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フィンガー シークレット «chapter 5»

「ハルさんて、確か東北出身でしたよね? 言葉に全然出てませんね」

テニスコートの脇にある藤棚の下で、律子の同期の男子部員が尋ねた。
そうか、東北なんだ。東北ってどこの県?律子はそっと思う。

「んだんだ、あぎただ。あの、おっがねなまはげのとごだ。
 泣ぐ子はいねが~?悪い子はいねが~?」

突然、柳が大声で言った。一瞬の沈黙。その後、大爆笑が起こった。
律子は生まれて初めて聞く生の秋田弁に驚いたが、気が付くとお腹を抱えて笑っていた。

「ここは東京だから、一応、気取らないとな。突っ込むなよな~」
柳は笑う。

「ハルさん、真に迫ってましたよ。やるなあ」
男子部員が言う。

あまりに可笑しくて、涙をこぼしながら笑い転げていた律子は、ふと視線を感じた。
柳が自分を見ていた。目が合った。柳はにこりと微笑み、言った。

「りっちゃん、そうやって笑ってた方が断然いいよ」


律子の毎日は変化していた。
好きな人がいるということは、こんなにも楽しいことなんだ。律子の生活に、新鮮な風が吹き込んだ。

柳との関係に何か進展があったわけではない。また、特別それを期待するわけでもなかった。
それまでどおり、会社では柳の姿を目で追う。ラッキーな日は、廊下ですれ違い、声をかけられ、軽くたわいもない話をする。コートでは、間近に柳の存在を確かめ、会話を聞く。律子は、そのような時間に満足していた。


年末になり、初めての忘年会を迎え、年も新しくなった。

寒い冬が過ぎ、陽射しが暖かくなった3月。柳が住んでいる独身寮からコートまでの道に、春の花が元気よく生え始めた。
木や花が好きな律子は、歩きながらよく道の草花を観察する。東京でも郊外に位置するその場所には、住宅街にはあまり見られない草もあった。

律子はスギナを見つけた。練習が始まるまではまだ時間がある。
「きっと近くに、つくしもあるはず」
律子はかがみこんでスギナの近くを探す。
「あ、あった」
見つけたつくしは、まだ小さい。
「たくさん生えてきたら摘み取って、卵とじもいいかもね」
律子は思う。
そして、また目を移す。
そこには、薄紫の小さな花が群れていた。幼い頃によく見た花、懐かしい。
「もう少し背丈があったら、小さなかわいい花束ができるのに」
そんなことを思いながら、その花の群を順々に追いかけた。

「オオイヌノフグリだな」

突然、頭の上から声が聞こえた。柳の声だ。
「りっちゃん、オオイヌノフグリの意味知ってる?」

見上げると柳が笑っていた。
オオイヌノフグリ。そうか、そんな名前だったなこの花。でも意味はわからない。正直に言う。

「知らない」

柳の眉が動き、目がキラキラとする。

「やっぱり知らないか。あのな、犬のきん・・」
きん、の後のふた呼吸は、声に出さずの頷きだけ。

「きん?」
律子は考える。きんの後のふた呼吸。

「あっ」
思いっきり目を閉じ、天を仰ぐ。

「そうそう、き、ん、た、ま」
柳は堂々と言って、にやりと笑う。

律子はやられた、と思った。そうだ、聞いたことある。答えられずちょっと悔しい。だけど、わかったからといって声に出して言えただろうか。それを考えると可笑しくてしかたなかった。
律子は、くくくくくとお腹を抱えて笑った。またもや止まらない。

「りっちゃんは、やっぱりそうやって思いっきり笑っている時が一番いいね。いつものおすましさんより、ずっとりっちゃんらしいよ」

律子はハッとした。
柳の言葉が、律子の心のなかのどこかを鳴らした。目を伏せる。ふうと小さく息を吐く。肩の力がすっと抜ける。律子は、無防備にも自分の素の姿を柳の前にさらけ出したのだ。そんな自分に驚き、戸惑い、でも緩む。

20数年の人生の中で、律子には意識して習得した技があった。それは、自分の感情をセーブすること。律子は自分の真っすぐな喜怒哀楽をうっかり表に出すことで、幼い頃から繰り返し苦しい思いをしてきた。その経験からの自己防衛反応。

だが、柳の前では意味をなさなかった。自らが意識する前に、律子は素直な自分を出してしまうのだから。
「この人の前なら、ありのままの私を出しても平気? 私を認めてくれる?」
そんな気がした。また、柳の前ではそんな素の自分でありたいとも思った。

律子の心のうちを、まるで読み取ったかのように柳は続ける。

「今度、一度2人で食事をしようよ。もっとりっちゃんの笑顔が見たいから」

律子は柳を見つめた。目が潤んだ。私を受け入れてくれる人がここにいる。
こくりと頷いた。


好きな人ができ、その人も自分に好意を持ってくれている。なんて幸せなのだろう、律子は思った。
だが同時に、そのような状況をそのまま喜んでもいいのかと不安になる。もしも、今のこの気持ちが家族の誰かにバレてしまったら、どんなことが起こるか、それを想像するとたまらなかった。胸が締め付けられた。

「あのお母さんが、お父さんがわかってくれるはずがない」
血相を変える両親が目に浮かぶ。怒りの声が聞こえる。

律子は、自分がようやく持てた素直な気持ちを大切に守りたかった。素直な感情をそのまま出せる相手ができたことを、守らねばと思った。

3月の半ば、柳との食事の日が来た。

いつもの柳の雰囲気から、恐らく気軽なお店だと律子は予想していたのだけれど、柳が律子を連れていったのは、日比谷公園の中にある洋風一軒家のレストラン。
スーツ姿の柳。初めてのデート。律子はひどく緊張した。

美しい内装と調度品。料理はフレンチのコース。ナイフとフォークを扱う柳の手と指の美しさが際立つ。

柳も、最初は少し緊張した様子だったが、間もなくいつもの調子になり、自分のことを話し出した。
硬式テニスを始めた高校時代のことから始まり、中学、小学校時代へとさかのぼり、父母のこと、2人の妹のこと、家は自営の小さな機械部品工場で、それほど裕福でななかったこと、地方の国立大卒業だということ、東京には今回の転勤が初めてということ。
面白おかしく、時に真面目に柳は続けた。

律子の緊張もいつの間にかほぐれ、声を出して頷き、笑った。それが心地よい。

「柳さん、指綺麗ですよね」
律子は思い切って言ってみた。

「え、指?そうかな?」
自分の指を見つめる柳。

「はい、とっても。私、指の綺麗な男の人っていいなって思うんです。柳さんの指は特別綺麗。間違いないです」
律子は、ありのままの気持ちを伝えた。

「指を認められる男って、なかなかいないだろうな。でも、なんだかりっちゃんらしいよ。ありがとう」
柳は嬉しそうだった。
「ところで、柳さんってやめようよ。ハルでいいよ」

店を出て、駅に向かう。公園の中を歩きながら柳は言った。

「りっちゃん。俺は、りっちゃんの本当は素直で真っすぐなところが好きだ。いつも俺の近くで笑っていてくれたらいいなと思う。よかったら真剣に付き合ってもらえないかな」

律子は嬉しかった。大好きな柳がそばにいる。ここにいる。律子は大きく頷いた。

柳が律子の手を取る。
その瞬間、律子の身体に電流が走った。律子は思わず立ち止り、自分の手が柳の手の中にあるのを確かめた。

公園のライトが2人を照らしている。
柳の美しい手が指が、律子の手を包んでいる。ずっと見つめ続けていたあの指が、本当にここにある。

涙が律子の頬をぽろぽろと落ちた。
柳の手に優しく力が込められた。

この手を絶対に放したくない、と律子は思った。

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