、相変わらず自分だけか。律子はそんな自分が可笑しくなった。

夕食がひととおり終わった。のんびりとした夜で、皆まだ席についたままだ。響子が律子の方を見た。いくわよ、と言わんばかりのやんちゃな眼をした。

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